第二十七話 銀の花
二十五歳になったころ、カノンは廃墟の机で、銀の髪飾りを見つけた。
白い橋でアリアへ返してから、半年以上が過ぎている。
建物は山の斜面に半ば埋もれ、屋根の片側が崩れていた。雨水が梁を伝い、石床にはいくつもの黒い染みを作っている。奥の机だけは、落ちてきた瓦礫をよけて使われた跡があった。
その乾いた場所に、五枚の花弁を持つ銀の花が置かれていた。
カノンは足を止めた。
青い石も、少し曲がった留め具も覚えている。二十歳のレオが修理した跡まで、見間違えようがなかった。橋の上でアリアの掌に戻ったものが、今また目の前にある。
すぐに手を伸ばすことはしなかった。窓の下には靴の跡が二種類残っている。一つは幅が広く、踵を少し引きずっていた。もう一つはそれより小さく、机の前で足をそろえている。
アリアと、年老いたエドガー。
そう思いかけて、カノンは手帳を出した。砂が流れ込んだ形と足跡の重なりを写し、銀時計を開いて、近くの道の印と照らし合わせる。針は同じ目盛りを幾度か往復したが、足跡の主がいつここに来たかまでは教えてくれなかった。
会いたい相手の痕跡を見つけると、いつも胸が先に走り出す。そうして道を間違えたことを、カノンはもう何度も経験していた。
机に近づくと、髪飾りの下に一枚の紙があった。
『この花を拾う人へ。
中央へ戻る道を閉じる前に、八百年前の塔を見届けること。』
署名はない。だが、最後に描かれた銀の花には、花弁の一枚だけに小さな欠けがあった。アリアが覚え書きの端によく描いていた形だ。
「……分かったよ」
返事をしてから、カノンは自分の声に苦笑した。今ここで、彼女に聞こえるはずもない。
髪飾りを掌に載せる。
青い石が、わずかに温かくなった。
雨音が消えた。
同じ部屋だった。けれど屋根はまだ崩れきっておらず、窓からは乾いた光が差している。机の前にアリアが立ち、銀の花を包んでいた布を広げていた。
窓際には、白髪の老人がいる。年老いたエドガーだ。彼は濡れていない石床へ目をやり、入口から机までの距離を確かめている。
『ここで拾ってくれるかな』
アリアが花を置く。
『拾うだろう。最初も、森で見つけたんだから』
『あのときは偶然だったかもしれないよ』
『今のあいつは、地図を見て来る。足跡だけでは動かんさ』
アリアは少し笑い、机の下へしゃがんだ。細い刃物で木の裏側に何かを刻む。
『それなら、もう一つ残しておく』
視界が揺れる。カノンは膝をつき、彼女の手元を見ようとした。刃物の先で刻まれているのは、数字と道を示す印だった。
そこで景色が途切れ、雨の音が戻った。
カノンは髪飾りを布へ戻し、机の下を覗いた。薄暗い裏板に、確かに印が刻まれていた。指先で埃を払い、鏡を使って読み取る。
次に入口が開く日付。その先に記されたのは、アステリアの塔だった。
八百年前の街。
十七歳の自分がアリアたちと訪れ、三度の鐘を聞いた夜だ。九歳の自分も、八歳のアリアも、そこにいた。黒い外套を着た男が若いオルフェへ金具を渡すところを、カノンはかつて自分の目で見ている。
そして塔には、十五歳の冬に触れた銀板もあった。
あの男が自分だったことは、もう疑わない。だが、誰の手から何を受け取り、どの道へ運んだのか。まだ経験していない場面が、いくつも残っていた。
廃墟を出ると、雨はやんでいた。
道が開くまでの数日、カノンは近くの宿で記録を整理した。銀の花は布に包んで外套の内側へしまい、机には古びた青い布と、水路の写しを広げる。
年老いたエドガーから渡された布だ。中央の街には、後から確認された光の線が何本も縫い足されている。糸が重なる場所も、擦り切れを繕った跡ではなく、記録された道の数だけ厚くなっていた。端にある銀糸の花には、二度結んだ小さな結び目が残っている。後年のアリアが針を持ち、祖父の地図へ縫い足した花だった。
布の上では、通れると確かめた道も、もう閉じた道も同じ一本の糸として残っている。カノンが追いかけてきた八年間が、そこに重なっていた。
