第三十話 八日後の夜
ディーンが森へ入って八日後の夜、時計塔の地下に白い扉が開いた。
塔の大時計が日付をまたぐ少し前から、床に刻まれた十二の印は、外側から一つずつ光を失っていた。最後に中央の印が暗くなると、円形の床を横切って一本だけ白い線が残った。
カノンは使い慣れた銀時計を開いた。針は目盛りの間で細かく震えている。何度蓋を閉じて開き直しても、行き先の日付は現れなかった。
「……やっぱり読めないか」
「時計を叩いても変わらんぞ」
隣でオルフェが言った。工具袋の留め紐を締め直し、白い境目の前へ膝をつく。小さな灯りを石の向こうへ差し出すと、炎は消えず、細長く揺れた。
向こう側にも床が続いている。ただし境目を越えた先の石は黒く、水を含んだように鈍く光っていた。冷たい風が足元を通り、ずっと遠くで金属の軋む音がする。
「空気は通っている。足場も、見える範囲では崩れていない」
オルフェは細い測り棒を差し込み、石の継ぎ目をなぞった。棒の先に水がつく。戻して匂いを確かめ、手帳へ短く記した。
カノンは古い青い布を広げた。中央の街には、光の線を記録するための糸が幾重にも縫い足されている。年老いたエドガーから託された布だ。その中央を離れ、黒く塗り潰された星へ向かう一筋の印が、今夜の扉と重なっていた。
「第三の根は、どこまで来てる?」
オルフェが壁際を示す。銀の細い筋が、金属の継ぎ目を伝い、扉の敷居の下へ潜り込んでいた。カノンが二十二歳の春に植えた最後の木の実は、今も向こう側へ根を伸ばしている。
「切れてはいない。だが、向こうで何を支えているかは、ここからでは測れん」
「アリアを動かせるだけの力があるかも、か」
「そうだ。答えは見てからだな」
カノンは頷いた。あれから旅先で何度も根の反応を調べ、星のない場所について記録を集めてきた。それでも、向こう側で起きていることのすべてを知っているわけではない。
以前なら、それでも飛び込んでいたかもしれない。
白い線を見つめているうちに、無意識に一歩踏み出しかけた。背後で金具の鳴る音がして、振り返る。オルフェが工具袋を肩へ掛けようとしていた。
「……先に行くところだった」
「そう見えた」
「悪い。待つよ」
「珍しく、こちらが言う前に気づいたな」
「兄さんにも同じことを言われた」
オルフェはわずかに口元を緩め、灯りを持ち直した。
「帰り口には印を残す。閉じたら、向こうから水路を調べ直す。それでもいいな?」
「うん。戻れると分かってないことも、忘れてない」
二人は肩を並べて白い境目を越えた。
*
最初に感じたのは、水の冷たさだった。
靴底に湿った石が触れ、足を運ぶたび、小さな水音がした。頭上には暗い空が広がっている。雲らしいものがゆっくりと流れていたが、その隙間を探しても月はなく、星も一つとして見えない。
それでも夜の闇とは違った。空全体が薄く灰色を帯び、道の両側に並ぶ家の輪郭だけは見えた。石畳には古い金属の線が走り、家々の下へ枝分かれしている。どの線もところどころで途切れ、その端には水が溜まっていた。
「……ここが」
声に出しても、続く言葉が見つからなかった。
何年も探してきた場所だった。もっと荒れ果てた街を想像していたし、アリアが一人で閉じ込められた暗い部屋を思い浮かべたこともある。だが、石畳には新しい車輪の跡があり、戸口には使い込まれた箒が立てかけてあった。
遠くから、幼い子どもの笑う声が聞こえた。
オルフェは門にあたる石枠の側面へ小さな印をつけ、戻ってきて同じ位置を見つけられるよう、手帳に形を写した。
「今はここに入口がある。明日もあるとは限らんがな」
「分かってる」
カノンは振り返り、白い光の幅を目で測った。ここからなら、故郷の塔の床がまだ見えている。ほんの数歩の距離なのに、向こうには確かな日付があり、こちらにはそれさえ読めない。
オルフェと並んで歩き始めると、一軒の家の戸が開いた。
若い男が水桶を二つ抱えて出てくる。見慣れない二人に気づき、警戒した様子で立ち止まった。男の背後では、小さな子が戸の隙間からこちらを覗いている。
「塔から来たのか?」
「そうだ。人を探している」
「栗色の髪の人なら、あっちだ。灯りをつけてる家」
男は桶を片方下ろし、通りの奥を指した。カノンが礼を言うと、男は去りかけてから振り返った。
「道を開けるなら、先に言ってくれ」
「何かあったのか」
「前に急に開いたとき、井戸の水がごっそり向こうへ落ちたんだ。うちの子が桶を下ろしても、底へ届かなかった」
戸の陰にいた子が、父親の服を握った。男はその頭を撫でながら続ける。
「朝には少し戻ったけどな。次もそうなるとは限らない」
