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第二十四話 壁の向こう

 二十二歳になった春、カノンが持ち歩いていた最後の木の実にひびが入った。


 朝、宿の机で手帳を開いていると、傍らの小袋がわずかに動いた。風かと思ったが、窓は閉まっている。袋を持ち上げると、縫い目から細い銀色のものが覗いていた。


 糸ではない。木の実の殻に走った亀裂から、透き通るような根が伸びている。


「……やっとか」


 声に出した途端、まだ眠っている誰かを起こしそうな気がして、カノンは口を閉じた。根は指先でつまむのもためらわれるほど細い。湿らせた布を机へ敷き、小袋ごとそっと置いた。


 ニナから預かった木の実は三つあった。最初の一つは故郷の時計塔で、床を走る銀の線に根を張った。二つ目は水車小屋の湿った床下に残り、古い金属の輪へ伸びている。最後の一つだけが、どこへ置いても根づかなかった。


 旅の荷に紛れて乾かさないよう、水を含ませた布に包み直してきた。エドガーに呆れられたこともある。だが、種を置く場所を間違える怖さを知ってからは、早く芽を出せと願うだけでは済まなくなっていた。


 去年の秋、川に架かる古い橋の下で、木の実が強く温まったことがあった。


 雨の日だけ石の継ぎ目が白く光る場所だった。銀の線は橋脚の下へ続き、その先には家々が並んでいる。ここに根が張れば、途切れた道の支えを取り戻せるかもしれない。そう考えてカノンが膝をつくと、橋の向こうから女の声が上がった。


「ちょっと、井戸の水が……!」


 近くの家で水を汲んでいた女だった。井戸を覗くと、水面がゆっくり下がっている。木の実を石から遠ざけると止まり、確かめるためもう一度近づけると、今度は桶の底が井戸の内壁に触れた。


「その道を開けたら、うちの水はどこへ行くの?」


 女は怒鳴らなかった。ただ、夕食の支度をするために手にした桶を見ていた。


 カノンは答えられず、木の実を布へ戻した。橋の印を写してから、何を支えるためにどの水を使うのか分かるまでは、ここへ根を下ろさないと伝えた。しばらく井戸のそばで待ち、水面が戻って女が桶を満たせるところまで見届けた。


 その晩、エドガーへ送った報告には、植えなかった理由も書いた。


 返ってきた手紙に記されていたのは、水位、道の幅、付近の家の数を調べろという三つの指示だった。種を使わなかった判断について、叱る言葉も褒める言葉もない。カノンはそれがありがたかった。何もしなかったのではない。分からないまま進めるのを、やめたのだ。


 それ以来、乾いた石に木の実を置いても反応はなく、湿った古い金属に近づけたときだけ殻が温まることを確かめていた。


 そして今朝、初めて根が出た。


 細い銀の根は机の縁から床へ垂れ、ひとりでに窓の方へ先を曲げている。窓の外には、雨に濡れた石畳があった。その端に、昨夜まではなかった白い筋が浮いている。


 カノンは古びた青い布を広げた。


 年老いたエドガーから託された布だ。中央の街には、目撃された光の線が何度も縫い足され、糸が幾重にも重なっている。そこから離れた位置に、黒く塗り潰された星の印があった。印の周囲に縫われた細い線は、今いる町の地下水路の形と似ている。