最後の木の実が伸ばした銀の根は、星のない場所の壁で今も育っている。もう小袋へ戻すことはできない。それでも水路の反応は布に記録できた。別の場所へ持っていくより、あそこで生きる人たちの水を確かめる方が先だ。
カノンはアステリアの見取り図を開いた。
十七歳の自分が目にした出来事なら、ある程度は分かる。若いオルフェへの金具の受け渡し。塔の揺れ。幼いアリアと二本に分かれた出口。そして、年老いたエドガーの手元にあった銀板。
だが、十五歳の書庫のことは違う。
父の部屋に入ったとき、板は机に置かれていた。触れた直後に知らない街の光景が見え、ひどく怖くなった。誰かに「離せ」と言われた気がしたが、部屋には誰もいなかった。
あの声の主が誰か、今なら分かる。
板を置いた場所も、そのあとの父の行動も、これから自分の目で確かめることになるのだろう。
手帳に屋敷の間取りを書き、当時の自分が書庫へ入った時刻を思い出す。父が使っていた分類札の色、書棚の位置、廊下の窓。曖昧なところには、曖昧だと印をつけた。
記憶は地図ではない。覚えていない場所まで、都合よく埋めてはいけない。
出発の前夜、カノンは廃墟をもう一度訪れた。
机の下の印は雨に濡れても残っていた。アリアが刃を動かす様子を思い出す。彼女も年老いたエドガーも、カノンがここへ来ると信じて、手がかりを置いたのだ。
遠くから、宿の鐘が聞こえた。
カノンは銀時計を開き、道が開く時刻を確かめた。明日、あの白い街へ行く。
*
アステリアの石畳には、まだ夕日の色が残っていた。
八百年前の街だ。水を運ぶ男が通りを横切り、パン屋が店先の木札を裏返している。塔の大時計はいつもの速さで動き、これから三度鳴る鐘の気配など、まだない。
カノンは路地の陰で足を止めた。
十七歳のときに訪れた街と同じだ。あのときの自分がどこかで九歳の少年を追っているはずだと思うと、人通りの向こうを探してしまう。
黒い外套の襟を立て、まず工房へ向かった。若いオルフェが修理に使う部品箱は、通りに面した作業台の下にあった。出入りする職人の邪魔にならないよう端へ寄り、蓋の開いた箱を調べる。
輪の半分を切り欠いたような金具が、一つだけ残っていた。
手帳の絵と、十七歳の自分が目撃した形を比べる。溝の位置も、傷のない平らな面も一致した。
カノンはその金具を手に取った。部品を作り出す必要はない。ここにあったものを、必要な時刻にオルフェの手へ渡すだけだ。
市場へ戻ると、人の輪の向こうで工具箱が落ちる音がした。
若いオルフェの前に、二人の子どもがしゃがんでいる。九歳のカノンと、八歳のアリアだった。少年は散らばった金具を拾い、少女は工具箱の蓋を押さえている。
アリアの髪では、小さな銀の花が揺れていた。
カノンの足が、ほんの一瞬止まる。
彼女はまだ、北門で消えることも、星のない町で人々の井戸を守ることも知らない。隣の少年も、これから八年かけて彼女を探すことを知らない。
子どもたちが塔の方へ歩きだしたところで、カノンは若いオルフェへ近づいた。
「外へ伸びる線を調べるなら、これを」
金具を差し出す。傷のない面を上にして、相手の掌へ載せた。
「……うちの部品だな。どこで手に入れた?」
「作業台の箱から借りた。あとで返すつもりだった」
若いオルフェは金具を裏返し、切り欠きの形を確かめた。離れた場所で、荷運びの男が早く通れと声を上げる。彼はカノンを問い詰める代わりに、金具を外套へしまった。
「先に中へ。塔で見よう」
その言葉は、かつて十七歳の自分が遠くから聞いたものと同じだった。
カノンは子どもたちを追いかけず、別の路地へ入った。背後でアリアが少年の名を呼ぶ声がした。振り返りたい衝動を抑え、街の端へ急ぐ。
*
最初の鐘が鳴ったころ、石畳の下から揺れが伝わってきた。
水路へ人が押し寄せ、露店の皿が床へ落ちる。塔へ向かう道はすでに混み合っていた。カノンは人の流れを逆にたどり、崩れた市場の脇で幼いアリアを見つけた。
