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第三十二話 窓に映る夜

 窓枠の内側に、もう一度、日本の部屋が映った。


 夜の机に小さな灯りがともり、誰かの手が薄い画面を持っている。十五歳の冬から、カノンの頭に幾度となく流れ込んできた景色だった。雨の駅も、夕暮れの教室も、こうした誰かの暮らしの途中にあったのだろうか。


 窓に近づけばアリアの黒い線が濃くなる。カノンは三歩の距離を保ったまま、目を凝らした。


 画面には文字が並んでいた。


 日本の言葉だ。見たことのない場所の名を自然に知っていたのと同じように、カノンには読める。さっき一瞬だけ見えた、自分とアリアの名もあった。


 その下に続く文章を読み、カノンは息を止めた。


 年老いたエドガーが青い布を床へ広げたこと。オルフェが銀の根を調べていること。窓に映った二人の名前に、自分が驚いたこと。


 つい先ほど、この部屋で起きたことばかりだった。


「何が見えるの」


 アリアの声で我に返った。


「……俺たちのことだ」


「おじいちゃんの手帳みたいなもの?」


「いや。そんなはずは……」


 否定しかけて、画面の上へ目を戻す。


 文字の並びを追っていくと、行の上に、ひときわ大きな字があった。


 ――第三十二話。


 カノンはその五文字を、もう一度読んだ。


 その下に、短い会話が続いている。


 ――何が見えるの。


 さっき、アリアが口にした言葉だ。


 続く行には、『俺たちのことだ』とある。自分が答えた、そのままの言葉だった。


 カノンは振り返った。アリアは戸惑いながらこちらを見ている。オルフェは床の金具へ身をかがめ、年老いたエドガーは布の端を押さえていた。


 どこにも、彼らの会話を書き取っている人はいない。


 窓へ向き直ると、画面を持つ指がゆっくり動いた。文字の列が上へずれ、次の行が現れる。あの指は金具を動かしているのではない。文章の続きを読んでいる。


 以前の画面には、駅の時刻や店の看板、知らない文字が並んでいた。今あるのは、ここにいる自分たちの名前と会話だ。


 八年前、北の森で牙狼から逃げたことも、銀の花を拾ったことも、誰かがこうして読み進めてきたのだろうか。


 そのとき、床の金具が高く鳴った。


 アリアが肩をすくめる。首元の黒い線が濃くなり、オルフェが慌てず水門のレバーを戻した。音は細くなって消える。


「二つ目へ流すには、まだ水が多いな」


 オルフェが熱を測り直す。窓の向こうの指は止まったままだった。


 カノンはその手を見つめた。向こうでページが動かなくても、この部屋の金具は震え、アリアは痛みを感じる。今起きたことを、向こうの誰かのせいだとは思えなかった。


「どうしたの、カノン」


 アリアが声を落とす。


 彼は返事をする前に、画面の端へ視線を移した。前の部分へ戻るための小さな印がある。何度も夢の中で見て、使い方まで知っていたものだ。


 読み物なのだ、と遅れて分かった。


 しかも、ただの記録ではない。


 画面には、カノンが星のない街へ入る直前、行き先の分からない道を怖いと思ったことまで書かれていた。アリアへ駆け寄ろうとして足を止めたときの、腕に残った力も。


 誰にも言っていない。


 カノンは思わず外套の前をつかんだ。窓の向こうから服の下が見えるわけではないのに、隠していた手帳を他人の膝に広げられたような気分だった。


「嫌なものが見えた?」


 アリアは、読めない画面ではなくカノンの顔を見ていた。


「……少し、怖い」


「なら、見なくてもいいよ」


「でも、確かめたいんだ」


 窓へ目を戻す。薄い画面を支える指。その背後にある部屋の灯り。雨の駅、電車の窓、夜遅くまで明るい店。十五歳のころから、カノンはそれらを懐かしいと思っていた。


 父の書庫で銀板に触れたとき、知らない言葉が分かるようになった。歩いたことのない駅の道筋を知り、使ったことのない道具の扱い方を覚えていた。


 前の人生があったのだと思えば、説明がついた。


 ただ一つ、そこにいた自分の顔だけは、どうしても思い出せなかった。


 十五歳の冬から抱えてきた謎を、カノンは以前にもアリアへ話した。誰かの目を借りているのではないか、と口にしたこともあった。あのときは、自分の過去を失うようで怖かった。


