第二十八話 帰り道を渡す人
森へ踏み出すと、雨上がりの土の匂いがした。
木の根が浮き出た斜面も、低いところに溜まる白い霧も、カノンには見覚えがあった。だが、銀時計が示す日付は、彼の記憶にある森とは違う。
ディーンが姿を消してから十一日後。
二十五歳のカノンにとって、兄と別れたのは八年前のことだ。ところが、この森にいるディーンが最後に見た弟は、まだ十七歳だった。
行く手で枝の折れる音がした。続いて、鞘から刃を抜く鋭い音。
倒木の向こうにディーンが立っていた。左肩に巻いた布は赤黒く染まり、上着の裂け目から乾いた血がのぞいている。顔色も悪い。それでも右手の剣は、こちらの胸を正確に狙っていた。
「誰だ」
その声を聞いた途端、カノンは言いかけていた説明を忘れた。
最後に屋敷を発つとき、兄は同じ剣を机へ置いて「返しに来い」と言った。あの柄の傷も、研ぎ石を送ってくれた短い手紙も、今のディーンにはまだ覚えのない出来事だ。
「……兄さん」
ディーンの眉が動いた。
「その顔で呼ぶな。カノンはまだ十七だ」
「俺だよ。今は二十五になった」
「何を言ってる」
「道を通って、兄さんとは違う日付を歩いた。俺の方は八年経ってるんだ」
ディーンは剣を下ろさなかった。カノンの頬の細い傷と、黒い外套、手にした銀時計を順に見ている。
「弟の顔に似せることはできる。俺しか知らないことを言ってみろ」
「十歳の冬、父上の酒を盗んだ。一口でむせて、残りを井戸へ捨てようとしたところを、兄さんに見つかった」
刃先がわずかに下がった。
「水を使う人間のことを考えろって、ずいぶん叱られた。父上には黙っててくれたけど」
「……そこまで覚えているのか」
「忘れたくても忘れられないよ」
ディーンは長く息を吐き、剣を鞘に収めた。次に見る目は、相手が敵かどうかを確かめるものではなくなっていた。
「八年、か」
「ああ」
「お前には、それだけ経ったんだな」
カノンは頷いた。兄の髪には、記憶の中にあった白いものがまだない。自分より少し高かったはずの目線も、今はほとんど変わらなかった。
ディーンが一歩近づき、傷のある頬へ目を留める。
「何をしてきたら、そんな顔になる」
「いろいろあった。……ちゃんと話したい。でも、その前にニナを探そう」
ディーンの表情が変わった。
「昨夜までは一緒だった。朝、水を汲みに行った隙にいなくなったんだ。周りの道は全部見たが、姿がない」
「この森の下に、水路がある。今日中に会えるはずだ」
「どうして分かる?」
「ニナが帰ってきたとき、話してくれたから」
兄はそれ以上尋ねなかった。代わりに、腰の水筒を確かめて歩き出す。カノンも隣へ並び、古い地図の印と地形を見比べた。
少し登ったところで、ディーンの足が鈍った。無事な右手で左肩を押さえている。
「傷、見せて」
「平気だ」
「ニナにも、そう言ったんだろ」
ディーンは苦い顔をした。倒木を越えたとき、足場が崩れたニナを引き上げ、古い金具で肩を切ったという。少女の前では痛みを隠していたらしい。カノンは水を渡し、布がずれたところだけ結び直した。
「この先の装置を動かすとき、肩を使わないでくれ」
「どうやって戻る」
「そこは俺が調べる。兄さんには、まだ手伝ってほしいことがあるんだ」
ディーンは不満そうだったが、水筒を受け取った。
夕方、沢沿いの古い水路でニナを見つけた。
石の段に腰を下ろしていた少女は、足音を聞いて顔を上げると、勢いよく立ち上がった。
「ディーン兄ちゃん!」
ディーンは駆け寄ろうとして肩を押さえた。それを見たニナが慌てて歩幅を緩める。少女が差し出した手を、兄は無事な右手で握った。
「一人で行くなと言っただろう」
「ごめんなさい。水の音がして、すぐ戻れると思ったの」
「怪我は?」
「大丈夫。足がちょっと痛いだけ」
それからニナは、ディーンの隣に立つ黒衣の男を見た。
「……カノン兄ちゃん?」
