第二十九話 知っている場面の向こう側
ディーンを救い出した翌朝、カノンは水車小屋の裏手でオルフェと会った。
昨夜まで人の声が絶えなかった小屋は、朝になると嘘のように静かだった。兵たちは引き揚げ、ディーンも十七歳のカノンたちに付き添われて屋敷へ戻っている。軒から落ちる雫が、水車の止まった羽根を叩いていた。
オルフェは床板を一枚外し、狭い隙間に灯りを差し込んでいた。カノンが声をかける前に、彼は振り返りもせず言った。
「根は生きている」
金属の輪へ向かって伸びる、細い銀の筋が見えた。ニナから預かった二つ目の木の実が、この水車小屋で根を張ったものだ。昨夜、ディーンを連れ戻したときには何度も踏みつけそうになったが、泥の下で途切れずに伸びている。
「輪を動かすには役に立った。ただ、こちらへ来る水だけを使っているわけじゃないらしい」
オルフェが細い金具へ触れると、根の先がかすかに光った。床の下から、遠い水音が返ってくる。
「外側の枝へも流れてるのか」
「そのようだ。どこへ抜けるか、ここからでは測れんがな」
「星のない場所かもしれない」
カノンは古い青い布を開いた。中央の街には、年老いたエドガーが長い年月をかけて縫い足した光の線が幾重にも重なっている。その一本が十二の印から外れ、黒く塗り潰された星へ伸びていた。
布の上では、たった指一本ほどの距離だった。
そこまで行くために八年を費やしても、カノンはまだ、その線の終わりへ立ったことがない。
「塔で調べよう。輪の外側に残った反応と、中央の記録を比べたい」
オルフェは床板を戻し、道具を箱へ収めた。彼にとって、目の前のカノンが八年先から来たという事実は、調査をやめる理由にも、特別扱いする理由にもならないらしい。
二人で町の石畳を歩いていると、屋敷の門が見えた。
庭には母がいた。洗濯物の入った籠を抱え、冬を越した木の枝を見上げている。昨日まで別の日付を歩いていたカノンにとって、母がこんな近くにいるのは久しぶりだった。
思わず足を緩める。
門の内側で犬が吠えた。母がこちらへ顔を向ける前に、カノンは石塀の陰へ身を引いた。
「会わないのか」
オルフェは立ち止まっていた。
「今朝帰ったばかりの俺が、あの中にいる。いきなり二人で顔を出したら、母上が困るだろ」
「そうかね。あの人なら、二人とも食卓へ座らせると思うが」
「……それは、ありそうだ」
カノンは笑った。昔から母は、客が一人増えるたびにパンを余計に切る人だった。自分が旅へ出てからも、手紙に食べ物を添えることを忘れなかった。
それでも門へは向かわなかった。
今日、十七歳のカノンが母と交わす言葉まで、自分のものにしたくはない。十七歳だったころ、黒衣の自分がどこで何をしていたかも知らずに過ごした。その知らなかった時間を、今はこうして歩いている。
門の向こうから、母が誰かを呼ぶ声がした。返事は聞き取れなかったが、カノンは少しだけ目を閉じ、それからオルフェのあとを追った。
時計塔の地下には、夜の湿気が残っていた。
円形の床に刻まれた十二の印。その中央だけが、呼吸するように弱い光を明滅させている。オルフェは昨日の測定紙を並べ、エドガーから預かった書簡の写しを出した。
記された日付は、ディーンが森へ入って八日後の夜。
「今日は二日後だ。あと六日ある」
カノンが言うと、オルフェは頷いた。
「もともと、その夜に塔へ来る予定だった。ところが木の実が古い仕掛けをつなぎ直して、十七歳のお前たちは先に八百年前へ行ってしまった」
「予定だけが残ったんだな」
「何も起きない予定なら、ここまで反応は強くならん」
オルフェは中央の溝を指した。昨夜までは途切れ途切れだった銀の筋が、床の縁に沿って伸びている。