「この先に、何があるんだ……?」


 問いかけても木の実は答えない。ただ、根の先がまた一度、窓の方へ揺れた。


 カノンは水筒と銀時計を鞄に入れ、木の実を湿った布で包み直した。伸びた根を折らないよう手のひらに載せ、宿を出る。


 白い筋は町外れの古い水路へ向かっていた。陽の当たる場所では見失いそうになるが、石の隙間に溜まった水が光を映すたび、細い痕跡が確かめられた。


 やがて、使われなくなった地下通路へ入った。壁は苔むし、天井から雫が落ちている。地下水の音が近くなるにつれ、掌の木の実が温かくなった。


 銀の根は、カノンが進むより少し早く、曲がり角の方を向いた。道を選んでいるというより、流れる水に引かれているようだった。


 通路の先は行き止まりだった。


 ひと続きに見える石壁の下で、古い金属の縁がわずかに露出している。カノンが木の実を近づけると、銀の根が布から滑り出し、水の滲む継ぎ目へ入り込んだ。


 無理に引けば切れてしまいそうだった。カノンは木の実を壁際のくぼみに据え、根の付け根へ少しだけ水を注いだ。すると銀の筋が石の奥へ伸び、見えなくなった。


 青い布の、塗り潰された星の辺りが温かい。


 カノンは息を止め、壁へ耳を寄せた。


 石の向こうから、鐘に似た低い音がする。耳鳴りかと思うほど遠い。しばらく待つと、水の音に紛れて衣擦れのようなものが聞こえた。


 その次に、息を吸う音がした。


『……カノン?』


 声はかすれていた。それでも、聞き間違えるはずがなかった。


「アリア」


 名前を呼ぶと、壁の向こうで何かが小さく鳴った。


『……聞こえた。カノン、本当に?』


「ああ。俺だ。そこにいるのか?」


『いるよ。ずっと声が遠くでしてたけど、今日は……こんなにはっきり』


 カノンは片手を壁についた。冷たい石の感触しか返ってこないのに、手を離すことができなかった。


 北門でアリアが消えてから、五年。手にした髪飾りが見せる光景や、彼女の残した言葉を追い続けてきた。どこかで生きている証拠は見つけても、その瞬間に自分の呼びかけへ答えてくれたことは、一度もなかった。


「怪我はないか。具合が悪いところは?」


『大丈夫。今は座って話せる場所にいる』


「今は?」


『少し前まで水が高くて、ここへ来るのも大変だったの。もう引いたから』


 何でもないことのように言おうとして、最後だけ声が小さくなる。カノンは壁に押し当てた手へ力を込めた。


「……君には、どれくらい経った?」


 しばらく、向こうで水の音だけがした。


『十か月くらい、かな。星も見えないし、日付を数えられない日もあるから、正確じゃないけど』


「俺は、二十二になった」


『二十二……?』


「君と北門で別れたときは十七だった。こっちでは、五年だよ」


 壁の向こうが静かになった。


 言ってしまってから、カノンは自分の声が思ったより穏やかだったことに気づいた。五年という数字は、口にするだけなら短い。けれど、その間に何度季節が巡ったか、何枚の地図を畳んだか、もう数えられない。


『……ごめん』


「謝らないでくれ」


『だって、そんなに長く』


「探したのは俺が決めたことだ。君が生きてるって、今こうして確かめられた。それが嬉しい」


 すぐそばで何かが擦れた。アリアが石に手をついたのかもしれない。


『私も。……声、少し変わったね』


「五年も経てばな」


『でも、話し方は変わってない』


「それはどうだろう。兄さんには、少しは落ち着けって今でも言われる気がする」


 アリアが小さく笑った。その音が届いた途端、カノンは目を閉じた。ずっと覚えていた声が、知らない年月の分だけ少し大人びている。その違いさえ、今は嬉しかった。


 壁の下では銀の根が光っている。カノンは継ぎ目を見下ろした。


「これを育てれば、壁を開けられるかもしれない」


『……カノン。今は開けないで』


 胸の奥が硬くなる。何度も聞いた、あの言葉だ。


 けれど今日は、目の前に本人がいる。答えを聞かずに終わらせたくなかった。


「分かった。無理には開けない。だから、どうしてなのか教えてほしい」


 アリアは少し間を置いた。遠くで人の声がして、彼女が短く返事をする。やがて壁のそばへ戻る気配がした。


『私が押さえているのは、一人が通るための扉じゃないの』


 八百年前、アステリアから外の世界を覗こうとして、一本の細い線が伸ばされた。街が崩れたあとも、その線は星のない場所へつながったまま残ったという。


『線を止めようとすると、ほかの道へ力が流れる。井戸が干上がったり、家の床に白い筋が出たりするの。私がここで押さえていれば、急に広がらないようにできる』


「でも、そこを離れたら?」


『今はまだ、受け止めるものが足りない。離した分が昔の道へ戻って、別の日付で暮らしている人たちの家まで巻き込むかもしれない』


 カノンは去年の秋、橋の井戸で水が下がった光景を思い出した。あのとき、何が起きるか分からないまま木の実を植えていたら、同じように誰かの生活を壊していたかもしれない。


