第二十六話 届かない距離
二十四歳になる少し前、カノンは白い橋の向こうにアリアを見た。
山あいの谷に架かる、古い木橋だった。片側の欄干はところどころ朽ち、橋脚の間を細い川が流れている。カノンは数日前から青い布に現れていた反応を追い、ようやくこの場所へたどり着いた。橋の中央では、異なる日付へ続く道が短い間だけ重なるという。
日付も、橋を支える金具の位置も、手帳には書いてある。それなのに、向こう岸に立つ人影を見た途端、確かめるつもりだったことが頭から消えた。
栗色の髪が風に揺れていた。
「アリア!」
声をかけるより先に足が動き、濡れた板を踏む音が谷に響いた。
アリアが振り返った。
頬は覚えていた頃より少し痩せ、髪は肩の下まで伸びている。北門で消えた彼女から、どれほどの時間が過ぎたのだろう。壁越しに声を聞いたときは十か月ほどだと言っていた。今は、それより少し長く生きた顔をしていた。
「カノン!」
アリアも走りだす。遠くから聞こえた声が、橋の上では驚くほど近かった。
あと数歩。手を伸ばせば届く。
そう思ったとき、橋の中央から白い光が立ち上がった。
足元の板が軋み、光の向こうで空の色が変わる。カノンの側では雲が谷を覆っているのに、アリアの背後には夕暮れの赤い空があった。同じ橋の上に立ちながら、二人が踏んでいるのは別の日付の道なのだ。
カノンは咄嗟に足を止めた。直後、上の岩棚から小石が崩れ、欄干に当たって砕けた。頬をかすめた破片に、細い痛みが走る。
「カノン、血が……!」
アリアが手を伸ばす。
カノンも反射的に腕を上げたが、指先が触れるより先に白い境目が強く光った。アリアは息を呑み、手を止める。二人の間には、ほんの腕一本にも満たない距離が残った。
「これくらい平気だよ。そっちは、怪我してないか?」
「うん。ここへ来る道は、おじいちゃんと調べてあったから」
カノンは銀時計を開いた。針は二つの目盛りの間を行き来し、ひとつの日付に落ち着かない。橋の中央に何がつながっているのか、それ以上のことは読めなかった。
顔を上げると、アリアが自分の外套を見つめていた。
町で買い替えた黒い外套は、もう新品の面影がない。袖口には擦り切れたところがあり、肘には繕った跡が残る。腰の鞘には先の欠けた短剣。雨と埃で色の変わった革袋も、長い旅の途中で何度か修理したものだ。
「……黒い服、着るようになったんだね」
「ああ。前のは、もう雨が染みるようになってさ」
「似合ってる。でも……」
アリアは続きを言わなかった。伸ばしかけた指が、袖の縫い目を前に止まる。
カノンは彼女の手を見た。以前より少し荒れた指先に、小さな傷がある。自分だけが変わったわけではないのだと、その傷に教えられた気がした。
「声が聞こえたときも思ったけど、大人になったね」
「そりゃ、もうすぐ二十四だからな」
軽く答えると、アリアは笑いかけ、すぐに目を伏せた。
「私は、まだ一年くらいしか経ってないのに」
「道を渡れば、そういうこともある。知ってたつもりだった」
カノンは白い境目へ目を落とした。理屈として何度も確かめたことが、今はたまらなくもどかしい。七年近く探した相手が、そこにいる。それなのに、伸ばした腕の先に別の日付が挟まっている。
カノンは白い境目を見つめた。壁越しに声を聞けた日は、それだけで十分だと思っていた。それなのに、今は彼女の姿を見たせいで、あのときよりもずっと欲張りになっている。
「声が届いたときは、もう一度話せればそれでいいと思ってたんだ」
「私も。顔を見られたら、もっとちゃんと話せると思ってた」
「今は?」
「……何から言えばいいか、分からない」
「同じだな」
アリアが笑った。カノンも笑い返したが、どちらもすぐには次の言葉を見つけられなかった。壁越しに話したレオやサナのことも、二人がそのあとに過ごした日々も、話そうとすればいくらでも続きがある。けれど今は、それよりも先に確かめたいことがあった。
「帰れたら、旅の手帳を見せるよ。君が知らない場所も、人の名前も、全部書いてある」
「うん。私も、あっちで覚えたことを話す。おじいちゃんには笑われるかもしれないけど、くだらないこともいっぱい書いてあるの」
「そういう話が聞きたい」