少女は低い石段に座り、行き交う大人たちの足を避けている。片手にはほどけかけた袋。もう一方の手で、髪の銀の花を押さえていた。
「アリア」
少女が顔を上げた。
「……カノンは?」
問いかける相手が自分を知らないことを、カノンはもう不思議に思わなかった。
「捜してる。君も一緒に来て」
「さっき、向こうで呼んでたの」
少女が指した先では、床の一部が白く透け、通路を分断していた。その向こうで、九歳のカノンの声が聞こえる。彼も彼女を捜しているのだ。
カノンは少女へ手を差し出した。小さな指がためらいがちに握り返す。
「歩ける?」
「うん。……お兄さん、カノンを知ってる?」
「知ってるよ。少し頑固で、先に走りたがる子だろ」
アリアは驚いたあと、少しだけ笑った。
二人で安全な通路を選び、塔の奥へ向かう。崩れた壁のそばでは、まだ逃げられない人たちがいた。カノンは少女を石段の陰で待たせ、通路に散らばった木箱を脇へ寄せた。人が一人通れるようになると、後ろの老人が礼を言って駆け抜けていった。
塔へ着いたときには、鐘が三度鳴り終わっていた。
年老いたエドガーは、二本に分かれた白い線を青い布で確かめていた。現在のエドガーとオルフェ、十七歳のカノンたちもいる。人数と年齢が入り交じる光景を、カノンは以前、別の立場から見た。
九歳のカノンがアリアを見つけ、駆け寄ろうとする。
カノンは少女の肩へ手を添え、白い境目を指した。
「今は越えないで。こっちの出口が閉じる」
少女の顔が曇る。十七歳のアリアが傍らから声をかけ、足元をよく見るように言った。カノンは自分の銀時計を取り出し、少女の掌に載せた。
「途中で、俺へ返してくれればいい」
「それ、俺の時計じゃないのか?」
九歳のカノンが不満そうに声を上げた。
「お前のは、そこにあるだろ」
黒衣のカノンが少年の右手を示すと、小さな掌には同じ形の銀時計が握られていた。
今はその言葉が、どんな不安を押し隠していたのか分かった。
「カノンも来る?」
アリアが尋ねる。九歳の少年が胸を張った。
「先に行って。俺もすぐ行く!」
その声を聞いたカノンは、少女の髪にある銀の花を見た。これから白い道で落ち、八年後の森で自分が拾うものだ。
「……行っておいで。足元には気をつけて」
言えるのは、それだけだった。
アリアは小さく頷き、白い光の中へ入った。
九歳のカノンが後を追いかけようとする。年老いたエドガーの布には、二つの出口が別々の場所へ伸びていた。ここでどれだけ望んでも、二人を同じ道へ通すことはできない。
少年が角へ消えるのを見送ってから、カノンは塔へ戻った。
年老いたエドガーが、布に包んだ銀板を持っていた。
「これを、十五歳の書庫へ運ぶんだな」
「そうだ。九歳のカノンから預かったものだ。さっき十七歳のお前も触れた」
老人は包みを差し出した。カノンは結び目を確かめ、外套の内側へ入れる。塔の壁から外された板が、ここまで渡ってきたのだ。刻まれた文字が何を示すかは、今も分からない。
出口へ急ぐ人々の向こうに、十七歳のアリアが見えた。彼女はまだ北門で消えておらず、黒衣のカノンがなぜ自分を探すことになるのかも知らない。
カノンは声をかけなかった。代わりに、遠くで一度だけ彼女を見た。
十七歳の自分たちが帰る白い道が細くなり、やがて閉じた。こちらに残ったのは、カノンと年老いたエドガーだった。
「次の道が開くまで、少しある」
老人が言った。
「十五歳のころのお前が、何を怖がっていたか、覚えているか?」
「……誰にも話せないことが増えていくのが、怖かった」
「そうか」
カノンは板の包みへ手を置いた。あの冬の日の声も、手の震えも覚えている。それでも、誰かに代わってもらうわけにはいかなかった。
ほどなく、床に細い白い線が現れた。銀時計の目盛りが、屋敷の冬の日付で止まる。
十五歳の自分がいる日だった。
*
父の書庫は、懐かしい紙の匂いがした。
