第二十五話 六人
二十三歳の秋、カノンは道が崩れた町で、十二人の帰り道を探すことになった。
川沿いに三本の通りが並ぶ、小さな町だった。石橋のそばで古い水路の印を調べていると、川面に細い白い線が走り、対岸から悲鳴が上がった。橋を渡ろうとしていた人々の足元が透け、崩れた石畳ごと下の水路へ落ちていく。
カノンが駆けつけたとき、地下には十二人が取り残されていた。子どもが四人、足を痛めた老女が一人、残る七人は大人だ。誰も大きな怪我はしていないが、濁った水が足首を洗い、崩れた壁の向こうでは石が軋んでいる。
外へ通じる白い枠は一つだけだった。
カノンは銀時計を開き、枠の両側に刻まれた古い印を調べた。開いていられるのは、せいぜい数分。しかも一人が通るたび、支えの金具が沈んで入口が狭くなる。今のままなら六人。それ以上通そうとすれば、最後の人が石に挟まれるおそれがあった。
「六人……?」
誰かがつぶやいた。カノンが振り返ると、すぐ近くにいた小さな男の子が父親の袖を握りしめていた。外側から母親が名を呼んでいる。声は石の裂け目を伝わってくるのに、男の子は白い枠を見て首を振った。
「怖いよ。父さんも来て」
父親は膝を折り、目線を合わせた。
「先に向こうへ行くんだ。母さんが待ってる。出たら、その手を握るんだぞ」
「父さんは?」
「あとから行く」
父親はそれ以上、時刻を約束しなかった。男の子の濡れた前髪を払う手が、わずかに震えている。
カノンは一度時計を閉じた。誰を先に通すべきか、自分が勝手に決めるつもりはなかった。ただ、枠のことを知っているのは自分だけだ。黙っていれば、この場の人々は、全員が同じ扉を通れると思い込んでしまう。
「聞いてください。この入口は、今のままだと六人までしか通れません。通るたびに幅が狭くなります」
「広げられないのか」
腕の太い男が声を上げた。名をトーマという。先ほどまで子ども二人を抱えて走り、今は水路の入口を塞ぐ石をどかそうとしていた。
「支えが持たない。今、無理に動かしたら、六人も通れなくなる」
「十二人いるんだぞ!」
「分かってる。残る人たちのために、別の出口も調べる」
「見つからなかったらどうする」
カノンは答えようとして、言葉を飲み込んだ。
崩れた壁の下から水が流れている。奥にもう一つ、使われなくなった排水路があるはずだった。だが入口の位置は分かっても、いつ開くのか、どの日付へつながるのかまでは読み取れない。
「まず、子ども四人と歩くのが難しい人を出しましょう。あと一人は、その人を支えられる大人がいい。残る人たちの出口は、ここが閉じてから調べます」
老女を支える役にはトーマの妻が名乗り出た。ほかの大人たちも、子どもを受け止める人が外にいるか、順番を確かめ合った。反対の声も上がったが、白い線はすでに細くなり始めている。
「今、六人を通す」
カノンがそう言った直後、トーマが詰め寄ってきた。
「それで残りはどうなるんだよ!」
拳を避けきれず、頬に衝撃が走った。頭が横へ振れ、口の中に血の味が広がる。子どもたちの一人が短く悲鳴を上げた。
カノンは頬を押さえたが、剣には触れなかった。
「……まだ出口を見つけてない。見つけてないものを、あるとは言えない」
トーマは唇を震わせたまま何も言わない。彼の妻がそっと腕を取った。
「今は、子どもたちをお願い」
トーマは目を伏せ、拳を下ろした。
最初の子が白い枠へ近づいた。カノンは石の向こうへ声を張り、町の番人に子どもを受け止めてもらう。足が境目に触れた瞬間、白い線が一度揺れたが、小さな背中は無事に向こうへ抜けた。
二人目、三人目。子どもたちは順に渡り、そのたびに枠が少しずつ細くなった。最後まで父親の手を握っていた男の子は、扉の前でまた立ち止まった。