オルフェはすぐに水路の位置を尋ねた。男が指す方角と、家の数、井戸を使う世帯を手帳へ書き込んでいく。
「先に知らせる。勝手に大きく動かしたりはしない」
その返事に男の肩が少し下がった。
「それならいい。塔の人にも伝えてくれ」
戸が閉じると、オルフェは手帳を畳んだ。
「設備を調べに来た人間が、最初に調べるべきことを教わったな」
「井戸か」
「住んでいる者の暮らしだよ。水路の数字だけじゃ、そこまで分からん」
カノンは閉じた戸を見た。ようやく辿り着いた町には、アリアだけでなく、井戸の水を頼りに暮らす人々がいた。
*
通りを進むにつれ、家の窓に灯りが見え始めた。
何軒かの窓に、赤と青の糸を縫いつけた木札が掛かっていた。井戸の水位を知らせる札だ。壁越しにアリアが話してくれたものを、カノンは初めて目にした。
街の中央には、周囲より少し高い建物があった。窓辺に置かれた灯りが、濡れた路面へ細長く伸びている。
その明かりの横に、人影が見えた。
栗色の髪が、肩のあたりで揺れた。
「アリア……」
窓の人影が動いた。すぐに扉が開き、彼女が外へ出てくる。
白い橋で別れたときより、頬が少し痩せていた。首元の服も見慣れないものになっている。けれど駆けだそうとする前の、あの一瞬の表情は覚えていた。
「カノン!」
彼女の声に、足が勝手に動いた。
黒い石畳が水を跳ねる。今度は橋の白い境目も、二人を分ける別の日付の空もない。同じ道の上を、まっすぐ走っていける。
「そこ、踏まないで!」
アリアが鋭く叫んだ。
カノンは足を止め、見下ろした。靴先のすぐ前に、細い白い線が走っている。水を含んだ石の継ぎ目に沿って、線は彼女の立つ場所まで続いていた。
「右の石へ。そう、そのまま止まって」
言われたとおりに足を移すと、白さが少し薄れた。アリアもこちらへ歩いてきたが、数歩先で止まる。
近い。
白い橋の上で手を伸ばしたときより、ずっと近い。間に壁も光の幕もない。それなのに、アリアはそれ以上進まなかった。
「……来たんだね」
「ああ。八日後の夜に開くって聞いてたから」
「おじいちゃんから、準備してるって聞いてた。だけど本当に来るまでは……」
アリアはそこで口をつぐみ、笑った。嬉しいのに困ったような、カノンがよく知る笑い方だった。
「会えたな」
「うん」
返事と同時に、彼女の視線が足元へ落ちた。
カノンはその理由を探し、襟元からのぞく細い黒い筋に気づいた。最初は服の影かと思った。だが、首筋から鎖骨へ伸びる線は皮膚の上にあり、彼が半歩近づいた途端、色が濃くなった。
「カノン、そこまで」
アリアの声に、彼は身体を止めた。
「……痛むのか」
「少し。でも、あなたが悪いんじゃない。ここの道が、あなたの方にも反応してるの」
オルフェが横へ回り、アリアの立つ石の縁を調べ始めた。灯りを低くすると、地下から銀色の根が何本か伸び、その一本が彼女の足元の金具へ入り込んでいるのが見える。
「根は届いている。人の代わりに、一部は受け止めているらしい」
「少しだけね」
アリアは袖口を持ち上げた。腕の内側にも黒い線があった。傷口はない。何かを強く押し当てたあとの影のような筋が、手首の近くまで続いている。
カノンが息を呑んだのに気づいたのか、彼女は袖を戻した。
「橋のときより増えた?」
「増えたり、薄くなったりする。井戸の水が動くと、変わるの」
あと三歩で手が届く。その三歩がアリアを苦しめるなら、今は越えられない。
「この線が、君をここにとどめてるのか」
「私が離れると、外へ伸びた道に力が戻る。ここだけじゃなくて、別の日付の家にも届くかもしれない。……前に話したとおりだよ」
「分かってるつもりだった。実際に見るまでは」
カノンはアリアの腕を見た。あの黒い筋とともに、彼女はここで暮らしてきたのだ。
「俺は、君を引っぱって帰るために来たんじゃない」
アリアが顔を上げる。
「この線が何を支えてるのか、俺も見たい。君の体から外していいものと、先に受け止めなきゃいけないものを、一緒に調べたい」
「……うん」
アリアの目元が潤んだ。彼女は慌てて目を擦り、それから少し照れたように笑った。
「ありがとう。来てくれて、嬉しい」
「俺もだ」
話したいことはまだ尽きなかった。そのとき建物の扉が開いた。
「オルフェまで連れてきたか」
年老いたエドガーが立っていた。
八百年前の塔で見たときと同じ、深い皺のある顔だ。片手には青い布を抱えている。カノンが持つ古い布ほど線は重なっていない。だが十二の印と、その外へ伸びる細い道の形はよく似ていた。
「私が関わった設備だ。見に来ないわけにはいかない」
オルフェが答えると、老人は喉の奥で笑った。
「相変わらずだな」
「そちらもな。人の図面へ勝手に印を増やしたらしい」
