第二十三話 白い砂漠
二十一歳の夏、カノンは白い砂漠でエドガーと再会した。
砂漠に入って三日目だった。陽の光を受けた砂は白い石灰の粉を撒いたように眩しく、遠くの岩山は熱で輪郭を揺らしている。風が吹くたび、歩いてきた足跡が薄れていった。
カノンは外套で口元を覆い、手帳に写した水路の位置を確かめた。西の工房から続くはずの古い線が、この砂の下へ伸びている。エドガーが残した最後の記録を追って、ようやくここまで来たのだ。
白い丘の陰に、青い布の端が見えた。
初めは旅人が落とした荷物だと思った。水筒でも残されていないかと近づき、砂から出た布を引く。すると、その下に人の腕があった。
「……エドガーさん?」
カノンは膝をついて砂を掻いた。見覚えのある青い外套と、砂にまみれた白髪が現れる。
「エドガーさん!」
老人の片目がゆっくり開いた。
「……耳元で怒鳴るな。まだ聞こえる」
「生きてるなら返事してくださいよ!」
「今、しただろう」
いつもの憎まれ口だった。カノンは笑いかけたものの、喉の奥が詰まって声にならなかった。石橋で別れてから、こちらの時間で三年ほどが過ぎている。便りが途絶えてからも一年余り、行方を知る者はいなかった。
エドガーは頬が痩せ、髪にも白いものが増えていた。八百年前の塔で出会った、さらに年老いた彼の姿が一瞬重なる。それでも目の奥の鋭さは変わっていない。
「立てますか」
「立てる。少し休んでいただけだ」
「砂に半分埋まって?」
「風除けにはなるぞ」
軽口とは裏腹に、身体を起こすエドガーの手は震えていた。カノンが水筒を差し出すと、老人は一口飲み、そこでようやく背後を指した。
「私だけじゃない。下に三人いる」
丘の斜面に、砂で隠された石の切れ目があった。覗き込むと、古い地下通路の中に三人の旅人が身を寄せている。若い夫婦と、片脚に布を巻いた男だった。
隊商からはぐれた夫婦が、怪我をした男を助けて砂嵐を避けたのだという。地下には古い道が残っていたが、途中で入口が崩れ、元の方角へは戻れなくなった。エドガーは別の線を調べている途中で三人と出会い、出口を開く仕組みを探していたらしい。
「一晩、支えが外れないよう見ていたんだ。お前の足音がしたから外へ出たら、急に膝が言うことを聞かなくなった」
「だったら、休んでたんじゃなくて倒れたんでしょう」
「細かいことを言うようになったな」
カノンは返事の代わりに、残りの水を旅人たちへ分けた。再会を喜ぶのは、ここから出られてからだ。
地下へ降りると、通路の奥で石が軋んだ。天井の割れ目から細い砂が落ち、男の足元に小さな山を作る。風がやむたびに静かになるが、その静けさも長くは続かない。
残された出口は、石枠に囲まれた古い道だった。白い線が一度だけ瞬き、すぐに消える。カノンが銀時計を開くと、針が揺れ、向こう側につながる日付を拾った。
「行き先は読めます。でも、どれだけ開いているかまでは……」
「そこは仕掛けを調べるしかない。私は一晩、線が現れる間隔を測った」
エドガーが小さな砂時計と、数字を記した紙を取り出した。白い枠は一定の間隔で脈打つように明滅している。次の夕刻までに開く機会は、残っても三度。しかも三度目は、枠の片側を支える金具が砂の重みで歪み始めると見られた。
通れる幅は、身体を寄せてようやく二人分。ここには五人いる。
カノンは枠の左右を確かめた。錆びた留め具の一つに亀裂があり、砂が落ちるたびに少しずつ広がっている。このままでは最後の扉が閉じる前に枠そのものが潰れるかもしれない。
「まず、怪我をした人とエドガーさんが出てください」
「私は自分で歩ける」
「知ってます。だから向こうで留め具を押さえてほしい。仕組みを知ってるのはエドガーさんです」
エドガーは不満げに眉を寄せたが、反論はしなかった。誰かを犠牲にする順番ではない。全員が通るための役割を決めているのだと、カノンは伝えたかった。