「行ける。母さんの声がするだろ」
父親は男の子の背を押すのではなく、握られた指を一本ずつほどいた。カノンがそばにしゃがみ、「向こうでも声をかけるよ」と伝えると、男の子は涙を拭いて光の中へ踏み出した。
残る二枠で、老女とトーマの妻を送り出す。老女の足が石に引っかかったとき、妻が腰を支え、カノンは反対側から腕を伸ばした。二人が境目を越えたところで金具が大きく軋み、白い枠は石壁へ吸い込まれるように閉じた。
六人が残った。
カノンを入れれば、ここには七人いる。トーマ、男の子の父親、町の石工、年配の職人、若い女、怪我をした男。それぞれが閉じた壁を見つめ、誰もすぐには口を開かなかった。
石の裂け目から、小さな声が届いた。
「父さん? 父さんもすぐ来る?」
父親が壁の前へ進む。カノンもそばへ行ったが、代わりに答えることはできなかった。
「道が開いたら、俺の声が先に聞こえるようにする。だから、母さんのそばにいろ」
向こうで石を叩く音が二度した。父親が同じ回数を叩き返すと、子どもの足音が少しずつ遠ざかっていった。
カノンはその合図を手帳に書いた。いつか別の日付で同じ音を聞くことがあれば、誰が待っているのか思い出せるように。
その夜から、残った者たちは水路の奥を調べ始めた。
石工が古い排水口の位置を教え、トーマが崩れた石を運ぶ。カノンと父親は濡れた壁の印を写し、年配の職人と若い女は砂の詰まった溝を一つずつ掻き出した。怪我をした男も、座ったまま道具を渡してくれた。
細い割れ目からは外の声が届いた。二日目になると、町の人たちが縄で食料と工具を下ろせる場所を見つけた。子どもが母親と一緒に来たらしく、父親を呼ぶ声が聞こえることもあった。
カノンは銀時計と図面を広げ、エドガーに教わった方法で留め具の反応を調べた。銀の根が届けば枠を支えられるかもしれない。だが三つの木の実は、もうそれぞれの場所に根を張っている。最後の一つは、星のない場所の壁越しにアリアの声を運んだまま育っていた。
あの根を引き抜いてここへ持ってくる。そんな考えが頭をよぎらなかったわけではない。けれど、向こう側ではアリアと町の人々が、その支えを頼りに水を調べている。何が起きるか分からないまま外すことはできなかった。
三日目の朝、古い金具の内側で、昨日までなかった光が揺れた。
カノンが時計を確かめると、今度は四人が通れるだけの幅が現れていた。二日前とは別の線だ。持つのは短い時間で、もう一度開く保証もない。
怪我をした男と若い女、それに年配の職人が先に通ることになった。四人目を誰にするかで、また声が上がった。
「俺は最後でいい」
トーマが言うと、町の石工が首を振った。
「お前は外に出ろ。俺はこの奥の水路を知ってる。まだ見ていない水抜き口があるはずだ」
「だったら俺も残る」
「外からも調べろ。あの金具は向こう側に別の留めがある」
男の子の父親も頷いた。彼は壁に耳を当て、向こうから家族の名を聞いたばかりだった。
「俺も残って、石工と奥を探す。足はまだ動く」
「お前の子どもは、ずっと待ってるんだぞ」
トーマが言うと、父親は口元を強ばらせた。返事をするまでに長い間があった。
「……知ってる。だから、探すんだ」
カノンは何も言えなかった。代わりに、三人へ残る水の量と、壁の傾きについて説明した。安全な場所などない。それでも、この狭い枠で全員が押し合えば、誰も通れなくなる。
最初の三人が渡り、トーマが最後に入口へ立った。彼は振り返り、石工と父親の顔を交互に見た。
「必ず知らせろ。こっちでも調べる」
「分かった。早く行け」
石工の声に背を押されるように、トーマは光へ飛び込んだ。枠が細くなり、二度目の道も閉じた。