「そうだよ。迎えに来た」
「さっきと服が違う。黒くなってる」
「少し遠くへ行ってたんだ」
ニナは首をかしげたが、それ以上は問い詰めなかった。彼女にとっては、ディーンと再会できたことの方がずっと大事なのだろう。
カノンは少女の歩ける様子を確かめた。九歳のニナにとって、壊れる前の水車小屋で一晩、森でディーンと二晩。合わせて三晩が過ぎている。一方、故郷の町では、少女が消えてからまだ一日ほどしか経っていない。
「帰る道がある。叔母さんのところへ戻ろう」
「怒ってるかな」
「きっと心配してる。まずは無事だって知らせないとな」
ニナは服の襟から木彫りの鳥を取り出した。片方の翼が不格好な、小さな鳥だった。カノンが昔削ってやったものだ。
「これ、ちゃんと持ってたよ」
「よかった。靴は?」
「……片方、どこかで脱げちゃった」
ディーンが呆れたように笑う。カノンも笑い、まだ履いている方の靴紐を結び直してやった。
日暮れが近づくころ、三人は北側の石柱へ着いた。水に削られた古い目盛りと、銀時計が示す日付が重なる。白い道の向こうは、ディーンが森に入った日の町へつながっていた。
カノンは入口の幅を測り、周囲の金具を確かめた。開く時間は短い。通る人の足場まで見えていても、二人続けて入れるかは分からない。
「ニナを先に送ろう」
「お前も一緒に帰るんじゃないのか」
「俺には、もう一つ行かなきゃならない場所がある」
ディーンが顔をしかめる。
「また一人で決めるつもりか」
「ニナの道は今しか開かない。俺はこっちに残って、兄さんと若い俺が帰る入口を確かめる。何も知らせずに消えるつもりはないよ」
カノンは地図を示した。森から水車小屋の地下へつながる線、その先で帰り口の歯車が止まっていること。向こうの十七歳の自分が、これから水車小屋を調べに来ることも、分かる範囲で話した。
ディーンはじっと聞いていた。
「……お前が知っているからといって、帰れると決まったわけじゃないんだな」
「うん。戻り側の仕掛けを直す必要がある」
兄は懐から折り畳んだ紙を出した。角が少し欠け、水染みのある紙だった。どこかの通路で拾ったものらしい。ディーンは余白のある面を広げ、カノンから聞いた水車小屋の入口と日付を書き始める。
「十七のカノンへ渡してもらう。俺の字なら分かるだろう」
筆を走らせる兄の手を、カノンは黙って見ていた。紙の染みも、折れ目も覚えている。八年前、屋敷の食堂でニナから受け取った手紙だ。
「『黒い服の男が手を貸してくれた』……これでいいか」
「全部信じるな、も書いといてよ。兄さんらしく」
「言われなくても書く」
ディーンは口元を歪め、続きを書いた。『一人では来るな』という最後の一行だけ、筆圧が強くなる。
カノンはその紙の反対側に、別の字があることを覚えていた。アリアによく似た、細く少し傾いた字。けれど、それがいつ誰の手で紙に載ったか、ここで確かめることはしなかった。まだ知らない出来事を、勝手に一つの答えへ結びつけたくなかった。
「これ、カノンに渡してくれ」
ディーンから手紙を受け取ったニナは、服の内側に大切そうにしまった。
「木の実も持って帰っていい?」
「三つのやつ?」
「うん。ディーン兄ちゃんにあげたかったけど、割れなかったから」
「それも持っていって。あとで若い俺が預かるよ」
木の実の殻にある銀色の筋を見たとき、カノンの胸が少し温かくなった。故郷の時計塔、水車小屋、星のない町。三つはそれぞれ別の場所に根を張り、今も誰かの道を支えている。だが目の前のニナにとっては、ただきれいだから拾った木の実だ。
「カノン兄ちゃんも、来る?」
「出口までは一緒に行く。出たら、町の人に声をかけてくれ。叔母さんが探してるはずだ」
「分かった」
ニナはカノンの手を握った。白い境目を越えるとき、少しだけ肩をすくめる。向こうの足場を確かめ、少女が一人で歩けるところまで送り出した。