夫婦には水と荷物を先に渡してもらい、怪我人を支えるための布を用意した。脚を痛めた男は体重をかけるたびに顔をしかめたが、エドガーの肩につかまれば短い距離なら進めるという。
一度目の光が現れた。
「今です!」
エドガーが男の腰を支え、白い枠へ進んだ。足元の段差で男がよろめき、カノンはとっさに背を押す。二人の姿が線の向こうへ抜けたところで、扉が閉じた。
石の向こうから二度、叩く音が返ってくる。無事に通れた合図だ。
カノンは胸を撫で下ろす間もなく、亀裂の入った金具を確認した。砂が詰まれば、次は最後まで開かない。夫婦にも手を借り、落ちてくる砂を外套で受けて脇へ運んだ。
「次は妻を先にお願いします」
夫が言うと、妻はすぐに首を振った。
「あなたを残してなんて行けない」
「俺が残ると言ってるんじゃない。もし途中で閉じたら――」
「だから、一緒がいいの」
その声を聞き、カノンは石枠の幅をもう一度測った。背負う荷を外せば、二人が横向きに並んで通れる。ただし、途中で誰かが立ち止まれば、後ろへ下がる余裕はない。
「二人とも、聞いてください」
カノンは枠に手を当て、肩が通る位置を示した。
「同じ歩幅で、途中では止まらない。もし足を取られたら、俺がここから支えます。でも、絶対に安全だとは言えません」
夫婦は顔を見合わせた。やがて妻が夫の手を取り、夫も強く握り返した。
「一緒に行きます」
「分かりました。次の光を待ちましょう」
短いやり取りの間にも、天井から砂が降り続いていた。カノンは腰の短剣を抜き、金具の隙間に詰まった砂を取り除く。ディーンが貸してくれた剣だ。柄の古い傷を親指で確かめ、刃へ無理な力をかけないよう手を動かした。
二度目の白い線が広がった。
夫婦は身体を横に向け、肩を寄せて枠へ入った。妻の足が段差に触れたとき、夫が手を引く。カノンも背後から支え、二人の背中が光の奥へ消えるのを見届けた。
向こう側でエドガーが石を叩いた。
三人とも、通れた。
残ったのはカノン一人だった。
石枠の上で、乾いた音がした。砂はもう天井からだけではなく、左右の継ぎ目を押し広げるように流れ込んでいる。留め具が歪み、出口の形がわずかに傾いた。
「カノン! 聞こえるか!」
石の向こうから、くぐもったエドガーの声がした。
「聞こえます!」
「右側を押さえている。次が開いたら、迷わず来い!」
カノンは短剣を金具のそばへ差し込み、ずれてきた支えを一時的に受け止めた。刃が軋む。長くはもたないと分かっていても、ここで手を離せば、最後の光が現れる前に枠が埋まってしまう。
脇の砂が靴を覆い始めた。目を細めると、白い線が金具に沿ってゆっくり伸びてくる。
やがて、三度目の扉が開いた。
「今だ!」
エドガーの声と同時に、カノンは短剣を引き抜いた。刃先が石に当たり、硬い音がする。振り返らず、低く身を屈めて光の中へ飛び込んだ。
背後で何かが砕けた。砂が外套を叩く。伸ばした腕をエドガーと夫がつかみ、三人は折り重なるように地面へ倒れ込んだ。
顔を上げたときには、石枠の向こうが白い砂で塞がっていた。
誰も口を開かなかった。少し離れたところで、妻が脚を痛めた男へ水を渡している。その姿を確かめ、カノンはようやく自分たちが五人とも外へ出られたと理解した。
短剣を持つ手が震えていた。刃先を見ると、小さく欠けている。
「兄さんに、何て言おう……」
「先に無事だったと知らせろ。説教はそれからでいい」
エドガーに言われ、カノンは笑おうとした。けれど頬が引きつり、うまく笑えない。砂に呑まれるかもしれないと思ったのは、ほんの数息前のことだった。
エドガーはその手を見て、何も言わず隣に座った。
日が暮れるころ、五人は砂漠の端にある隊商宿へたどり着いた。夫婦が旅の途中で借りていた荷車を宿から迎えに出してもらい、怪我人も無事に運べた。
宿の主人は三人の顔を見るなり声を上げた。数日前から帰らず、隊商の者たちが捜していたらしい。戸口に貼ってあった行方不明者の知らせを外し、夫婦へ見せた。
