第二十二話 先に帰る人
水門の奥から聞こえた二度の音は、それきりでは終わらなかった。
夜が深まるにつれ、石を叩くような音が何度か水の流れに混じった。レオはそのたびに火のそばから立ち上がり、水門へ駆け寄った。
「ミリア! そこにいるのか!」
返事はない。石の向こうで水が跳ね、しばらくすると、また小さな音がする。
カノンも水門の前で耳を澄ませた。水路を伝わった音なのか、別の時刻から届いたものなのか、それさえ分からなかった。レオは石に片手をつき、もう一度妹の名を呼んだが、声は冷たい水音に吸い込まれた。
夜明け前、近くの小屋から水門の番人がやって来た。二人が入口を調べていると知ると、石の継ぎ目を指して教えてくれた。
「そこに泥が詰まってるだろう。洗い流すと、奥の音が少し聞き取りやすくなる。昔は向こう側と合図を送り合ったそうだ」
カノンとレオは交代で苔を剥がし、溝に詰まった泥を掻き出した。水は骨まで冷えるほどだった。レオの爪の間に土が入り、カノンの指も赤くなったが、作業をやめる気にはなれなかった。
レオが石を三度叩いた。
間を置いて、奥から三度、鈍い音が返ってきた。
「……聞こえたか?」
「ああ。三回だった」
レオは唇を噛み、もう一度石へ手を伸ばす。
「ミリアは、俺が三回叩くと二回で返すんだ。子どものころ、部屋の壁越しによくやってた」
「なら、今のは……」
「分からない。あいつじゃないのかもしれない」
今度は三回叩いても返事がなかった。レオはしばらく拳を石に当てたまま動かなかった。
カノンは何も言わず、銀時計を開いた。確かめられることから調べよう。そう決めて、古い水門の印を手帳へ写していく。
入口が開くのは夜明けの短い間だけだ。時計に現れた日付は、ミリアが白い道へ入った日の少しあとを示していた。レオが三年探し続けたとしても、向こう側のミリアが同じ三年を過ごしたとは限らない。
水門は狭かった。二人で肩を並べる余裕はなく、古い図面には、通路の両側にある留め具へ同時に触れると扉が閉じると記されている。一人が通ったあと、もう一人まで入れる保証もなかった。
「俺が行く」
レオが言った。
カノンは図面から目を離さなかった。予想していた言葉だ。それでも、実際に聞くと胸の奥が重くなる。
「向こうに戻る道の印はない」
「分かってる」
「音の主がミリアとは限らない。もし違ったら、別の場所を探す必要がある」
「それも分かってるよ」
レオは火のそばに腰を下ろし、残っていた薪を一本くべた。炎が上がり、濡れた外套の袖を照らす。
「三年前、あいつが道へ入るのを俺は止められなかった。今度こそ、見つけたいんだ」
カノンは水門へ目を向けた。幅を広げる方法も考えた。だが石の枠を無理に動かせば、上の水路を支える金具まで外れてしまう。向こうに人がいるなら、崩れた水門へ押し流すことになる。
半年前の自分なら、何とか二人で入れないかと、夜明けまで別の仕掛けを探しただろう。今は、試してはいけない方法があることも分かる。
「俺はここに残る。扉が閉じるところまで確認して、次にいつ開くかを調べる」
レオが顔を上げた。
「止めないのか?」
「お前が行く理由を、俺が決めることじゃない」
「心配は?」
「してるに決まってるだろ」
思ったより強い声が出た。
「戻れるか分からない場所へ、友達を一人で行かせるんだぞ」
レオは驚いた顔をし、それから火を見た。
「……友達、か」
「嫌なら取り消すけど」
「取り消すなよ」
短い笑い声が、火のはぜる音に重なった。
カノンは鞄から折りたたんだ図面を出した。半年のあいだに書き込みが増え、角が柔らかくなった紙だ。川の曲がり角はレオの字で、道がつながる日付はカノンの字で書いてある。余白には、雨宿りした小屋の絵が小さく描かれていた。
「これ、持っていけ。向こうで水門が閉じても、出口を探すのに使える」
「半分、お前の記録だろ」
「だから渡すんだ。写しは俺が持ってる」