ニナは何度も振り返った。カノンが手を振ると、小さな背中は町へ続く道を駆けていった。
道が閉じたあとも、ディーンはしばらく同じ場所に立っていた。
「戻ったな」
「ああ」
「……俺も、あの子の顔を見たら帰れる気がしてた」
ディーンの声は疲れていた。カノンは隣に立ち、石の継ぎ目へ触れた。
「水車小屋からつなぎ直す。俺が若い方を連れて来るよ」
「俺も行こう」
「兄さんはここを見ていてほしい。輪の動きが止まったら、石柱の裏を確かめて。肩は無理に使わないでくれ」
言い終えると、ディーンはカノンの顔を見た。
「お前、知らないうちに、人へ仕事を頼めるようになったんだな」
「昔は全部自分でやろうとしてたから」
「今でも少し怪しいが」
兄は残った水を半分、弟の水筒へ移した。
「十七のお前にも、今みたいに説明してやれ。何も言わずに命じたら、あいつは余計に突っ走る」
「……よく知ってるな」
「弟だからな」
カノンは水筒を受け取った。八年も離れていたのに、こういうところは何も変わらない。
*
水車小屋へ続く道を抜けたとき、時計は森の十日前を示していた。
ディーンが森へ入った翌日。まだ十七歳のカノンとアリアが、ニナの手紙を頼りに小屋へ来ている日だ。
地下通路は湿り、床下の溝には銀色の根が這っていた。ニナが持ち帰った木の実の一つが、ここへ植えられたのだろう。根は細い金属の輪へ届きかけている。若い自分たちが先に調べた跡を確かめ、カノンは階段を上がった。
上から声が聞こえる。
「ここ、帰る道って書いてあると思う」
アリアだった。
十七歳の彼女の声は、橋の向こうで聞いたものより少し高い。幼いころから知っていたはずの声なのに、今のカノンには長い旅の向こうから届くものだった。
階段を上がると、兵が灯りを向けてきた。若いカノンが剣の柄に手をかける。その隣にいるアリアの髪では、銀の花が揺れていた。
カノンは、どちらにも近づきすぎない場所で足を止めた。
「……生きてたんだな」
口にしてから、自分でも驚いた。
彼女が生きていることは知っている。星のない場所で声を聞き、白い橋で姿も見た。それでも、失う前のアリアが目の前にいる光景に、胸の奥が勝手に反応してしまった。
「私……ですか?」
アリアは戸惑っている。当然だ。この時刻の彼女は、黒衣の男がなぜ自分の顔を見て立ち尽くすのか知らない。
カノンは答えかけ、言葉を飲み込んだ。八年分のことを、今ここで彼女へ背負わせたくはなかった。
「お前、誰だ」
十七歳の自分が剣を向けた。
その姿を見て、カノンは苦笑した。昔、向こうから見た黒衣の男はずいぶん落ち着いて見えたが、実際には剣を向けられる前から胸がいっぱいだった。
「俺も、そう聞いたよ」
「ふざけるな」
「悪い。……俺は、お前が帰れなかった八年間を生きたカノンだ」
証拠を求められ、父の酒を盗んだ冬の話をする。兵たちが笑いをこらえ、アリアが「少し安心した」と言った。自分がかつて聞いた言葉を、今度は若い自分の顔を見ながら聞いている。
剣が鞘へ戻るのを見届け、カノンは兄の居場所を伝えた。
「森の十一日後にいる。左肩を痛めてるんだ。早く戻り口を開こう」
若いアリアも階段へ来た。ここで待っていてほしいと口にすると、彼女はすぐに首を横に振った。
「地図を持っているのは私。危ないなら、どこが危ないか教えて」
その言葉に、カノンは八年前の自分がどう感じたかを思い出した。アリアを危険から遠ざけたいのは自分も同じだ。だが、彼女が自分で選ぼうとしていることまで奪ってはいけない。
「……手すりに寄りかからないで。下の三段は水が溜まってる」
アリアは礼を言って、若いカノンのあとに続いた。
*
水車小屋の地下で、金属の輪が低く鳴った。
カノンは兵の一人に支柱を支えてもらい、もう一人には床の弱い場所を避けて待機してもらった。泥に埋まった四角い金属板を拭うと、若い自分を呼ぶ。
「ここへ手を置いてみろ。兄さんの声が聞こえるはずだ」