カノンは外套から銀の髪飾りを取り出し、溝へ近づけた。青い石に淡い熱が宿る。布の端の銀糸にも、指先で感じるほどの温かさが伝わった。
だが、銀時計を開いても針は動かなかった。
「……やっぱり日付は出ない」
「向こうへつながる反応はある。それと、行き先を読めることは別だ」
オルフェは道具を置き、床に小さな丸を三つ描いた。
一つ目は、この塔に根づいた木の実。二つ目は、さっき見てきた水車小屋のもの。そして三つ目は、未来のカノンが星のない場所に近い石壁へ植えた最後の木の実だ。
「三つとも、日付を増やすわけじゃない。途切れた金属と水の通り道を、根がつなぎ直している」
「三つ目は、向こう側まで届いてる。アリアとも声を交わせた」
「なら、そこを支えに使える可能性がある。だが、細い根一本へ急に力を渡せば、今度は別の枝へ溢れる」
カノンは白い砂漠で崩れた出口を思い出した。最後の一人になってから石が軋み、短剣の刃先を欠けさせた。あの場では金具を支えれば済んだ。だが、星のない町では、離れた日付にも人が住んでいる。
「アリアを動かす前に、何をどれだけ根へ移せるか測るんだな」
「そうだ。それと、こちらへ帰る仕組みもな」
オルフェが言うと、カノンは顔を上げた。
「向こうへ入る方法だけでは足りない。お前が戻れなければ、アリアを迎えに行った意味がないだろう」
「……ああ」
今なら、その言葉に素直に頷けた。
夕方、塔の階段から見慣れた足音が聞こえてきた。
ディーンだった。左腕を布で吊り、手すりにつかまりながら慎重に下りてくる。右手には布包みを抱えていた。
「十七のカノンに頼まれてな。余った食べ物を持ってきた」
「肩は?」
「お前たちが昨日巻き直したままだ。今日は説教しに来たんじゃない」
そう言って包みをカノンへ押しつける。
開くと、丸いパンが三つ入っていた。まだ少し温かい。焼き色の濃い端を見ただけで、母が作ったものだと分かった。
「母上が?」
「二人分頼んだら三人分になった。誰が食べるかは、母上にとって大した問題じゃないらしい」
屋敷の門を避けたことを見抜かれた気がして、カノンは少し困った。
「……礼を言いたかったな」
「言えばいいだろう。別に俺を通さなきゃ届かないわけじゃない」
ディーンはそう言って、塔の床へ目を向けた。
「それで、アリアはどこにいる?」
オルフェが描いた三つの丸を見て尋ねたのだ。
「三つ目の先だ。俺が歩いてきた時間では、あそこの壁まで根が届いてる。けど、この時刻からはまだ直接行けない」
「八日後の夜なら行けるのか」
「入口が開く見込みはある。帰れるかどうかは、これから調べる」
ディーンの目が細くなった。
「一人で?」
カノンはオルフェを見た。彼は作業台で金具を並べている。誘われてもいないのに同行者にしてしまうところだった。
「……オルフェ。向こうへ入るとき、手を貸してくれないか」
呼ばれた男は、ようやく顔を上げた。
「私が関わった設備だ。見届けるつもりだったよ。だが、入る前に戻り側も調べる。条件はそれだ」
「分かった」
ディーンが鼻を鳴らした。
「やっと、人の返事を聞いてから決めたな」
「兄さんが言ったんだろ。十七の俺にも、ちゃんと説明しろって」
「自分の言ったことくらい覚えてる」
三人の間に短い笑いが起きた。
ディーンはそのあと、パンを半分に割って自分の分を取った。怪我をした肩のせいで片手ではうまくちぎれず、カノンが包み紙を押さえる。兄は礼も言わずに食べ始めた。そんなところまで、昔と変わらなかった。
パンを食べ終えたころ、カノンはオルフェへ声をかけた。
「明日、北門へ行ってほしい」
手が止まる。
「どうしてだ」
「兄さんが森へ入って三日後。あそこに白い線が開く。アリアが……向こうへ消える」