「だから、君がそこに残ってるのか」


『うん。でも、私だけじゃないよ。おじいちゃんも調べてくれてる』


 アリアの言う祖父は、向こうの時間を長く歩いてきた、年老いたエドガーのことだろう。カノンが白い砂漠で再会したエドガーも、別の道から記録を集め続けている。


「ずっと立って、線を押さえてるのか?」


『そんなの無理だよ。座って休む日もあるし、井戸の番をしている人と札を替えることもある』


「札?」


『水が減った家は赤。戻ったら青。赤が続いたら、流す量を減らしてもらうの。おじいちゃんが出かけているときは、近所の人が食べ物を持ってきてくれる』


 壁の向こうで、木片が触れ合うような音がした。アリアが札を動かしたのかもしれない。


「……そこには、家があるんだな」


『あるよ。小さな町だけど。市場みたいな場所もあるし、星を見たことがない子もいる』


 カノンは壁から少し身体を離した。


 星のない場所と聞くたび、暗い石の床にアリアが一人で座っている姿を想像していた。あの日の北門で見た光景が、ずっと頭から離れなかったからだ。


 だが、その向こうには家があり、井戸があり、毎日の水を心配する人たちがいる。アリアは閉じ込められたまま待っていたのではない。自分の足で歩き、住人と話し、そこで暮らす人の生活を守ろうとしてきたのだ。


『最初はね、私が離れなければ大丈夫だと思ってた。でも、同じように押さえていても、日によって井戸の水が違うの。だからみんなで測るようにした』


「そんなことまで、君が一人で……」


『一人じゃないって、さっき言ったでしょ』


 少しむっとした声だった。


「……そうだった。ごめん。君たちで調べたんだな」


『うん。井戸番のおじさんは、私よりずっと水のことに詳しいよ』


 カノンは思わず笑った。自分が守りに行くはずだった人が、知らない町で誰かに頼り、誰かから頼られている。五年間追いかけたアリアは、あの日のまま立ち止まってはいなかった。


「水位の記録、こっちでも見られないかな」


『おじいちゃんが写しを持ってるはず。カノンの側の水位も分かれば、どこへ流れているか比べられる』


「それなら調べられる。宿の近くに井戸があるし、この通路にも古い目盛りが残ってる」


『じゃあ、雨が降った日も書いておいて。こっちでは雨が降らなくても、水が急に上がることがあるから』


 懐かしい声で、見知らぬ土地のことを教えてくれる。カノンは手帳を出し、膝の上で頁を開いた。五年分の話を聞くにはあまりに短い時間だ。それでも、今二人にできることがある。


 壁の下の銀の根へ、アリアが触れたらしい。指先で継ぎ目を押さえると、微かな震えがこちらにも伝わった。


『銀色の根がある。これ、もしかして……』


「ニナから預かった木の実だ。三つあったうちの、最後の一つ」


『向こうまで届いたんだ』


「ああ。まだ細いけど」


 カノンは根が入り込んだ金属の縁を確かめた。木の実は、失われた日付を作り出すわけではない。水の通る古い設備と金属の間で、途切れたものをつなぎ直すように伸びる。故郷の時計塔でも、水車小屋でも、そうだった。


 今は細い根が声を運んでいるだけだ。だが、育て方によってはアリア一人が受け止めている力を、古い金具へ分けられるかもしれない。


「この根を支えに使えないかな。君が押さえてるものを、少しずつ移すんだ」


『私も、そう思った。でも急に替えたら駄目。どの道に力が戻るか、先に確かめたい』


「分かってる。井戸の水が下がった場所もある。何も測らずに植えたら危なかった」


『……今は、測るまで待てるようになったんだね』


「前は待てなかったからな」


 アリアの声がやわらいだ。カノンは水筒の蓋に少し水を注ぎ、根の付け根へゆっくり含ませた。銀の筋が淡く光ったが、壁を越えて何かを引くほどの強さはない。


 古い青い布を石へ当てると、塗り潰された星の周囲に縫われた線がわずかに温まった。中央の街に幾重にも記録された光の線と、根の位置を重ねてみる。まだ合わないところもあるが、何を調べればよいかは以前よりはっきりしていた。


「覚えてるか。昔、塔で俺が先に行けって言った日」


『忘れるわけないよ』


「ずっと、行かせる側の方がつらいと思ってた。でもレオを送り出したとき、先へ行く人を見送る方だって、何もできなくて怖かった」


『……うん』


「君が北門で止めた理由、少しは分かった気がする」


『私も、言わずに行ったらどんなに心配するか、今なら分かる』


 アリアは言い終えると、何かを考えるように黙った。カノンもすぐには口を開かなかった。どちらも過ぎた時間をやり直せない。それでも、知らなかった気持ちを今こうして話すことはできる。