最初は水音だけだった。だが目盛りを合わせ直すと、金属の奥から聞き慣れた声が届いた。
『……カノンか? 若い方の』
ディーンの声に、十七歳のカノンが思わず笑う。黒衣のカノンは支柱の重みを確かめながら、わずかに肩の力を抜いた。兄が生きていると分かっていても、こうして確かめるまでの数息は長い。
向こうの輪は、黒く枯れた根に絡まれていた。細い銀の根は残し、古く硬くなった根だけを切れば回り始めるはずだ。カノンは図を指し、若い自分へ切る位置と、閉じかけたらすぐ戻るための印を教えた。
「俺が行く」
少年が言う。予想していた言葉だったが、胸が締めつけられる。
「歯車が止まってから刃を入れろ。銀の根には触るな。向こう側の輪が動かなかったら、戻ってくるんだ」
「分かった。こっちは頼む」
アリアも青い布から印を探し、若いカノンへ見せた。
「光が消えるまで待たないで。弱くなったら、すぐに戻って」
若いカノンは彼女の手に触れ、「帰ってくる」と言った。アリアが「前にも言った」と返す。黒衣のカノンは、そこで初めて二人の顔を同時に見ることができなかった。あの約束がどれほど遠くまで届いたか、今の彼だけが知っている。
白い膜が開き、少年が森へ渡った。
カノンは支柱を押さえ、輪の両側に走る光を見た。金具が熱を帯び、石床の水が細く震える。こちらからは、霧の中で兄弟がかがみ込み、石柱の裏を調べているのがぼんやり見えた。
兵が支柱の留め具を支え直す。アリアは足元の印を読み上げ、カノンは枠の幅を確かめた。向こうを急かすことも、代わりに刃を入れることもできない。
途中で輪の光が乱れた。
十七歳のカノンが動かなくなっている。金属板に触れ、何かを見ているらしい。何を見たのかまでは、こちらには届かない。ディーンが少年を引き戻したところで、ようやく動きが戻った。
「何があったの?」
アリアが尋ねる。
「分からない。でも、今は兄さんがそばにいる」
カノンは輪から目を離さなかった。自分はあの森で、不意に白い街の光景を見た。そして兄に腕を引かれて戻った。その記憶はある。けれど今ここから、その景色まで見えるわけではなかった。
やがて、輪の下半分を覆っていた白い曇りが裂けた。歯車が動き始めたのだ。
「戻ってくる!」
アリアの声と同時に、石床が大きく揺れた。支柱の金具が一つ外れ、輪が傾き始める。カノンは兵へ退くよう叫び、肩を入れて支柱の落下を止めた。古い石が外套へ食い込み、白い光が急速に細くなる。
森では、十七歳のカノンがディーンを支えながら走っていた。靴を取られ、二人の身体が傾く。黒衣のカノンには、あのときの背中の痛みも、兄の重さもまだ覚えがあった。
「前を見ろ!」
霧の向こうから、ディーンの怒鳴り声が響く。
次の瞬間、兄弟が光の中へ飛び込んだ。
石の床へ倒れた二人を、アリアが駆け寄って受け止める。カノンは支柱が倒れきるのを避けて飛び退いた。重たい金属音のあと、輪の内側に残っていた光は消えた。
カノンは膝をつき、兄の左肩を確かめた。
「平気だって言うなら、手当てが済んでからにして」
ディーンが何か言い返そうとしたので、兵から清潔な布を受け取り、傷を押さえる。若いカノンが兄の右手を握っていた。アリアは灯りを寄せ、兵たちは担架に使う棒を探している。
大勢の手が動いて、ようやく一人が帰れる。
白い砂漠で、川沿いの町で、何度も考えたことだった。今日も自分一人では何もできなかったのだと、今なら素直に思える。
*
「俺は、ここから別の道へ行く」
応急の手当てが終わってから告げると、十七歳のカノンが驚いた顔をした。
「屋敷には帰らないのか」
「今は帰れない。迎えに行かなきゃいけない人がいる」
アリアが銀の花へ手をやった。
「でも、私はここにいるよ」