アリアの手が、境目の手前で小さく動いた。カノンはついその動きを目で追った。手を取ることさえできないのに、これから一緒に過ごす時間のことを、当たり前のように話している。それが少し嬉しかった。
川の音が急に高くなった。
橋の中央に浮かぶ白い筋が、二人の足元から山裾の方へ伸びている。小さな村の屋根が、その先に見えた。カノンが一歩踏み出すと、遠い家の戸口にも白い光が走る。
「俺がそっちへ行く」
「待って!」
アリアの声に足が止まった。
「今、橋の下の水が逆に流れてる。ここを人が渡れば、その分の力が別の道へかかるの。あの村の水路までつながってる」
カノンは白い光の先を見た。軒下に人影があり、子どもの声が風に運ばれてくる。自分が橋を渡ることで、あそこで暮らす人々の道が消えるかもしれない。
「……そうか」
「おじいちゃんと支えを作ってる。銀の根も、少しずつ育ってるよ」
「最後の木の実か」
「うん。壁で話せたのも、あの根のおかげ。でもまだ細い。ここまで力を受け止められるようになるには、もう少しかかると思う」
カノンは手を伸ばしかけ、下ろした。
「何年も待ったんだ」
思いがけず、声になった。
アリアの表情が曇る。責めたかったわけではない。頭では分かっていても、あと数歩のためにまた引き返さなければならないことが、苦しかった。
「……ごめん。君に言うことじゃなかった」
「ううん。言ってほしい」
アリアは境目のすぐ手前まで来た。
「待ったんだよね。私が思ってたより、ずっと長く」
「君だって帰れなかった。どっちが長かったかを決めたいんじゃないんだ」
「分かってる。でも、その時間を知らないまま、平気な顔をして迎えたくなかった」
カノンは顔を上げた。アリアもこちらを見ている。二人の間の光は、さっきより少し幅を増していた。
アリアは白い境目へ手を近づけ、すぐに引いた。
「触れられないのが、こんなに悔しいなんて思わなかった」
「俺もだよ」
さっきまで触れられそうに見えた手が、また遠く感じられた。カノンは彼女の顔を見つめた。五年ぶりに声が届いた日とは違う。今は表情まで見えるのに、できることはむしろ少ないように思えた。
次の瞬間にも道が閉じるかもしれない。それでも、再び会えたときに何を話すかより、帰ってからの暮らしのことを一つ聞いておきたかった。
「帰る道ができたら、君が何を持って帰りたいか、ちゃんと聞くよ」
「手帳。それから、おじいちゃんの布も。あそこにいた人たちの名前、忘れたくないから」
「俺は、兄さんに短剣を返さないとな」
「まだ持ってるの?」
「ああ。借りてからずいぶん経った。しかも、刃先を欠けさせた」
「ディーン、怒るね」
「たぶん。研ぎ石まで送ってくれたのにな」
アリアが声を立てて笑った。カノンもつられて笑う。ようやく、目の前にいるのが記憶の中の少女でも、助け出すべき人でもなく、いつものアリアだと思えた。
そのとき、外套の内側へ手を入れたカノンの指が、小さな包みに触れた。
「……渡したいものがある」
布を開くと、銀の花が現れた。
五枚の花弁と、青い石。レオから受け取ったときには、留め具に修理した跡があった。カノンはそれから何年も、布で包んで持ち歩いてきた。雨の夜は乾かし、旅の荷をまとめるときは必ず場所を確かめた。
「これ、君に返す」
アリアは息を呑んだ。
「レオが、渡してくれたんだね」
「ああ。俺が十七のときに。向こうのレオは二十歳だった」
「……長い旅をしたんだね、この花も」
「俺より長いかもしれないな」
カノンは境目を見た。人が一歩入れば村の道まで揺れる。小さな髪飾りであっても、勝手に放り投げるのは怖かった。板の隙間に落ちれば、拾うことさえできなくなるかもしれない。
腰にある短剣を外し、鞘に巻いた紐を確かめた。そこへ髪飾りの留め具を引っかけ、紐の端を自分の手首へ回す。鞘を板に寝かせれば、刃を抜かずに境目へ近づけられる。
「花を取ってくれ。剣は返してほしいんだけど」
「剣まで持っていくつもりはないよ」
アリアは膝を折った。カノンが鞘をゆっくり滑らせると、白い線が細く震えた。二人とも手を止める。
光が落ち着いてから、アリアが留め具へ指を伸ばした。触れた瞬間、青い石が淡く光る。アリアは髪飾りをそっと外し、カノンが鞘を引き戻すまでその場で待った。
もう髪飾りは、アリアの掌にある。
