第三十一話 ここに残った理由
建物の奥へ入ると、外の水音が遠のいた。
年老いたエドガーに案内された部屋には、街路を見下ろす小窓が一つあり、反対側の壁にはガラスのない石の窓枠が埋まっていた。床の中央を占める円形の装置には、擦り減った十二の印。その中心から黒い筋が伸び、金具の下へ消えている。
小窓の向こうでは、向かいの家がまだ赤い札を掲げていた。さっき井戸の水位が急に下がり、カノンとオルフェが水門を調整した家だ。水の減り方は止まったが、札を青に戻せるほど安全を確かめられたわけではない。
「まず、さっき水門を動かした影響を確かめよう」
オルフェが工具袋を下ろした。
年老いたエドガーは床の脇に置かれた測定板を持ち上げ、金具の位置を示す。アリアは装置の中央近くに立ったまま、首筋へ手をやった。戸口からここまでなら歩けるが、離れた場所へ移ろうとすると黒い線が強くなるらしい。
カノンが近づくと、彼女の襟元の筋が濃くなった。二人とも気づき、言葉を交わすより先に足を止める。
三歩。
橋では境目に遮られた距離だった。今は手を伸ばすことさえできるのに、踏み出せば彼女の負担が増える。
「このレバーは、ほんの少しだけ動かす。外の家に変化が出たら、すぐ戻す」
オルフェが小窓を開けた。カノンは街路を見張り、エドガーは装置の印を読む。アリアには、痛みと黒い線の変化を伝えてもらうことになった。
金具が半目盛り動く。
「あ……少し楽になった」
アリアの肩から力が抜けた。首筋の黒さも確かに薄い。
だが、ほとんど同時に、外で金属を叩く音がした。
向かいの家の戸口から白い筋が伸び、石畳を這い始めている。赤い札の下で、井戸番の男が子どもを家の奥へ下がらせた。
「戻して!」
カノンが言い終える前に、オルフェはレバーを元の位置へ戻していた。外の筋が薄れる。代わりにアリアが息を詰め、袖の内側を押さえた。
「……戻った。痛みも」
カノンは小窓から目を離せなかった。さっき井戸の水位が下がったときは、応急処置のあとでアリアの黒い線が濃くなった。今度はレバーを動かすと、彼女が楽になる代わりに家の足元が白くなった。
支える力は消えず、別の場所へ移るのだ。
「だから、ここから離れられないのか」
「うん。でも、最初からこうだったわけじゃないよ」
アリアは一度腕をさすり、エドガーの机へ目を向けた。
そこには、水染みのついた手帳が何冊も重なっていた。
*
「来たばかりのころは、街の端まで歩けたの」
アリアは古い一冊を開いた。日付の異なる道が入り組んだ地図に、子どもの書いたような家の印が添えられている。
「おじいちゃんと水路を調べて、戻れそうな出口も探した。でも外へ伸びる線が何度も開きかけて、そのたびに家が一つずつ消えた」
カノンは紙に描かれた家の数を数えた。取り消し線の引かれたものがいくつもある。
「そこにも、人が?」
「住んでいたよ。ずっと前にこの街へ取り残された人の子孫もいれば、別の日付から迷い込んで、ここで暮らすようになった人もいる」
アリアは家の名前を指した。ある一家は地下へ避難し、翌週に戻れた。別の家では窓の向こうだけが違う季節になり、住む場所を移した。印の横には、誰が歩けるか、誰を迎えに行く必要があるかまで書き込まれていた。
「髪飾りを中央へ近づけると、線が細くなった。私が金具に触れたら、もっと小さくなって」
アリアは左手を開いた。銀の花はもうそこにはない。白い橋でカノンから受け取り、そのあと廃墟の机に残したからだ。
「最初は、おじいちゃんが別の支えを見つけるまでのつもりだった。すぐ帰れると思ってたんだ」
手帳の次のページには、装置のレバーを動かした記録があった。線を止めようとした日、隣の家の床が薄くなったこと。慌ててレバーを戻したこと。そのあとも同じ間違いをしないよう、何度も家の位置を描き直している。
「出口へ行ってみたこともあるよ。おじいちゃんと二人で。髪飾りを外して一歩離れたら、街の外れで鐘が鳴った」
「……それで戻ったのか」
「うん。待ってる人がいたから」
アリアは当時の記録を指先で押さえた。翌日の欄には、遠くの家の無事を確かめた小さな丸がついている。
北門でアリアの手を失ったとき、カノンは何が起きたのかさえ分からなかった。彼女は家が消える危険を知ったうえで、ここへ戻ってきたのだ。
「一年も、一人で」
「ずっとここにいたわけじゃないよ。立てる日も、外へ出られる時間もあった。おじいちゃんがほかの水路を見てくれてたし、近所の人も手伝ってくれた」
慰めようとするのではなく、事実を訂正する声だった。カノンは頷き、手帳の続きを見た。