その問いに、カノンはすぐには答えられなかった。自分が八年かけて探したアリアは、この先で出会う人々と暮らし、星のない町を支え、白い橋で彼と話した。今目の前にいる十七歳の彼女の時間を、先へ進んだアリアの代わりにすることはできない。
「君には、これから出会う人がいる。自分で選んで歩く時間もある。俺が迎えに行くのは、その先で帰れなくなった君なんだ」
若いカノンはしばらく黙ってから、尋ねた。
「そのアリアは、生きてるのか」
「生きてる。声も聞いたし、姿も見た。ただ、まだ二人で帰る道が作れてない」
少年はさらに知りたがった。八年間も探す前に、何かできることがあるなら教えてほしいと。カノンはその焦りを知っている。自分自身が、かつて同じことを口にしたのだから。
「最後の木の実を乾かさないでくれ。あれはきっと役に立つ。それと、時計が日付を示しても、足場と戻り側の仕組みを見ないで飛び込むな」
カノンは自分の銀時計を取り出し、使い込まれた蓋を閉じた。これから若い自分が通る道を思えば、教えたいことはいくらでもある。だが、警告を並べるだけでは彼が何を見つけ、誰と出会うかまで奪いかねない。
「エドガーの手紙にあった日付も覚えておけ。兄さんが森へ入って八日後の夜だ」
「分かった」
アリアは祖父の行方を尋ねた。カノンは旅の途中で会えたことと、今もどこかの道を調べていることを伝えた。彼女の顔に安堵が浮かぶ。すぐそこにいる祖父へ会わせられないのは心苦しいが、無事を知るだけでも意味があると分かっていた。
兵たちが担架を運んでくると、ディーンが黒衣のカノンの袖をつかんだ。
「お前も、俺の弟なんだな」
「そうだよ」
「だったら、一人で何とかしようとするな。助けが要るなら呼べ」
八年前にも聞いた言葉だ。カノンは兄の手を見た。今なら、その言葉をただの心配だとは思わない。
「……ああ。そうする」
ディーンが若い方へ顔を向ける。
「お前にも言ってるぞ」
「分かってるって」
「今の返事は信用できないな」
アリアが笑い、十七歳のカノンもつられて口元を緩めた。兄は呆れた顔をしている。カノンはしばらくその様子を眺めていた。
階段へ向かう前に、若い自分が振り返る。
「今度は、二人で帰れよ」
あのとき、黒衣の男がすぐに返事をしなかった理由を、今なら知っている。
誰かを残さない帰り道が、本当に作れるかはまだ分からない。それでも、答えることだけはできた。
「ああ」
十七歳のカノンが担架を持ち直す。アリアも灯りを掲げ、兄たちと階段を上がっていった。
その足音が遠ざかると、石室には水の流れる音だけが残った。
カノンは動かなくなった輪の前へ戻り、床の溝に残る銀の根を調べた。根はまだ生きている。閉じた道の下で、細い光がゆっくりと脈打っていた。
八年前、自分は黒衣の男がここからどこへ行ったのか知らなかった。今、その場所に立っている。兄を助けたことも、ニナを帰したことも、別の結末に変わったわけではない。ただ、あのとき誰かがどこで手を貸していたのかを、自分の手で確かめられた。
カノンは手帳を開き、輪を支えた金具の位置と、銀の根が向かう先を写した。青い布では、その線は中央を離れ、塗り潰された星へ伸びている。
すぐには渡れない。帰りの日付も、まだ読めない。
それでも、次に調べる場所は分かっていた。
カノンは地下の灯りを消さず、夜明けまで水路の音を聞いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第28話をもって、第二章「帰れない八年間」は終了となります。
第一章では謎だった出来事も、少しずつ違う角度から見えてきたのではないでしょうか。
長い旅の中で、カノンは多くの人と出会い、別れ、そして大切なものを見つけてきました。
けれど、アリアとの約束はまだ果たされていません。
二人の物語は、いよいよ第三章へと続きます。
引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。




