第三十三話 渡してはいけないもの
井戸の水位は、まだ下がり続けていた。
小窓へ駆け寄ったカノンの目に、赤い札の下で井戸の縁から身を引く男が映った。家の戸口には子どもが立ち、父親の顔とこちらの窓を交互に見ていた。
「二つ目へ通した分だな」
オルフェが装置のレバーを戻そうとしたとき、アリアが声を上げた。
「待って。全部戻すと、私の方へ一度に来る」
彼女は壁に手をついたまま小窓へ向き直り、男に石段の上を示した。子どもが移動するのを見届けてから、エドガーが水門を半目盛りだけ絞る。井戸の奥で水が跳ね、水位の低下が止まった。
代わりに、アリアが袖口を押さえた。さっき薄くなった黒い線が、うっすらと戻っている。
「……それ以上は動かさないで。今なら平気」
エドガーは彼女の顔色を見てから、水門の位置を手帳へ記した。男がもう一度井戸を確かめ、水位が下がらなくなったと知らせてくる。それでも札は赤いまま、しばらく変化を見守ることになった。
窓の向こうでは、あの親子がこちらの返事を待っていた。装置を一目盛り動かすたび、その家の水も足元も変わってしまう。
「急がず、一つずつ確かめよう」
カノンの言葉に、オルフェが頷いた。
*
交代で金具の熱と井戸の水位を測るうちに、長い夜が過ぎた。街路には朝の支度をする人々の姿が見え始めたが、井戸番の家の札はまだ赤い。男は子どもを石段に座らせ、こちらの合図を待ちながら水位を確かめている。
その間に銀の根は三つ目の金具へ届いた。二つ目までの枝も熱を保ち、アリアの腕の黒い線はこの街へ入ったときより二本少なくなった。オルフェは根の周りの水量を、エドガーは街へ向かう溝を受け持った。
カノンは二枚の青い布を並べていた。手元の古い布には、年老いたエドガーが観測のたび縫い足した光の線が厚く重なっている。老人の持つもう一枚は記録がまだ少ないが、一晩かけて測った水位と金具の位置が新しく記されていた。
「四つ目だ。今度は水路の方からも支える」
オルフェが灯りを寄せる。エドガーが水門を少し開くと、三つ目から伸びていた銀の細い枝が金具へ触れた。白い光が一度だけ強まり、アリアが息を呑む。
「アリア?」
「大丈夫。さっきより……楽になった」
カノンは三歩先にいる彼女を見た。喜んで駆け寄りたくなる距離だ。だが、その間の石畳にはまだ淡い線が走り、彼が近づくだけで黒い筋が反応することは変わっていない。
「あと少しだな」
「うん。だから、最後までちゃんと見てて」
アリアは少し笑った。その笑い方にカノンが返事をしようとしたとき、壁の窓枠が明るんだ。
日本の机が、まだ向こうに見える。
年老いたエドガーは図面を広げ、窓枠へ続く白い筋を指した。八百年前、外を見るためだけだった線が太くされた夜にも、同じ場所から光が出たと記されている。
「アリアが支えている分を移し終える前に、これを切るわけにはいかん」
「切らなければ、また外へ道が伸びる」
オルフェは窓へ一度目を向けた。
カノンも、薄い画面を持つ手を見た。アリアが「私たちが自分で帰るところ」と告げた相手だ。向こうにいる人のことを知りたい気持ちは、まだある。けれど、そこへ渡れる道を残せば、また街の誰かが危険にさらされる。
*
五つ目の金具は、途中で引っかかった。
オルフェがレバーを押しても、固い砂を噛んだような音がする。カノンはディーンから借りた短剣を抜き、刃先を金具の脇へ差し込んだ。白い砂漠でついた欠けが、灯りの下に見えた。
「折るなよ。その刃、もう何度も無理をしている」
「分かってる」
短剣をこじるのでなく、刃の側面で少しずつ砂を掻き出す。最後の粒が落ちると、金具が指一本分だけ動いた。
そのとき、小窓の外で金属を打つ音がした。
赤い札の下で、井戸番の男が家の敷居を指している。さっきまでなかった白い筋が、そこへ向かって伸びていた。男の脇には子どもがいる。
「五つ目に水を寄せたせいだ」
オルフェが流量を戻す。アリアは壁から離れず、小窓を開けて親子を呼んだ。
「石段から下りないで! 白い線には近づかないで。隣の家にも知らせて!」
男は頷き、子どもを抱き上げた。カノンは白い筋の位置を布へ書きつける。気が急いても、ここで作業を間違えれば、あの子の帰る家まで失わせてしまう。
「水を増やすだけじゃ、あの家が危ない」
「五つ目の先を見よう。どこかで流れが途切れている」