水位の数字に挟まって、井戸番の娘が初めて一人で赤い札を掛けた日がある。避難した老人が戻ってきて、鍋を貸してくれた日も書いてあった。
装置の記録だけではない。この街で暮らしたアリアの一年が、紙のあちこちに残っていた。
*
手帳をめくっていたカノンの手が、古い水車小屋の印で止まった。
「……ここ、ニナが一人で夜を過ごした場所だ」
「うん。あの子の声を、ここで聞いたの」
アリアは印のそばにある二つの日付を示した。星のない街の水路には、時折、別々の日付から音が流れ込む。ニナがいた古い小屋の声に、さらに別の日の、娘を呼ぶ母親の声が重なったという。
「『ニナ、こっちよ』って聞こえた。あの子が声のする方へ行こうとしたから、止めたかったんだ」
「……『お母さん、そこ……』って聞こえたって、ニナが言ってたな」
「覚えてる。髪の長い女の人が私に似てたって、あの子、私の顔を見て言ったでしょう」
そうだった。ニナが水車小屋へ戻って案内してくれた日、アリアも隣でその話を聞いていた。
「私、『お母さんは、そこにはいない』って叫んだの。水車の音が大きかったから、ちゃんと聞こえたか分からなかったけど」
ニナの母親は今は亡くなっている。水路が拾ったのは、彼女がまだ娘を呼べた日の声だった。
カノンは手帳の二つの日付を写した。
「それと、もう一つ」
アリアは引き出しから、紙片の写しを取り出した。一角が欠け、端に水染みのある紙を写したものだった。
「水路の投入口に入れた手紙。おじいちゃんが調べた先は、ディーンが森へ入って十一日後の通路だった」
カノンはその形を覚えていた。八年前、ニナが持ち帰った兄の手紙。その裏の細い文字を見て、アリアは自分の筆跡に似ていると言った。
「『八年前、君が何をしたか思い出して』……」
「そのあとに、『ごめんね、カノン。今度こそ、ちゃんと迎えに行くから』って書いた」
「あのとき、君は『こんなの書いてない』って言ってたな」
「うん。私も覚えてる。まだ書いていないのに、私の字がそこにあった」
カノンは、髪飾りに触れて見た光景を思い出した。長い髪のアリアが机で筆を動かし、同じ言葉を口にしていた。あのとき二人で不思議がった手紙を、彼女はこの街で書いたのだ。
「兄さんがその紙を拾って、空いた面に俺への言葉を書いた。それをニナが持ち帰った。そこまで、君も知ってたんだよな」
「うん。あの日、私も一緒に読んだもの」
アリアは写しの端を指で押さえた。
「あなたが約束を破ったと思ったまま、どこかで一人になっていたら嫌だった。私も捜してるって、伝えたかったの。あのときの私には分からなかったけど、ここへ来て、ようやく自分があの言葉を書いた理由が分かった」
カノンは、手紙の裏にあった「迎えに行く」という言葉を思い出した。自分だけがアリアを捜すのだと思っていたあの頃、彼女もこうして、自分へ届く道を探していた。
「……ありがとう。あの紙、何度も読んだよ」
アリアは少し笑い、写しを手帳へ挟んだ。
横で聞いていた年老いたエドガーが、机に手を置いた。
「その道を見つけたあとも、私は西の工房を調べ続けた。アリアに任せた時間は長い。戻れる仕組みを用意できなかったことは、私にも責任がある」
「おじいちゃんだけの責任にしないで」
アリアの声は強くなかったが、老人は口を閉じた。
「私も、ここに残るって決めたんだよ。間違えたこともあるけど、それもちゃんと書いてある。だから、これからのことも一緒に決めよう」
手帳には、失敗した日付も人を助けた日も、同じ筆跡で残っていた。
「その手帳、帰るときも持っていこう」
「もちろん。まだ書くことがあるもの」
アリアは手帳を閉じたが、荷物にはしまわなかった。今夜も測るべき水位が残っている。
*
「……中央の位置が、おかしいな」
装置を調べていたオルフェが顔を上げた。
カノンは二枚の青い布を床へ広げた。十二の印は重なったが、中央の黒い筋だけはずれる。年老いたエドガーが光の線を幾重にも縫い足した古い布には、記録の少ない布にはない細い線が幾筋も、中心を外れた場所へ集まっていた。
「後から増えた線が、どれも同じ場所へ集まってる」
カノンが指でなぞると、オルフェは老人の手帳をめくった。中心の印は何度描き直しても、八百年前の塔と同じ位置に置かれている。
「……塔と同じだと思っていたのが、間違いかもしれん」
カノンは古い布の縫い目を見直した。中心の外へ伸びる線の並びに、見覚えがある。外套から銀の髪飾りを取り出す。白い橋でアリアへ返し、廃墟でまた拾った花だ。布に重ねると、五枚の花弁の先が縫い目の曲がる位置と重なった。