「もう戻らないかと思ったよ。知らせを出した連中にも伝えないとな」
夫は紙を受け取り、何度も頭を下げた。カノンはその様子を眺めながら、帰りを待つ人がいるということを、今さらのように思い出していた。
宿の火のそばに落ち着いたころには、エドガーも少し顔色を取り戻していた。二人は湯を分け合い、しばらく何も話さずにいた。
「前のお前なら、最後まで一人で支えを直していたかもしれんな」
エドガーが杯を置いて言った。
「今日だって、最後はそうなりました」
「だが、私を先に通した。理由もきちんと話した」
カノンは欠けた短剣を布で拭いた。救出の間は手を動かすことだけで精一杯だったが、今になって考えると、もっと安全な方法があったのではないかと思ってしまう。
「雪の村で、人を一人見失いました」
「……ああ」
エドガーはその場にいた。助けられなかった人のことも知っている。けれど、その夜カノンが何を考え、何を手帳に残したのかまでは、話したことがなかった。
「東へ走って、老人二人は助けられた。西へ戻ったら家が消えていて……あのとき別の方を選んでいたらって、今でも考えるんです」
「私も考えたよ。自分がもう少し早く中央の仕掛けを止められていたら、とな」
エドガーは火の向こうで、しばらくカノンを見ていた。
「誰かが最後に残る場面を、お前はすぐ自分の役目にしてしまう」
「ほかの人に、壊れかけた枠を任せるわけにはいかなかった」
「そうやって、いつも自分を犠牲にする」
咎める声ではなかった。それでもカノンは返事をしなかった。もし三度目の扉が開かなかったら、エドガーたちは自分を助けに戻ろうとしただろう。そう考えると、胸の奥に冷たいものが残った。
カノンは短剣を鞘に戻した。
「……アリアに会いましたか」
エドガーの手が止まった。
「会ったよ」
思っていたより静かな返事だった。
カノンは炎を見つめた。三年近く、あちこちの町で老人の行方を尋ねてきた。そのエドガーが、アリアには会っていたという。
「どこにいるんです」
「今すぐ行ける場所としては、教えられん」
「アリアに、そう頼まれた?」
「……ああ」
カノンは思わず立ち上がりかけた。銀の花を託したレオも、雪の村に残された声も、ずっと同じことを伝えてきた。見つけたと思えば、次は来るなと言われる。
「どうしてですか。俺はずっと探してきた。エドガーさんにも、調べたことは全部知らせてきたのに」
エドガーはすぐには答えなかった。杯の湯気が薄くなり、火の中の枝が一本崩れる。
「場所を伏せてほしいと頼まれたのは本当だ。だが……連絡まで絶ったのは、私の弱さだ」
老人は自分の手を見下ろした。
「あの子に会いながら、連れ戻す方法を見つけられなかった。何を試しても上手くいかんでな。それをお前に話すのが、怖かったのかもしれん」
カノンは腹が立っていた。手紙を待った夜のことも、一人で探し続けた道の長さも、簡単に忘れられない。
けれど、エドガーの痩せた頬と、砂に埋まっていた姿を見てしまった。彼もまた何もせずにいたわけではない。何を見て、どこで行き詰まったのか。それを知らずに責め続けても、アリアのいる場所へは近づけない。
「全部じゃなくていいんです。何を確かめたのか、教えてください。俺にも考えさせてほしい」
エドガーはしばらく黙っていたが、やがて鞄から濡れた金属片を取り出した。乾いた砂の下で拾ったというのに、金属の細い溝には水が残っている。
「西の工房から続く線を調べた。古い地下水路は、砂漠の下でも途切れていなかった。星のない場所で、アリアが支えているものにも、これに似た金具が使われている」
「支えているもの……?」
「道が崩れないための、何かだ。仕組みの一部は分かった。だが、今ある支えを外しても保つような別の支えを、まだ見つけられていない」
カノンは金属片を受け取り、溝の形を手帳へ写した。アリアへ続く道の地図ではない。それでも、エドガーが失敗の末に持ち帰った手がかりだった。