レオは図面を受け取ったが、すぐにはしまわなかった。端の落書きを見つけて、指で軽くこする。
「これ、俺が描いたんだったか?」
「お前じゃないなら俺だな。そんなに絵が下手だった覚えはないけど」
「じゃあ、お前だ」
二人で笑い、レオは紙を丁寧に折って袋へしまった。
やがて、レオが言った。
「三年先の俺には、もう会ったんだよな」
「ああ。採石場でな」
「その俺は、ちゃんと歩けてたか」
「歩けてた。生意気な口も利いてたよ」
「そりゃよかった」
カノンは笑いかけて、すぐに表情を戻した。
「でも、ここから先のことを俺は知らない。お前がどんな道を通って、どこでアリアに会うのかも」
「妹と会えたかどうかも?」
「その話は聞かなかった」
レオは頷いた。少し残念そうだったが、それ以上は尋ねなかった。未来の自分が生きているという事実と、目の前の扉を通る怖さは、別のものなのだろう。
夜明けが近づくと、レオは懐から木の櫛を取り出した。歯が二本欠け、長く握っていたところだけ色が濃い。
「会えたら、最初にこれを見せようと思ってた」
「喧嘩のこと?」
「うん。壊したのを黙ってたって、ちゃんと謝る」
レオは欠けた歯を見つめた。
「でも、あいつの顔を見たら、そんなことどうでもよくなるかもしれないな」
「それなら、それでいいんじゃないか。何から話すかは、会ってから決めればいい」
「お前もアリアに会ったら、そうするのか?」
カノンはしばらく考えた。
「まず、どうして帰れないのか聞くよ。俺が勝手に連れ帰ろうとしたら、また困らせるかもしれない」
「理由が分かったら?」
「一緒に考える。俺だけが残ればいいなんて、簡単には言いたくない」
「……忘れるなよ、今の言葉」
「お前もな。妹に会えたからって、自分の帰り道を諦めるな」
レオは櫛を外套の内側へしまった。
水門の上に、髪の毛ほど細い白い線が浮いた。
「開くぞ!」
カノンが時計を確かめる。昨夜読んだ日付と同じだ。けれど、思っていたより早く石の継ぎ目が光り始めた。二人は荷物をつかみ、濡れた石段を駆け下りた。
水門の石が左右へずれる。奥には苔むした別の水路が続き、こちらとは違う湿った空気が流れてきた。足元の水の向きまで、扉を境に変わっている。
レオは入口で足を止め、一度だけ振り返った。
「カノン。また会おうな」
「ああ。次は剣を向けるなよ」
「お前が怪しい図面を持って歩いてなければな」
レオは笑って水門へ踏み入った。
カノンは石の枠へ手を添え、留め具に衣服が引っかからないよう見守った。ここで無理に引き戻したら、彼がどんな顔をするか分かっていた。
そのとき、向こうから声がした。
「……レオ?」
レオの足が止まった。
水路の奥で人影が動く。長い髪の少女が、低い石段から立ち上がった。カノンには顔までは見えない。けれど、レオはもう迷わなかった。
「ミリア……!」
少年が駆け出す。握っていた櫛をかばうようにした手が石の角に触れ、乾いた小さな音がした。彼は気づかず、少女へ向かって走り続けた。
白い扉が狭くなり始めた。
向こうでも少女が駆け寄った。二人が抱き合う姿が、一瞬だけ見えた。
「櫛、まだ持ってたの?」
少女の声が、水門を抜けて届いた。
レオは何か答えた。けれど、カノンには聞き取れなかった。閉じかけた扉の向こうで、少女が笑ったように見えた。
次の瞬間、白い線が消えた。
水門は元の石壁に戻り、流れる水の音だけが残った。
カノンはしばらく動けなかった。石に触れていた手から、少しずつ力が抜ける。
ミリアだった。折れた櫛のことを知り、レオの名を呼んだ。二人は確かに、同じ場所へたどり着いた。
それから先のことは、まだ分からない。向こうで無事に暮らせるのか、帰る道が見つかるのか。水門が閉じた以上、今すぐ確かめる方法もなかった。
それでもカノンは、石から離れられずにいた。
ふと足元で光るものに気づいた。水門の縁に、小さな木片が挟まっている。
拾い上げると、細く削られた櫛の歯だった。折れた断面は新しい。レオが走り出したときに聞こえた乾いた音を思い出す。
