第三十四話 君を探す
カノンは壁に手をついたまま、暗い通路へ向かってアリアの名を呼んだ。
足元では水が勢いよく落ちている。さっき踏み外しかけた石段のすぐ下には、深い水路があった。灯りは二つとも消え、目を凝らしても、自分の指先さえ見えなかった。
「アリア。聞こえたら、そこで止まってくれ」
返事はなかった。
どこかで小石が転がる。水の音に紛れて、誰かの靴が擦れたようにも聞こえた。カノンは反射的に一歩進みかけ、壁へ押しつけた手に力を込めた。
走っても、見つけられるとは限らない。ここで自分まで水路へ落ちたら、アリアの声が聞こえても迎えに行けなくなる。
「カノン、動くなよ」
少し前からオルフェの声がした。金具を探る音が続き、エドガーも予備の灯りを取り出しているらしい。
「こっちの石段は残っている。水も引き始めた。だが、脇の通路までは見えん」
「分かった。アリアの声を探す」
カノンは耳を澄ませた。水門の音は何度か波のように強弱を繰り返し、やがて一瞬だけ弱まった。
「カノン!」
彼女の声だ。
思わず顔を上げる。近くにいる。けれど声が壁に跳ね返り、右から聞こえたかと思えば、今度は水路の向こうから響く。
「アリア、そこから動かないで。壁に触れられるか?」
「うん。右にある。でも、足元が見えないの」
「その壁を叩いてみて」
二度、少し間を置いて、もう一度。乾いた音が続いた。
水路の向こうではない。すぐ右手から伸びる、細い通路だ。カノンも同じ回数だけ石を叩いた。
「聞こえる?」
「聞こえた。そこなのね」
「俺は動かない。壁沿いに、ゆっくり来られるか。段差があるから、足で確かめて」
「分かった。そっちも動かないでよ」
その声が思いのほか近く、カノンは笑いそうになった。彼女も、走って探しに来るつもりだったのだろう。
石に触れる衣擦れの音が近づく。途中で足音が止まると、カノンはもう一度壁を叩いた。すぐに返事がある。互いの位置を確かめながら、最後の数歩を待った。
伸ばした手に、指先が触れた。
アリアは彼の腕を一度軽く叩き、それから手を握った。
「返事、聞こえた?」
「ちゃんと聞こえた」
「よかった。私、違う道へ入ったのかと思った」
「入ってたら、もう少し探すところだったな」
背後で小さな火がついた。エドガーの灯りが二人の足元を照らす。アリアの靴は濡れていたが、どこにも傷はない。石段を横切った水も、ほとんど引いていた。
カノンは彼女の手を離さず、オルフェが示す足場を一つずつ確かめて歩いた。
以前は、アリアの姿が見えなくなるたび、考えるより先に走りだしていた。今は怖くなかったわけではない。ただ、声が届くなら、互いのいる場所を確かめればいいと知っていた。
*
星のない街の出口は、石段を下りた先に開いていた。
黒い石の隙間に銀の根が走り、白い輪の縁を支えている。向こう側には、故郷の時計塔の石床が見えた。棚の位置も壁の傷も覚えがあるのに、見慣れない木箱が一つ増えていた。
カノンが銀時計を開くと、針は同じ日付を示している。年老いたエドガーは二枚の青い布の記録と照らし、頷いた。
「帰る先は変わっておらん」
十七歳で屋敷を出てから、およそ八年。針が示す先には、その年月を過ごした家族がいる。
アリアが隣へ来た。今は肩が触れても、彼女の腕に黒い線は浮かばない。
「怖い?」
「少し。帰ったら、俺の知らないことばかりだろうから」
「私もだよ。ニナなんて、もう私より大きいかもしれない」
「そうかもな」
カノンは時計を閉じた。年老いたエドガーは自分の布を畳み、オルフェは出口の端へ測り棒を差し入れている。
「先に私とエドガーが渡る。向こうの石が動かなければ、二人も呼ぶ」
オルフェは輪の中央を示した。
「根の細いところは踏むなよ。平らな石を通るんだ」
エドガーが先に渡り、向こう側で振り返る。オルフェも続いた。二人が支えを確かめ、手を挙げる。
カノンはアリアを見た。白い橋で別れたとき、先に行くよう彼女へ言ったことがある。あのときは自分が残ればいいと思っていた。
「一緒に行こうか」
アリアは横に並び、白い輪の幅を見て頷いた。
「うん。今度は一緒に」
二人は石の中央へ足を置き、歩幅を合わせた。
冷たい床が靴底へ伝わる。次の一歩で、空気の匂いが変わった。湿った石ではなく、古い木箱と油の匂い。何度も嗅いだ、時計塔の地下の匂いだった。