「アリアは、俺から逃げてるわけじゃないんですよね」
「逃げてなどいない。あの子は、お前を早くあそこへ来させたくないんだ」
「早く?」
エドガーは頷いた。
「今は支えが足りない。お前が来てアリアを帰そうとすれば、代わりに誰かが残らなければならん。あの子は、そう言っていた」
「だったら、俺が残ればいい」
「……そう言うと思ったよ」
怒鳴られると思ったが、エドガーは静かだった。
「さっきも、お前は最後まで砂の中にいた。全員を助けるために必要な判断だったのは分かる。だが、アリアの前でも同じことをするつもりなんだろう」
カノンは答えられなかった。
星のない場所からアリアを帰せるなら、自分が残る。それはきっと、考えるより先に口をついて出る言葉だった。
「アリアだって同じです。俺を帰して、自分だけ残るつもりなんでしょう」
「ああ。だから困っている」
エドガーは火へ小枝をくべた。
「どちらか一人が残ることを、二人とも当然のように選ぶ。だが、それでは何も解決せん」
カノンは、砂漠の地下で夫婦が手をつないだ場面を思い出した。最初はどちらかが先へ行こうとし、結局は二人で通る方法を選んだ。危険がなかったわけではない。それでも、残る人を決める以外の道を探した。
「……別の支えを作れれば」
「そうだ」
エドガーは久しぶりに、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「西の工房で、古い根の記録を見つけた。道を支えるのは金具だけではないらしい。根がすべて枯れたわけでもない」
根。
カノンは鞄の奥に入れた小袋を思い浮かべた。ニナから預かった三つの木の実。二つはすでに別の場所で根を張り、最後の一つだけが、まだ行き先を見つけられずにいる。
「それを調べれば、アリアを一人で残さずに済むかもしれない」
「まだ分からん。だから調べるんだ。決まった答えのように扱うなよ」
「はい」
カノンは頷いた。何年も追い続けてきた道の先に、ようやく違う問いが現れた気がした。アリアがどこにいるかだけではない。どうすれば、誰も置き去りにせず帰れるのか。
「俺も一緒に行きます。西の工房で見つけた記録を――」
「それは明日、見せよう。ただ、次に追う線まで私と同じである必要はない」
エドガーは鞄から小さな紙片を出した。新しい地図ではなく、調べる印と、その順序を記した覚え書きだった。
「お前が通ってきた場所には、私が見つけられなかった印がある。最後の木の実も、お前が持っていた方がいい。私は西の記録をもう一度整理する」
カノンは紙を受け取った。
「今度は、連絡してくださいね」
「……ああ。今度こそ」
老人の返事を聞いて、胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。
夜が更けると、助けた旅人たちは宿の奥へ引き上げた。隣の寝台でエドガーが外套を丸めて枕にしようとしていたので、カノンは余っていた布を貸した。
「過保護になったな」
「砂に埋まってた人に言われたくありません」
「またそれか」
そう言いながらも、エドガーは布を受け取った。間もなく寝息が聞こえてくる。カノンはしばらくその音を聞いていた。三年間、無事でいてほしいと願っていた人が、すぐ隣で眠っている。そのことが、ようやく実感になった。
枕元の手帳には、エドガーから受け取った調査の順序が挟まっている。
カノンは鞄の小袋を取り出した。中には最後の木の実が一つ、布に包まれている。何年も持ち歩き、ときどき湿らせてきたものだ。まだ変わった様子はない。
砂の下で見た古い支え。エドガーが持ち帰った金属片。すでに根を張った二つの木の実。どこかに、まだ見えていないつながりがあるのかもしれない。
明日になれば、確かめられることがある。
カノンは小袋をしまい、隣の老人を起こさないよう、そっと灯りを落とした。