口にすると、あの日の冷たい石畳が足元によみがえった。つかんでいたはずの腕が薄くなり、指の間から感触が消えた。八年たった今も、そこだけは鮮明だった。
ディーンも黙った。彼にとっては、明日のことだ。カノンが知っている失踪を、これから目の前で経験する。
「止める方法はないのか」
オルフェは床の印を見たまま尋ねた。
「俺も調べた。行き先の日付は読めない。無理に閉じれば、北門の周りに伸びた線が家の方へ戻るかもしれない」
「なら、現場を見て決める。何もせずに待つつもりはない」
「俺も行く」
カノンが言うと、オルフェは初めて厳しい顔をした。
「お前が来たからといって、彼女が消えなくなるわけではない。それは分かってるな」
「分かってる。でも、消えたあとに残る印なら調べられる」
オルフェは頷き、翌朝に持っていく工具を選び始めた。
北門から警鐘が聞こえたのは、その翌日の昼だった。
カノンは塔の階段を駆け上がり、途中で足を止めた。ちょうど今、十七歳の自分が何も知らずにアリアの腕をつかんでいる。そう思うと、走らずにはいられなかった。
工具袋を取り、門へ向かった。
石畳には白い筋が消えかけた跡があった。家々の戸は閉まり、兵が門の前を空けている。ディーンは人払いを続けていたが、カノンの姿を見ると、短く首を振った。
間に合わなかった。
十七歳のカノンとアリアの姿は、もうそこになかった。若い自分は兄に連れられ、この場所を離れたのだろう。
オルフェは石の縁へ膝をつき、金属の目盛りを確かめていた。現在のエドガーが、その隣で青い布の新しい方を広げている。
「警告を聞いていたのに、止められなかった」
オルフェは立ち上がらずに言った。責める声ではなかった。測り終えた数字を、淡々と手帳へ記している。
「家へ伸びた線は閉じた。そこは守れた。でも中央の流れは、こちらでは受け止めきれなかった」
カノンは北門の石に膝をついた。昔、自分がアリアの姿を見失った場所だ。白い光はもうない。割れ目の奥で水が流れる音だけがしている。
「……アリアは生きてる」
ぽつりと言った。
エドガーが顔を上げた。この時刻の彼には、それを確かめる手段がまだない。
「俺は向こうで声を聞いた。姿も見た。だから、ここから連れ戻せなかったことだけで、全部終わりだとは思わないでほしい」
エドガーは答えず、布の端を押さえ直した。しばらくして、オルフェが印の一つを指す。
「消えた線の幅は測れた。次に同じ場所へ通じたら、今度は入口の外から力を逃がせるかもしれない」
「……うん」
「そのためにも、今ここに残ったものを記録する」
カノンは手帳を出し、石畳の傷と白い線の向きを写した。十七歳の自分がここで何を叫んだかは覚えている。だが、彼が去ったあとに二人が測っていた数字は知らなかった。
知っている場面にも、まだ見ていない続きがある。
塔へ戻ると、オルフェは北門の記録を中央の印へ重ねた。消失の瞬間、流れは十二の道へ均等に散ったのではなく、一つだけ外の枝へ大きく傾いていたという。
「黒い星の方だ」
カノンが布を指すと、オルフェは頷いた。
「この枝を受ける支えが向こうにあれば、北門で起きたことを繰り返さずに済むかもしれない」
過去の自分へ同じ警告を何度言っても、今日のアリアが戻ってくるわけではない。それでも、今調べたことは五日後へ持っていける。
二人は毎日、塔の地下へ下りた。
昼には冷えた金具が、夜になるとほのかに温まる。中央の白い筋は、ディーンが森に入って四日後には床の端に現れ、翌日にはさらに伸びた。オルフェは幅と熱の変化を並べ、八日後の夜には二人が並んで通れるだけの開口になると見積もった。
扉が開いている時間までは、確かめられない。銀時計も、行き先の日付を示さなかった。
カノンはその不確かさを、手帳の空欄に残した。