残ったのは、男の子の父親と石工の二人。そしてカノンだった。
水は膝の高さまで増えていた。大きな道を二度開いたことで、崩れた壁の向こうから流れ込む量が増えたらしい。石工は片手で壁を探り、古い排水口を見つけると、留め石を外した。
下から冷たい風が吹き上がった。
別の日付に通じる道だと、カノンには分かった。だが、銀時計はその先の日付をまだ拾わない。狭い穴の周囲を削って、人が通れる幅へ広げる必要がある。
「ここを開けられれば……」
カノンはディーンから預かった短剣を抜き、石の縁にたまった砂を取り除いた。白い砂漠で先端を欠けさせた刃だ。残った部分を無理に押し込まないよう気をつけていたが、金具の下へ刃を差し入れた途端、石の奥で硬い音がした。
金具がずれ、足元の床が揺れた。
「止めろ!」
石工がカノンの腕をつかむ。水が足場の裂け目から噴き上がり、三人の外套を濡らした。これ以上こじ開ければ、入口より先に床が崩れる。
カノンは短剣を引いた。水はもう腰の辺りまで上がっていた。
そのとき、銀時計の針が大きく振れた。壁の別の位置に、ひとりが身をかがめれば通れるほどの白い隙間が現れる。
帰るために調べていた道だ。カノンには、向こう側へつながる日付が読めた。ただし光は弱く、次の瞬間には幅が縮み始めた。誰か一人が通れるかどうかという短さだった。
「そっちから出られるのか」
父親が尋ねた。
「出られる。でも、すぐ閉じる。今の幅じゃ一人しか……」
「お前が行け」
石工が言った。
カノンは顔を上げた。父親も頷いている。
「俺たちはここを知ってる。外から道を探せるのは、図面を持ってるお前だ」
「でも、次に開くかどうか……」
「分からないのは、みんな同じだ」
父親は水に濡れた手を壁へついた。
「子どもに、俺がまだ探してるって伝えてくれ。それから、ここを開ける方法を見つけてほしい」
カノンは時計を見た。白い隙間がさらに狭くなる。二人を置いて行けば、二度と会えないかもしれない。それでも、今ここで一緒に沈むことが二人の望みではない。
「名前と、持ち物をもう一度教えてください」
石工は懐から印の入った小さな金具を出し、父親は子に作ってやった木の笛の形を説明した。カノンは濡れた手帳にできる限り書き留め、二人の顔を見た。
「外側の印を調べます。戻れる道が見つかったら、必ず知らせる」
保証できないことは言わなかった。
カノンは白い隙間へ身を滑り込ませた。肩を石に擦りながら通り抜け、振り返る。こちら側の壁から道を探そうとしたところで、金具が音を立てて沈んだ。
光が消え、石の印が崩れた。
壁を叩いても、返事はなかった。
町の人々とともに水路を掘り返し、外側から金具を調べた。だが、カノンが戻ったときには、通じていた日付も入口の形も失われていた。新しい道を開こうとすれば、地下へさらに水を流してしまうおそれがある。中に誰かがいるかもしれないまま、試すことはできなかった。
二人がどこへ行ったのかは、分からない。向こうで別の道が開いたのかもしれないし、水に呑まれたのかもしれない。どちらも確かめる手段は、まだ見つかっていなかった。
それでも町の人たちは、川沿いの石に二人の名を刻んだ。石のそばには花を置ける場所があり、道を通った人が足を止められるようになっている。墓だとは、誰も呼ばなかった。帰る場所があることを、残しておきたかったのだ。
最初に渡った男の子が、母親と一緒に石の前へ来た。
カノンは膝をつき、父親が最後まで水路を調べていたことを話した。二人で別の出口を見つけたが、まだ通れるか確かめられていないことも。
「父さん、ここにいるの?」
「分からない。ごめん。でも、名前も、持っていた物のことも記録した。次の道を調べるときも、探すよ」