触れられない相手へ、ものを一つ渡すだけのことが、こんなに難しいとは思わなかった。カノンは空になった鞘紐を見て、ようやく息を吐いた。
アリアは銀の花を裏返し、留め具の修理跡に目を留めた。
「これ、レオが直してくれたんだ」
「やっぱりそうか。俺が十七歳のレオに会ったとき、あいつはまだその傷を知らなかったよ」
「ふふ、ややこしいね」
「説明するたびに、余計にややこしくなる」
銀の花が、長い順番を経てアリアの手に戻った。カノンはその傷を何度も見てきた。今は彼女が同じ傷を確かめている。それだけで、離れて過ごした時間のどこかが、ようやくつながった気がした。
「これを、向こうの印に置くね」
「どこに?」
「おじいちゃんと見つけた古い廃墟。そこに、確かめてほしいことがあるの」
アリアは少し考え、付け加えた。
「まだ全部は話せないけど、次に道が開いたら、きっと分かるようにしておく」
カノンは頷いた。隠されることに慣れたわけではない。けれど、彼女の言葉を疑う前に、足元の道が今どれほど危ういかを確かめられるようになっていた。
橋の下で金属の軋む音がした。
欄干の一部が外れ、川へ落ちる。橋の中央には白い裂け目が広がり、アリアの背後で帰り道の光が強くなった。
「アリア、そっちの出口が開いてる。先に行って!」
アリアの顔がこわばった。
「……あの夜と、同じことを言うの?」
カノンも言ってから気づいた。
八百年前の白い街で、九歳の自分は八歳のアリアを先に道へ送った。あとから迎えに行けばいいと、何も疑わずに約束した。
橋の白い光が、幼い日の光景と重なる。
「違うよ」
カノンは足元の割れ目を確かめてから、アリアを見た。
「今度は、君がどこへ行くか知ってる。俺も、この側の道を使って戻る。橋を渡って一緒に帰れないだけだ」
「そのあと、どうするの?」
「君が置く印を探す。根の様子も調べる。二人で帰る方法を見つけるんだ。どっちか一人を、あそこに残すためじゃない」
アリアは髪飾りを握ったまま、しばらくカノンを見ていた。
「……遅いよ」
「うん」
「あの夜に、聞きたかった」
「俺も、あのときに言えたらよかった。でも、今なら言える」
彼女は笑った。目元に浮かんだ涙を拭くより先に、背後の光が揺れる。
「じゃあ、私も言う。向こうで待ってるだけじゃない。私も、帰る道を作るから」
「ああ。頼む」
橋の中央で板が裂けた。カノンは一歩下がり、アリアは出口へ向き直る。彼女は銀の花を胸元にしまい、振り返った。
「またね、カノン」
「またな、アリア」
彼女が光を抜けると、向こう岸の夕空が薄れた。橋の中央が別の日付へずれるように見え、次の瞬間、白い線ごと板が落ちた。
カノンは残った欄干をつかんだ。振動が収まるまで、崩れた部分から目を離せなかった。もう向こう岸にアリアの姿はない。けれど、別れ際の声だけは、耳の奥にはっきり残っていた。
頬を拭うと、指先に乾きかけた血がついた。小石がかすめた傷だ。放っておけば消える程度のものでも、あの一瞬に本当に橋の上へ立っていた証拠のように思えた。
カノンは青い布を広げ、橋の位置と白い線の幅を写した。銀の花をアリアへ渡した時刻も書き加える。次に誰かがこの道を調べるとき、同じ危険を繰り返さずに済むように。
橋のこちら側の村へ下りると、すぐに番人を探した。崩れた橋へ近づかないよう伝え、川沿いの家にも声をかけて回る。村の人たちは、ただ板が落ちたのだと思っていた。カノンは見たことを話し、昼のうちに縄を張るのを手伝った。対岸の道にも、人が来ないよう合図を出してもらう。
作業を終える頃には、空が暮れかけていた。
カノンは道の脇で荷を開き、いつも髪飾りをしまっていた場所を確かめた。包みはもうない。何度も手を入れた癖が残っているせいか、空いたところへ指が向いてしまう。
代わりに、ディーンの短剣を収めた。鞘紐には、髪飾りの留め具が触れた小さな跡が残っていた。
銀時計を開くと、帰る道がつながる日付が現れた。今度は、どちらがどの道を通るのか分かっている。再び会える時刻までは、まだ読めなかったが、それを確かめるために進める場所がある。
カノンは古い青い布を畳み、外套の内側へしまった。
あの日の「必ず迎えに行く」とは、もう違う。
アリアも、自分も、帰るために歩いている。
村の灯りが一つずつ点き始めた。カノンは次の道が開く時刻を書き留め、谷を下り始めた。