「お前の図面だけでは、ここまで来られなかったからな」
言い合いながらも、二人の視線はすでに床の金具へ向いていた。カノンはその様子を見て、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
エドガーは青い布を石段へ広げ、カノンにも手元の布を出すよう促した。
二枚の布は、同じ場所に違う数の線を記していた。カノンの古い布は中央の街で糸が厚く重なり、老人が持つ布にはまだ余白が多い。
「昨夜から、ここの線が太くなり始めた」
老人が示したのは、塗り潰された星へ向かう筋だった。
「根は届いた。けれど、アリアが受け止めているものを丸ごと預けるには、まだ足りん。先に支えを作り、それから少しずつ移す必要がある」
「どこへ移すか、家の位置も含めて確かめたい」
オルフェは先ほど聞いた井戸の話を伝え、エドガーに水路の見取り図を求めた。老人が頷き、布の脇へ家々の印を足していく。
アリアも手帳を広げ、水位の記録と家々の位置を照らし合わせていた。
*
街の奥で、低い鐘が鳴った。
カノンは思わず塔の方角を探した。けれどアリアが首を振る。
「アステリアの鐘じゃないよ。古い金具が大きく震えると、ああいう音がするの」
鐘が二度目に鳴ると、アリアは戸口の木札を裏返した。青い糸が隠れ、赤い糸が外を向く。向かいの窓にも赤い札が上がり、子どもが家の奥へ引っ込んだ。
「揺れが大きい日は、井戸と地下室に近づかない約束なの」
「前に話してくれた札だな」
「うん。家ごとに避難する場所も決めてある」
アリアは戸の横の名簿を見せた。足の悪い老人がいる家、夜は子どもだけになる家。その横に、迎えに行く隣人の名も書かれている。
カノンが名簿を見ていると、向かいの家から男の叫び声がした。
「井戸の水が落ちてる!」
さっき水桶を抱えていた男だった。井戸の蓋を少し持ち上げ、中を覗いている。水位の目盛りが、一つ、また一つと現れていた。
アリアは戸口から住民たちへ声を張り上げた。カノンとオルフェが井戸へ走る。石畳の継ぎ目には、先ほどまでなかった白い線が走っていた。
「この金具を閉じれば……」
カノンが井戸の脇へ手を伸ばすと、戸口からアリアの声が飛んだ。
「待って。それを閉めたら、向こうの家へ流れる!」
通りの先でも、水路の金具が震えている。
「先に人を離してくれ。水は私たちが見る」
オルフェの声に、アリアが頷いた。赤い札を確かめながら家々へ呼びかけると、男は井戸の蓋を戻し、子どもを連れて石段の上へ退いた。
オルフェは路地脇の水門へしゃがみ、留め金の位置を示した。
「カノン、そちらの板を押さえろ。一度に閉めず、私の合図で少しずつ戻す」
カノンは濡れた板を支えた。金具が指の下で震えている。オルフェが水門を一目盛り動かすと、井戸の奥から水の跳ねる音がした。
「そこで止めろ」
男が石段から水位を確かめ、声を上げる。
「下がるのが止まった! 少し戻ってる!」
そのとき、アリアが短く息を詰めた。
袖口から覗いた黒い線が、さっきより濃い。カノンは支えていた板を離しかけたが、オルフェが首を振った。
「急に戻すな。もう一度水が落ちる」
カノンは板を支え直した。アリアも「大丈夫」と答えたが、眉間の皺は消えない。
しばらくして水位の変化が収まり、オルフェは金具の位置を固定した。井戸の家の札はまだ赤いままだ。住民が安全を確かめるまでは、戻さないという。
カノンはアリアの腕を見た。井戸の水は戻り始めたのに、黒い筋は薄くならない。
「水を戻せば、君の負担が増えるのか」
「……そうなることがある。でも、いつも同じじゃない」
オルフェは濡れた金具を見比べた。
「今は応急処置だ。どこへ力が移ったのか、中央で調べよう」
年老いたエドガーは二枚の青い布を畳み、家の位置と水門の目盛りを書き添えた。カノンも手帳を開いた。井戸を守ることと、アリアを解放すること。その両方に同じ水路が関わっている。
アリアは戸口から井戸の男に、赤い札をまだ下ろさないよう伝えた。カノンが歩み寄ると、彼女は名簿へ目を向けた。
「帰れるようになったら、この人たちにもちゃんと話したいの」
「ああ。何も言わずにいなくなるのは、俺も嫌だ」
アリアは小さく頷き、建物の戸を開いた。
「中の装置を見てほしい。私が押さえてるのは、ここと同じ線だから」
奥には金属の輪があり、床の溝が四方へ伸びていた。その先の暗がりに、ガラスのない古い窓枠が見える。今は何も映っていない。
振り返ると、町へ来たときの白い帰還口は、すでに消えていた。銀時計も日付を示さない。
カノンは蓋を閉じ、アリアとオルフェのあとに続いた。今夜はまだ、確かめることがある。