その位置の床へ髪飾りを近づけると、擦り減った円の脇に五つの小さな光が浮かんだ。
「待って。ここにも……」
指で埃を払い、石の溝を確かめる。円形の中心からわずかにずれた位置に、五つの金具が花弁のように並んでいた。
オルフェが髪飾りと金具を交互に見た。
「この形だ。飾りを鍵として作ったとは限らん。だが、誰かが装置の印を見て、この花を作ったのかもしれない」
エドガーが古い図面を出した。余白に描かれた五枚の花弁、その先にある小さな点。点の配置は、床の金具と一致する。
「道が五つに分かれているのか」
「水の通り道がな。これまで中心の位置を違えていたから、枝の先を見落としていた」
老人は布へ新しい印を写し、十二の印をもう一度重ねた。今度は黒い筋の起点も合った。
子どものころ、アリアの髪で揺れていた銀の花。森で拾い、レオの手を経て、橋の向こうへ返したものが、今は床に隠れた形を知らせていた。
だが、それだけで装置が動くわけではない。
「第三の根は?」
オルフェが床の継ぎ目を開くと、銀色の細い根が一つ目の金具へ届いていた。残る四つには、まだ何もつながっていない。
「木の実はもうない」
「一本あれば、枝は伸ばせる。ただし、水と金具の熱を見ながら順に通す。いきなり五つへ流せば、街のどこへ力が出るか分からん」
カノンは小窓の向こうを見た。井戸番の家には、まだ赤い札がある。
「まず一つだけ試そう。外の家と、アリアの線を一緒に見る」
オルフェが頷いた。老人は二枚の布を、皆が同じ位置を見られるよう床へ固定した。
水門を一目盛りだけ開く。銀の根の先へ水が通り、床の金具が低く鳴った。
「首のところ、どうだ?」
「……少し、楽」
アリアの首筋から黒い線が一本薄れた。カノンは小窓へ走る。向かいの家の戸口に白い筋はない。井戸番の男は赤い札を掲げたまま、こちらを見ていた。
「家の方は変わってない!」
「止めずに、熱を見よう」
オルフェは金具へ測り棒を当て、温度を確かめた。しばらく待っても、最初の金具は落ち着いている。
四人の間に、短い安堵が生まれた。
今夜初めて、アリアの負担を減らしても、誰かの家へ異常が出ない状態をつくれたのだ。
*
カノンはもう一度、花の形を確かめようと中央へ寄った。
その瞬間、アリアの黒い筋がわずかに濃くなる。代わりに、部屋の反対側にある古い窓枠が白く明るんだ。
「カノン、そこで止まれ」
オルフェの声に、カノンはすぐ元の位置へ戻った。三歩離れると光は弱まり、アリアの呼吸も落ち着く。
「俺が近づくと、あっちまで反応する」
カノンは窓枠を見つめた。
「十五歳のとき銀板に触れてから、日本の景色が見えるようになった。あのときつながった線が、ここにもあるのか?」
年老いたエドガーは、外へ伸びた細い筋を指した。
「そう考える理由はある。だが、どこまでつながっているかは、まだ分からん。近づく距離と光の強さを記録しておこう」
アリアは手帳の空いた頁へ数字を書き、オルフェが試した水の量も添えた。
「一つ目は保った。でも、残る四つも同じようにいくとは限らないな」
オルフェは五つの金具を順に見た。
「それに、外へ残った線はまだ切れない。先にアリアが受け止めている分を床へ渡し、帰り道を確かめる。順番を違えれば、ここに住む者の家も巻き込む」
カノンはアリアを見た。彼女は三歩先で、手帳に今夜の水位を書き足している。
「アリア」
「なに?」
「一緒に帰る道を探そう。もう、俺一人が答えを出すつもりはない」
彼女は顔を上げ、しばらくカノンを見つめた。
「……うん。助けてほしい」
「ああ。手伝わせて」
オルフェが次の金具の準備を始め、エドガーは水路の図を確かめる。カノンは古い布の端を押さえ、アリアが読み上げる数字を書き留めた。
そのときだった。
ガラスのない窓枠の内側が、ふっと白くなった。
闇の奥に、小さな灯りが見える。
机があり、その上に薄い画面があった。見覚えのある景色だった。十五歳の冬から、何度も夢のように現れた場所。
誰かの手が、その画面を持っている。
カノンは息を詰めた。文字が並んでいる。すべてを読むには光が弱い。それでも、二つの名前だけは見えた。
カノン。
アリア。
自分たちの名が、同じ画面の中にある。
次の瞬間、窓は暗くなった。床では金具が静かに鳴り続け、アリアがこちらを見ている。
カノンは、見えたものをどう話せばよいのか分からなかった。
十五歳のときから見えていた、あの部屋。
あそこにいる誰かは、何を見ているのだろう。