 少しずつ、互いの旅の話をした。


 カノンは雪の村でサナに会ったこと、祖母が元気になったと手紙をくれたことを話した。レオと半年歩き、ミリアの声を聞いた彼が水門の向こうへ走っていったことも。


『レオ、妹に会えたんだ……』


「その先はまだ分からない。でも、二人が抱き合うところは見た」


『よかった』


 アリアの短い返事に、カノンは彼女もレオのことを知っているのだと改めて思った。自分が知らない時間に、あの二人は出会っている。


 代わりにアリアは、星のない町で教わった料理のことや、井戸番の家の子どもが水位を読むのを覚えた話をしてくれた。年老いたエドガーは相変わらず夜遅くまで針仕事をしていて、このごろは糸を落とすと、拾う前に次の話を始めてしまうらしい。


「元気そうだな」


『そう言うと怒るよ。自分はまだ若いって』


「それ、本人に言ってみたい」


『会えたらね』


 軽い声だった。けれど、その一言に二人とも少し黙った。


 壁の向こうで水の流れが変わり、低い響きが混じった。銀の根の熱が弱くなっていく。アリアの声にも水音が重なり始めた。


「アリア。次は、いつ話せる?」


『まだ分からない。水が戻れば、また声が通るかもしれない。でも、根はここにつながってるから』


 カノンは壁の継ぎ目を見た。さっき水を含ませたところに、細い銀の筋が残っている。


「待つのは得意じゃないんだけどな」


『知ってる』


「壁を壊す方なら、少しは慣れてる」


『それも知ってる。だから先に止めてるんでしょ』


 カノンは笑った。アリアも笑っているのが、音だけで分かった。


「アリア。今度は、君か俺のどちらかが残るって話にはしない」


『……簡単じゃないよ』


「分かってる。根もまだ細いし、君の町の水も守らなきゃならない」


『うん』


「一緒に帰れる方法を探そう。俺もこっちで調べる」


 少し間を置いて、アリアが答えた。


『私も調べる。おじいちゃんたちにも、今日のことを話すね』


 根の光がさらに薄くなる。声が遠ざかり、水路の音に紛れ始めた。


『……またね、カノン』


「ああ。また話そう」


 返事が届いたかどうかは分からなかった。それでもカノンは、耳を壁から離すまでに少し時間がかかった。


 北門では、彼女が遠ざかる背中を見送ることしかできなかった。今日は違う。姿は見えなくても、二人で次に何をするか話し合えた。


 カノンは木の実が根づいた位置を確かめ、石の継ぎ目へ小さな印をつけた。根は引き抜かない。成長するには水が要るが、水を流しすぎれば別の場所の井戸へ影響するかもしれない。


 宿へ戻る途中、手帳の古い頁を開いた。あの日、北門でアリアが消えてから書き続けた道の記録。その次の頁に、水路の水位、根の熱、声が聞こえた時間を並べて書いた。


 翌朝、宿の主人に事情を説明し、地下水路と近くの井戸を調べる許しをもらった。雨のあとには根が温まり、乾いた日は反応が弱い。だが、水位が高ければ必ず声が届くわけではなく、逆に流れが強すぎると銀の筋は静かになった。


 カノンは井戸の内側へ小さな目盛りを付け、毎朝同じ時刻に水の高さを記した。家の人にも気づいた変化を聞いた。アリアが話してくれた赤と青の札を思い出し、記録には井戸を使う家の数も添えた。


 エドガーへ送った報告には、種が星のない場所の壁まで伸び、アリアの声を聞けたことを記した。返事には、西の工房で見つかった古い金具の組み方が描かれていた。急に根を太らせるな、まず水の流れを確かめろという短い注意もある。


 カノンは紙を壁の見取り図へ重ねた。図面の中で、これまで別々に見えていた線が少しずつつながる。まだアリアのいる場所へ渡ることはできないし、家々の水を守りながら根を育てられる保証もない。


 だからこそ、一つずつ確かめる必要があった。


 その日の調査を終えて通路を出る前、カノンは振り返った。根が入り込んだ石の下には、昨日と変わらない細い銀色の筋がある。


 向こうから声はしなかった。


 けれど今は、何も聞こえないことを、誰もいない証拠だとは思わなかった。


 カノンは手帳へその日の水位を書き足し、壁を背に歩き出した。


挿絵(By みてみん)

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