雪明かりが窓辺を照らしている。棚には幼いころカノンが落として壊した砂時計があり、その台座の傷もまだ新しい。書棚の位置も、机の向きも、書き留めた間取りと変わらなかった。
カノンは扉の外を確かめ、銀板を机に置いた。布をほどき、手を触れずに持ち上げられるよう、金属の角だけを出しておく。
ここへ置いておく時間は長くない。
廊下で足音がした。自分が知っている、まだ軽い足取りだ。
十五歳のカノンが入ってきた。
少年は机の上の板に気づき、しばらく眺めた。見慣れない文字を読もうと顔を近づけ、指先で表面をなぞる。
その瞬間、肩が跳ねた。
黒衣のカノンの脳裏にも、夜の駅舎がよぎった。雨の窓。白い灯り。人の声。いま少年が何を見ているか、同じ景色だとしても確かめることはできない。
十五歳の自分は板から手を離さない。息が浅くなり、もう一度、何かを確かめようと目を凝らしている。
カノンは思わず物陰から声を上げた。
「離せ!」
少年がびくりと手を引いた。
書庫を見回す。棚の陰にいる男には気づかず、扉の方へ目を向ける。しばらくして板へ戻りかけた手を引っ込め、息を整えた。
カノンは動かなかった。
あの日聞いた声は、これだった。
十五歳のときは、誰が叫んだのか分からなかった。怖くて板を離したことだけ覚えていた。いま、自分がその声を届けている。
少年が書庫を出たあとも、カノンはしばらく立っていた。幼いころから抱いてきた異国の景色が、誰の記憶なのかは、まだ答えが出ない。だがあの冬、誰もいないと思っていた部屋に、もう一人の自分がいた。
机の端には、父が分類に使う小さな札が置かれている。カノンはその裏に、銀板の刻みと一致する印を写した。板の来歴を調べるとき、手がかりになるように。
廊下の向こうで、再び足音がした。
父だった。
カノンは棚の陰へ下がり、息を殺した。
父は机に残った銀板を見つけ、眉をひそめた。布をつまんで表面の文字を確かめようとしたが、素手では触れない。小箱を取り出し、布ごと板を収めると、箱の蓋に書庫の番号を書いた。
「……こんな物、いつからここに」
父は扉へ目を向けた。
「あの子は、大丈夫だろうか」
独り言のような小さな声だった。
カノンは棚の木目を見つめた。十五歳の自分は、父へ何も言わなかった。奇妙な景色が見えると知られれば、また心配をかけると思ったからだ。
けれど父は、理由を知らないなりに息子の様子を気にしていた。
今ここで姿を見せて、「大丈夫だ」と言いたくなる。二十五歳になって、まだ誰かを探していることも、家に戻る道があることも。
だが父が知っている息子は、たった今階段を下りた十五歳の少年だ。彼の暮らしの中へ、突然もう一人の息子を立たせることはできなかった。
父は銀板をしまった箱を棚へ収めた。札の印を見つけ、帳面に短く書き留める。二年後、十七歳のカノンが調べることになる位置だ。
カノンはその一連を見届けた。父が廊下へ出てから、静かに書庫を抜ける。
屋敷の裏庭には、冬の夜気が満ちていた。
少年のころに見慣れた窓から、食堂の灯りが漏れている。あの中に家族がいる。今すぐ戸を叩けば、母はきっと食事を勧めてくれるだろう。
足を踏み出しかけて、カノンは庭の石段へ腰を下ろした。昔の自分がその灯りの下にいる。これから二年、知らない景色に悩むとしても、彼には家族のいる毎日が残っている。
カノンは冷えた手を握り、夜が明けるのを待った。
朝、銀時計の針が別の日付を示した。
ディーンが森へ入ってから十一日後。
兄とニナが、まだ帰り道を見つけられずにいる森だった。八年間、いくつもの道を渡ってきたカノンが、いよいよ向かわなければならない場所だ。
荷を確かめる。古びた青い布。欠けた短剣。外套の内側に戻した銀の髪飾り。十五歳の書庫へ運ぶ役目を終えた銀板は、もうここにはない。
十一日後の森には、まだ十七歳の自分もいるはずだった。
カノンは冬の屋敷を振り返り、白い道へ足を踏み入れた。