 今、窓の中には、景色を見ている者の手がある。


 その人が見ていたものを、自分も銀板を通して見ていたのだとしたら。


「……俺の前の人生じゃなかった」


 言葉にしても、すぐには実感が湧かなかった。


 カノンは窓の向こうの机を見た。十五歳の冬から、あそこへ帰ってくる自分を何度想像しただろう。雨の駅を歩いたことも、机の灯りの下で夜を過ごしたことも、忘れているだけなのだと思っていた。


 けれど、そこに暮らしていたのは自分ではないのかもしれない。


 長い間、どこかに失くした自分の一部があると信じてきた。その場所が、ふいに遠くなった気がした。カノンは外套を握る指をゆっくりほどいた。あの景色を懐かしいと思った気持ちは、まだ胸に残っている。


「やっぱり、誰かの見ていたものだったんだ」


 アリアは十五歳のときの話を覚えていた。驚きはしたが、すぐに理由を尋ねたりはしなかった。


「その人が、今もそこにいるの?」


「ああ。俺たちのことを読んでる。……今、この部屋で話してることまで」


「読んでる?」


「画面に『第三十二話』って書いてある。俺たちの名前があって、さっきの会話も載ってた」


 自分の言葉で伝えるほど、不思議な話に聞こえた。アリアはしばらく窓を見ていたが、日本の文字を判別できないまま、カノンへ向き直った。


「誰が書いたの?」


「分からない。読んでいる人が書いたとも限らない」


「じゃあ、どうして私たちの声まで?」


「それも……まだ」


 アリアは小さく息を吐いた。


「私がここに残るって決めたことも、書いてあるのかな」


「そこまでは見えない」


「迷ったことも?」


 カノンは答えられなかった。アリアはエドガーの手帳へ目をやった。失敗した日の記録を消さずに残した、あの手帳だ。


「知らない人に、うまくできなかったところまで見られてるのは、ちょっと恥ずかしいね」


「……俺もだ」


 カノンが答えると、アリアはようやく笑った。いつものような、ほんの少し困った顔だった。


 床の端で、年老いたエドガーが古い図面を広げた。


「こちらの線については、分かったことがある」


 八百年前、外の様子を調べるために引かれた細い筋。その最後の記録には、中央の装置から外へ向かう太い線が描き足されていた。


「向こうを見られるようにした者がいる。そのあと、誰かが線を広げた。歩いて渡れる道にしようとしたのかもしれん」


「日本へ?」


「どこにつながると知っていたかも分からん。外へ向かう線が太くなった結果、街の道まで引かれたのは確かだ」


 オルフェは窓の下の金具を調べ、白い線の根元へ測り棒を差し込んだ。


「こちらから外へ伸びている。向こうの指が動かす仕掛けじゃない。古い金具の傷みで、景色がこちらへ漏れるようになったんだろう」


「直せば、見えなくなる?」


「そうなるかもしれん。それより、この線を太いまま残すと、帰り道をつなぐときに別の場所まで引っ張る」


 オルフェは床の五つの金具を指した。話している間も、一つ目の金具は低い熱を保っている。アリアの負担を少し引き受けている証拠だった。


 窓を見るばかりでは、次へ進めない。


 それでもカノンには、あと一つ確かめたいことがあった。


 画面の指が動き、文字が少し上へずれた。自分の名前がまた現れる。下には、まだ何も書かれていない白い部分がある。


「先のことは、見えないんだな」


「向こうの人にも?」


 アリアの問いに、カノンは首をかしげた。


「今、あの人が読んでるところより先は見えない。ほかの場所に書いてあるのかは分からないけど」


 床に小さな石片が落ちていた。カノンは拾い上げ、自分の手帳の上へ置く。