男の子は何も言わず、石を二度叩いた。向こうから返事はない。カノンはその小さな手を見つめたが、聞こえなかった音の代わりになる言葉は見つからなかった。
その晩、宿の机に図面を広げた。
最初の扉で六人。次の扉で四人。残った二人を通せる幅は、何度計算しても現れない。どの時間に金具が動いたか、誰がどちらの壁に立っていたかを書き直しても、最後に閉じた道の先だけが空白のままだった。
それからも数日、カノンは町に留まった。トーマも毎朝水路へ来て、外側の石を調べた。ふたりで掘り出した古い図面には、まだ使ったことのない水抜き口が一つ描かれていた。
「こんなところに……」
カノンが印を写すと、トーマは唇を噛んだ。
「これを、最初から知ってたら」
「使えたかは分からない。でも、次に似た水路を見つけたら確かめられる」
トーマは返事をせず、図面の端を押さえた。雨の夜は二人で水の音を聞き、叩くような響きがあれば、すぐに日付を記録した。父親の合図なのか、崩れた石が当たっただけなのかは分からなかった。
ある朝、トーマが石の前で足を止めた。
「あのとき、殴って悪かった」
カノンは頬に触れた。痣はもう引いている。
「怖かったんだろ」
「お前も、怖かったんだよな」
「……ああ」
トーマは長く息を吐き、石に刻まれた名前を見た。
「六人しか出せないって聞いて、お前を責めれば何か変わると思った。変わるわけないのに」
カノンは黙って聞いていた。最初に子どもたちを通したことを、間違いだったとは思わない。それでも、残された人の顔も、閉じた扉の音も、忘れるつもりはなかった。
「町の地図を残してくれませんか。古い水抜き口も、崩れたところも」
「作る。お前が次に来たとき、最初から調べ直さなくていいように」
トーマがそう答え、二人はもう一度図面を広げた。
町を発つ前の日、カノンは仕立屋へ寄った。長い旅ですり切れた外套は、何度繕っても雨を通すようになっていた。店に残っていた厚手の布は黒だけで、仕立屋は鏡の前に立つカノンを見て、少し困った顔をした。
「若いのに、ずいぶん地味なのを選ぶんだね」
「ほかに雨を通さない布があれば、それでもいいんだけど」
カノンが古い外套の肘を見せると、店主は何も言わず、黒い布の裾を直してくれた。
仕上がった外套を羽織ると、鏡の中に知らない男が立っているようだった。
八百年前のアステリアで会った、二十五歳の自分。黒い外套を着て、今のカノンがまだ知らない出来事まで見てきた男。顔立ちは似ているのに、あのときはどこか遠い人間のように思えた。
今なら少しだけ分かる。先のことを知っていても、相手に何を話すべきか迷うことがある。言葉にできる事実と、約束できることは同じではない。
カノンは鏡から目を離し、外套の内側へ古い青い布と銀の髪飾りをしまった。ディーンの短剣は、先端の欠けたまま腰にある。返すときには、叱られるだろう。
出発の朝、川沿いの石に立ち寄った。
二人の名が刻まれたところを指でなぞり、手帳に書いた道の印を確かめる。町にはトーマが残り、調査を続ける。カノンも別の土地へ行くたび、似た水路がないかを調べるつもりだった。
アリアと同じ場所へ立てたとしても、彼女だけを連れて戻れば、そこに暮らす誰かが取り残されるかもしれない。
昨年、壁越しに交わした約束を思い出す。二人のどちらかだけが残る方法は選ばない。けれど、その言葉を守るには、目の前の誰かを置いていかない仕組みを知らなければならない。
カノンは石から手を離し、黒い外套の襟を立てた。
次にアリアと会ったら、まず彼女の足元から伸びる線を確かめよう。帰るために何を外し、何を残すのか。今度は、二人で考えるために。
川の向こうで朝の鐘が鳴った。カノンは手帳を鞄にしまい、町をあとにした。