「……また壊したのかよ」
思わず漏れた声に、返事はない。
カノンは小さな歯を手帳の紙に挟んだ。次に会ったら返してやろう。きっとレオは、妹に直してもらったと自慢するだろうから。
日が高くなってからも、カノンは水門の目盛りを調べ続けた。次にいつ開くのか。同じ日付へつながるのか。それを確かめようと、番人にも古い記録を見せてもらった。
だが、銀時計は一度も動かなかった。石を叩いてみても、返ってくるのは水路を流れる水の音だけだった。
夕方、昨夜の焚き火の跡を埋めた。火を囲んだ石を元の場所へ戻し、忘れ物がないか確かめる。水門の脇には、レオが歩くときに使っていた木の棒が残されていた。
表面には、二人で調べた道の数だけ刻みがある。いつから数え始めたのか、もう思い出せない。途中からはレオの方が勝手に印を増やして、カノンが帳面と数を合わせることもあった。
持ち帰ろうとして、やめた。
水門の横の、流れにさらわれない場所へ立てかけ直す。レオが戻ってきたとき、見慣れたものが一つくらいあった方がいい。
荷をまとめて歩き出しかけ、カノンはふと口を開いた。
「次は、どっちへ……」
答える相手がいないことに気づき、言葉が止まった。
半年間、地図を開けば向かいに誰かがいた。水路のことを教えれば、レオは村の道を教えてくれた。意見が合わなければ、言い合いにもなった。
今は風でめくれた紙を、自分で押さえ直すしかない。
町へ戻る道が開くまで、カノンは近くの集落に泊まった。水門の番人にはレオとミリアの名を書いた手紙を預けた。もし二人がこちらへ戻ってきたら、村を経由して知らせてもらえるようにするためだ。
「道の先が違えば、届かんかもしれんぞ」
番人は念を押した。
「分かっています。それでも、お願いします」
カノンは同じ内容を手帳にも残した。預けた手紙が届かなくても、次にこの水門を調べるときには分かるようにしておきたかった。
夜、一人で宿の机へ向かうと、聞いておけばよかったことがいくつも浮かんできた。ミリアの好きな食べ物。レオが妹と喧嘩した日のこと。ふたりが子どものころ、壁を三度叩いて遊んでいた家の場所。
今さら思いつくことばかりだ。手帳の余白に短く書いておく。次に会えたら、聞けばいい。
その横には、アリアから残された言葉を書き写した頁があった。
『まだ来ないで』
『私を見つけても、連れて帰らないで』
『ここまで来たなら、戻って』
何度読み返しても、素直には受け取れない言葉だった。自分だけが遠ざけられていると思う夜も、今なおある。
けれど、もしレオが水門の向こうから戻り、カノンに「危ないから来るな」と言ったとしても、それが友人を拒む意味だとは思わないだろう。そこに何があるかを知らなければ、言葉の意味も分からない。
カノンは銀の花を包んだ布を取り出し、修理された留め具を確かめた。
三年前の採石場で会った二十歳のレオは、これをアリアから預かったと言った。今、水門の向こうへ進んだ十七歳のレオは、これからどこかで彼女と会うはずだ。
自分はまだ知らない、二人の時間がある。
花をしまい、手帳を閉じかけたとき、もう一つの頁が目に入った。古い石橋でエドガーと別れた日に、互いに写し合った帰る予定だ。
最後にエドガーから便りが届いて、半年ほど経っている。戻ると記した日付も、とうに過ぎていた。
西の工房で何を見つけたのだろう。道が閉じたのか、別の時刻へ出たのか。返事がない理由をいくつ考えても、確かなことは一つも増えなかった。
カノンは地図を広げ、老人が向かった西の道を探した。これまでレオと一緒に調べた水路の線から、そこへ続くものを選び出す。
水門には、妹を追って先に行った友人がいる。
そして別の道では、まだ戻らない人がいた。
カノンは古い青い布を机に置き、帰りの入口が開く日付を確かめた。レオへ預けた手紙の写しと、エドガーの帰る予定を書いた頁を手帳に挟み直し、旅の荷をまとめた。