「何してるの?」


「ちょっと試したくなって」


 誰かに命じられたわけではない。金具の位置を測るためでもない。目の前にあった石を、ただ置いた。


 画面の下へ、短い文章が現れた。


 カノンが、手帳の上に石を置いた。


 彼は石から指を離したまま、文字を見つめた。書き込まれる瞬間を見たはずなのに、その文字がいつからそこにあったのか、うまく思い出せなかった。


 次に、石を拾って元の床へ戻す。


 画面にも、そのことが続いて記された。


 カノンはもう一度、石と画面を見比べた。向こうの指はまだ文字に触れていない。何が先で、何が後なのか、ここからでは分からない。次に自分が何をするかは、画面のどこにも見えなかった。


「……変なの」


「何が?」


「俺が何をしても、あそこに書かれる。でも、書かれてるから動いたわけじゃないんだ」


 アリアは窓へ目を向けた。見知らぬ人の手と、日本の文字。彼女に見えるのはそれだけだ。


「じゃあ、カノン」


「うん?」


「次は、こっちを手伝って」


 彼女が示したのは、床の二つ目の金具だった。


 カノンは手帳を閉じた。奇妙な画面を見ていた間にも、アリアの腕の黒い筋は消えていない。二人の間に残る三歩も、そのままだ。


 アリアは窓へ顔を向けた。


「そこにいるなら、見ていて」


 カノンが振り返る。


「何て伝えたの」


「私たちが自分で帰るところ」


 彼女は返事を待たず、オルフェの方を向いた。


 オルフェは金具の蓋を開き、銀の枝の先を確かめていた。年老いたエドガーは二枚の青い布に水門の位置を書き込む。


「二つ目へ伸ばそう。四つ目と五つ目は水路も使う。金具の熱を見ながら、少しずつだ」


 カノンは銀時計を開いた。針はまだ日付を示さない。故郷の塔へ続く道がつながるまで、時計で帰り先を読むことはできない。


「道そのものを直さないとな」


「ああ。まずは、この枝からだ」


 オルフェが灯りを金具へ寄せた。


 アリアが壁へ片手を添えた。カノンは無意識に近づきかけ、黒い線の濃さが変わる前に足を止める。


「もう少し離れるよ」


「ここにはいて」


 彼女は即座に言った。


「触れなくても、話せるでしょう。今はそれでいいから」


 カノンは三歩離れた場所へ腰を下ろした。アリアが読み上げる水位を書き、オルフェが測った熱と照らし合わせる。年老いたエドガーは、古い記録から同じ音が鳴った日を探した。


 窓の向こうには、まだ日本の机が映っている。誰かの手が画面を持ち直した。


 どうして自分たちの出来事が文章になっているのか、その答えは分からないままだ。それでも今は、石畳の下を水が流れる音の方がはっきり聞こえた。


 エドガーが金具の熱を記録し、オルフェが水門を一目盛り動かす。


 銀の根の先が、二つ目の金具へ触れた。


 アリアが息を吐く。手首の黒い線が一本薄くなり、代わりに金具が温かくなる。カノンは時刻を書き、すぐ小窓の向こうへ目を走らせた。


 向かいの家には、まだ赤い札が掲げられている。井戸番の男がその下に立ち、こちらを見ていた。


「今のところ、白い筋は出てない」


「もう少し様子を見よう」


 オルフェがそう答えた直後、外で金属を叩く音が三度続いた。


 井戸番の家からの合図だった。男が赤い札を片手で押さえ、もう一方の手で水位の下がった井戸を示している。


 アリアの腕の線は薄くなった。だが、街の水はまた失われ始めていた。


 カノンは手帳を置き、小窓へ駆け寄った。


挿絵(By みてみん)

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