オルフェが床板を外す。銀色の通り道は石の割れ目で切れ、指先ほどの隙間を残していた。そこから先へは、根も水も届かない。
カノンは割れ目を見ていた。金具と金具の間を、同じ性質の金属で渡せればいい。さっき装置の形を確かめたとき、オルフェが銀の花の裏まで調べていたのを思い出す。
外套から髪飾りを取り出した。五枚の花弁と青い石。かつてアリアの髪にあり、いくつもの日付を越えて手元へ戻った花だ。
「これの留め具は、使えないか?」
オルフェはすぐには答えず、髪飾りの裏と床の金属を並べて調べた。長く擦れた銀の色も、細い刻みもよく似ている。留め具を割れ目へ近づけると、両端に弱い光が灯った。
「同じ系統の金属らしい。幅も合う。固定して水を通してみよう。花そのものは傷つけずに済むはずだ」
カノンがアリアを見ると、彼女は迷わず言った。
「使って」
「……もう髪には戻せないかもしれない」
「うん。だからこそ、ここに置こう」
アリアは腕に残った線を見た。
「私だけじゃなく、ここで暮らす人たちのために」
カノンは銀の花を床へ運んだ。留め具の先を二つの金具へ渡し、オルフェが固定具を締める。エドガーが水をゆっくり流すと、光が銀の花の裏を通り、五つ目の金具へ届いた。
アリアが目を閉じた。
黒い線が、一筋、手首から離れるように薄くなっていく。残っていた首元の影も消え、代わりに床の五つの金具が静かに温まった。
カノンはすぐには動かなかった。小窓の外では、井戸番の親子が赤い札の下で待っている。オルフェとエドガーは家の前の白い筋が止まっていること、五つの金具が熱を分け合っていることを確かめた。
「アリア。一歩、動けるか」
オルフェの言葉に、彼女が片足を引いた。
何も起きなかった。
もう一歩。床の光は揺れない。アリアはゆっくり壁から手を離した。これまで彼女の身体を離さなかった黒い線は、戻ってこない。
「……歩ける」
声がかすれていた。
カノンは、三歩先の彼女を見つめた。白い橋で手を伸ばし、指が届かなかったときのことを思い出す。あれから何度、この距離を越える瞬間を考えただろう。
オルフェが最後の印を確かめ、頷いた。
「もう大丈夫だ。今は、お前が近づいても線は動かん」
カノンは一歩踏み出した。アリアの腕に黒い筋は浮かばない。もう一歩進むと、彼女の方から手を伸ばしてきた。
指先が触れた。
温かかった。
ただそれだけのことが、すぐには信じられなかった。アリアの手は少し冷えていて、掌に細い傷があった。ここで水路を調べ、手帳を書き続けてきた手だった。
「……本当に、触れた」
アリアが小さく言った。
カノンが答える前に、彼女が外套の胸元をつかんだ。彼はその肩を抱き寄せる。濡れた髪が頬に触れ、アリアの息が肩口に落ちた。背中へ回った指が、離れないように外套を握っている。
八年間探してきた少女が、今は腕の中にいた。
「遅くなって、ごめん」
「……うん」
アリアの声が、肩越しに聞こえた。
「でも、来てくれた」
カノンは彼女を抱く腕に、少しだけ力を込めた。ずっと言えなかったことは、きっと何日かけても話し終わらない。それでも今夜は、この温かさを確かめるだけでよかった。
やがて床の奥で金具が鳴り、二人は名残惜しそうに離れた。アリアは目元を拭ったが、もう三歩離れた場所へ戻ろうとはしなかった。
*
ガラスのない窓枠には、まだ日本の部屋が映っていた。
アリアの身体を支えていた力は五つの金具へ移った。それでも、窓へ伸びる白い線を残せば、いつかまた街の水路を引き込むかもしれない。
「最後にあれを閉じる。故郷へつながる方は残すぞ」
エドガーが帰還側の水門を固定すると、カノンの銀時計が震えた。蓋を開けば、針は故郷の時計塔につながる日付を示している。失われていた帰り道が、ようやく読めた。
オルフェが金具へ印をつけ、老人は二枚の布を見比べた。アリアは自分の腕に線が戻っていないことを確かめる。
カノンは小窓を開けた。井戸番の男は子どもを抱いて、まだ赤い札の下で待っている。
「これから最後の線を閉じる! 揺れるかもしれないから、そこを動かないで!」
男が大きく手を挙げた。
エドガーは帰還側のレバーを支え、オルフェが窓枠へ向かう線のレバーへ手を掛ける。カノンは十二の印を読み、アリアは井戸の家と自分の腕を見張った。
「八百年前は、ここまで届かなかった」