昼過ぎに測定を終えた日、カノンは屋敷の方へ一人で歩いた。
門の向こうでは、母が窓を開けていた。誰かの上着を日に当て、肩の縫い目を指で確かめている。十七歳の自分のものだろう。少し前なら、息子がまた服を裂いたと小言を言っていたかもしれない。
カノンは塀に寄りかかり、しばらく見ていた。
声をかけたら、母は驚くだろう。だが、驚いたあとで何を言うかも、なんとなく分かる。食べているのか。眠っているのか。どこで怪我をしたのか。
八年間、心配をかけまいとして手紙に書かなかったことがいくつもあった。自分の無事を知らせるだけでも、誰かの夜を少し変えられたはずなのに。
カノンは屋敷へ入らず、近くの店で紙と封筒を買った。今の自分がどこにいるか、誰と調べているか、まだ帰る道が分からないことを、時間をかけて書いた。先の約束はしなかった。ただ、伝えられることを伝えようと思った。
夕方、ディーンが塔へ来たとき、その手紙を渡した。
「母上に」
「直接渡さないのか?」
「今は、十七の俺がそばにいるから。……でも、読んでもらいたい」
兄は封筒の表を眺めた。
「渡しておく。俺は、二人いても困らないと思うがな」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……今度帰れたら、ちゃんと顔を見せる」
言ってからカノンは息を吐いた。必ず帰るという保証ではない。それでも、自分の願いを口にすることまで避けたくはなかった。
出発の日の夕方、母のパンを最後の一切れまで食べた。
布包みの底には、乾いた果物も残っていた。長旅のあいだ何度も届いた、いつもの味だった。
塔の地下では、白い筋が中央の金具へ届き、細い光をつくっている。オルフェは工具の数を確かめ、向こうで測る順番を手帳に書いていた。誰か一人が残ることを、最初から計画に入れない。二人で調べ、支えを見つけ、帰る方法も探す。それが今夜の仕事だ。
階段の上からディーンが降りてきた。片腕はまだ布で吊ったままだが、もう一方の手に新しい革の鞘を持っている。
「短剣を貸してみろ」
カノンは腰から外した。白い砂漠で先端を欠けさせたまま、研ぎ直せていない。
「……怒る?」
「石に突っ込んだ刃を見て、褒めると思うか」
「兄さん、見てたのか?」
「刃を見れば分かる」
ディーンは短剣を抜き、欠けた部分を確かめた。それから鞘紐を外し、新しい革の鞘へ入れ直す。古いものは何度も濡れて硬くなり、抜き差しすると刃に引っかかるようになっていた。
「直せるところは直した。刃は帰ってから職人に見せろ」
「……ああ」
「返すときは、持って帰ってきた理由から聞く」
カノンは笑った。兄は笑わなかったが、鞘を渡す手に力は入っていなかった。
「オルフェも行くんだな」
「うん。入る前に、戻れる条件を調べるって約束した」
「ならいい。片方だけ帰る道を見つけても、勝手に決めるなよ」
カノンは答えた。
「分かってる。アリアにも、そう約束した」
上階で大時計が動き始めた。夜半へ向かう針の音が、石の壁を伝ってくる。八年前、エドガーの手紙を握っていた十七歳の自分は、この音を聞く前に八百年前の街へ行った。だからこの先は、誰の記憶にも頼れない。
「カノン」
ディーンに呼ばれ、振り返る。
「帰る日付が分かったら、書け。どんなに遅くなってもいい」
「……うん。必ず知らせる」
今できる約束を、それだけ残した。
地下からオルフェの声がした。カノンは新しい鞘を腰へ戻し、兄に頷いて階段を下りる。
白い線の向こうから、冷たい風が吹いていた。
カノンは銀時計の蓋を閉じ、オルフェの隣へ立った。もう一度だけ、二人で調べた道の印を確かめる。
八日後の夜が、始まろうとしていた。