オルフェの指がレバーに掛かったまま止まる。あの夜、三つの道を閉じても外へ向かう線だけが残った。金具をいくつ動かしても、失われた街は戻らなかった。
「今は違う」
年老いたエドガーは帰還側のレバーを支え、オルフェを見た。
「ここまで来たのは、お前ひとりの力じゃない」
「ああ。だから、皆の返事を待つ」
オルフェが三人に目を向けた。
「十二の印、全部ついてる」
「腕は大丈夫。井戸の人も離れてる」
「帰還側、固定した」
カノンは窓の向こうを一度だけ見た。画面を持つ手は、まだそこにある。名も知らない誰かへ何か言おうとしたが、言葉にはならなかった。
「……今だ」
オルフェがレバーを半分まで下ろす。
床が揺れた。窓の中の机がぼやけ、銀の根が金具の下でしなった。五つ目だけが熱を持ち、オルフェが手を止める。
「水を少し増やす」
エドガーが水門を一目盛り開いた。熱がほかの金具へ分かれ、アリアの腕にも、井戸番の家にも新しい線は現れない。
「保ってる」
カノンが告げると、オルフェは残りをゆっくり押し下げた。
窓の白さが失われていく。日本の机も、薄い画面も、少しずつ見えなくなった。
窓の中で、机を照らす小さな灯りだけが残った。カノンはそれが消えるまで見ていた。十五歳から懐かしいと思ってきた景色を、忘れなくてもいいのだと思った。
やがて、灯りも消えた。
アリアが隣にいた。今はその手を握れる。
「……寂しい?」
「少し。あの人の名前も知らないのにな」
「知ってる景色は、たくさんあったんでしょう」
「うん」
アリアの手を握ったまま、カノンは暗い窓を見た。知らない誰かの夜は、もう見えない。それでも、ここには帰れる道と、隣にいるアリアが残っていた。
小窓の外で、金属を三度叩く音がした。
井戸番の家の札が青に戻った。男に抱かれた子どもが、三本の指を立ててこちらへ振っている。アリアは窓を三度叩き返した。
今度こそ、井戸の水位は落ち着いたらしい。四人が安全を確かめ終えるまで、男はしばらく青い札の下に立っていた。
*
アリアはすぐに荷物をまとめなかった。
井戸番の男が建物まで来ると、彼女は今夜の水位を記した紙と、赤い札を出す基準を書いた控えを渡した。隣家の人も呼び、これからは自分たちで記録を続けられることを確かめる。
「私、帰ることになったの」
男はしばらく黙り、それからアリアの手帳を見た。
「やっとか。よかったな」
「みんなにも伝えて。急にいなくなったと思われたくないから」
「ああ。ここでやったことも、忘れないよ」
アリアは一度だけ建物の外へ出て、家々の灯りを眺めた。カノンは隣に立ち、彼女が戻るまで待った。今はもう、三歩離れる必要はなかった。
やがて、オルフェが帰還側の水路を調べ終えた。時計の針は同じ日付を示し、石段の下には白い輪が戻っている。輪の縁を銀の根が支え、向こう側には故郷の塔の石床が見えた。
「一度に四人は渡れん。向こうで安全を確かめながら進もう」
エドガーとオルフェが先に通路へ入った。カノンは床の銀の花を振り返った。髪飾りの留め具は五つ目の金具をつなぎ、ほかの四つと同じ光を保っている。
「置いていくんだね」
アリアが言う。
「ああ。外したら、また誰かがここを支えなきゃいけなくなる」
「……うん。残していこう」
彼女は空いた髪へ手をやった。カノンはその手に、自分の手を重ねる。
「帰ったら、別の花を探そう」
「それ、今決めること?」
「今、言っておきたいんだ」
アリアは呆れたように笑い、彼の手を握った。
黒い石の通路を、四人は灯りを頼りに進んだ。星のない空が見えなくなり、出口へ続く石段が近づく。道の脇には古い排水溝があり、中央の水路から遅れて流れてきた水が細く鳴っていた。先頭のエドガーが足場を確かめ、オルフェが後ろへ合図する。
足元の水門が一度、低く軋んだ。
脇の排水溝から水があふれ、冷たい風が通路を吹き抜けた。エドガーの灯りが消え、続いてオルフェの灯りも風に煽られて消える。水を避けようとして、アリアが脇の細い道へ一歩身を引いた。
つないでいた指が、滑った。
「アリア?」
暗闇の中で足音が二つに分かれた。カノンは追おうとして、一歩先の石を踏み外しかけた。すぐ下で、深い水路の流れる音がする。
壁へ手をつき、踏みとどまった。
さっきまで隣にいたアリアの姿は見えない。