振り返れば、星のない街への輪はまだ細く光っている。オルフェが支えを外さないよう最後の印を確かめると、輪は静かに狭まり、やがて消えた。
時計塔の地下に、四人の足音だけが残った。
「……帰ってきたんだな」
言い終えると、カノンは妙に喉が渇いていることに気づいた。
階段の上から兵の声がした。塔の針が動いたため、当番が地下を調べに来たらしい。見知らぬ若い兵がカノンの黒い外套を見て、剣へ手をかける。その後ろから降りてきた年長の兵が、男の腕を押さえた。
「……カノン様?」
白いものの混じる髭を見て、カノンも思い出した。昔、門の前で木剣を振り回しては叱られた相手だ。
「帰ってきました」
兵は唇を引き結び、一度だけ深く頭を下げた。それから若い当番へ、屋敷に知らせるよう命じた。
階段を上がる間、カノンの背後ではエドガーとオルフェが何かを言い合っていた。いつもの調子だった。その声を聞きながら地上へ出ると、見慣れた石橋の先に、知らない店の看板が揺れていた。
橋の脇には新しいパン屋ができ、昔の薬屋の場所には布を売る店が入っている。通りの角で遊ぶ子どもたちの中に、見覚えのある顔はなかった。
「帰り道まで変わっちゃったな」
カノンがつぶやくと、アリアも店先を見回した。
「じゃあ、二人で覚え直そう」
彼女は当然のように言った。
*
屋敷の門柱には、古い傷が残っていた。
九歳のころ木剣で叩き、父に叱られた跡だ。カノンは指でその傷をなぞった。町の店は変わっていたのに、こんなものが残っている。
門の内側で足音がした。
扉が開き、ディーンが出てくる。
三十歳になった兄は肩幅が広く、左肩を少しかばって歩いていた。幼いころから兄の表情を読むのは得意だったはずなのに、今は何を考えているのか分からなかった。
「兄さん」
ディーンはすぐには答えない。近づくにつれ、視線がカノンの頬の傷から外套へ、腰の短剣へ移った。新しい鞘は、旅立つ前に兄から渡されたものだ。
手を伸ばせば届くところで、ディーンが止まった。
「遅い」
「……うん」
「八年だ」
「分かってる」
そう答えた途端、兄の手が外套の肩をつかんだ。
ぐいと引き寄せられた。抱きしめられた胸が痛いほど固く、耳元でディーンが一度だけ息を吐いた。
「帰ってきたな」
「ただいま、兄さん」
それ以上は、しばらく言葉にならなかった。
カノンは兄の背へ手を回した。旅の途中で幾度も、故郷に戻ったとき何を話すか考えた。今はどれも思い出せない。肩越しに聞こえる兄の呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
ディーンがようやく腕を緩める。
「短剣、返しに来たのか」
「……ちゃんと持って帰った。刃はまだ欠けてるけど」
「知ってる。帰ったら職人へ見せろと言っただろう」
「覚えてたんだ」
「忘れるか」
兄は鞘を軽く叩いた。笑おうとして、うまく笑えていない。
カノンはその左肩に目をやった。
「傷は、もう平気?」
「雨の日は痛む。だが剣は振れる」
「あのとき、俺がもっと早く――」
「それはいい」
ディーンは短く遮った。
「帰ったなら、明日の稽古につき合え。八年分、相手が足りなかったんだ」
「明日から?」
「今日は休ませてやる」
カノンは笑った。今度は兄も少しだけ笑った。
門の奥に、母が立っていた。
髪に白いものが増え、目尻には覚えのない皺がある。カノンが歩きだす前に、母の方から近づいてきた。
「お腹、空いているでしょう」
たったそれだけだった。
カノンは頷いた。母は手を伸ばし、頬の傷を避けながら両手で顔を包む。目が合ったまま、何も言わない。幼いころ、熱を出した夜もこうして額を確かめてくれた。
「……空いてる」
「そう。今、ご飯にしましょう」
母は声を震わせずに言おうとしていた。けれど手だけは、なかなか離れなかった。
その後ろで父がカノンの名を呼んだ。続ける言葉が出てこないらしい。カノンが頭を下げると、父は一度目を伏せた。
「帰りが遅くなりました」
「……中に入れ。話はあとだ」
ぶっきらぼうな声だった。昔から、父は嬉しいときほど言葉が少なくなる。
「カノン兄ちゃん!」
横から駆けてきた少女に、カノンは振り返った。
ニナだった。九歳のころの面影は瞳に残っているが、もうカノンの肩近くまで背が伸びていた。今は十七歳だ。昔のように胸へ飛び込もうとして、彼女は一瞬ためらう。
「……本当に、カノン兄ちゃん?」
「そうだよ。ずいぶん大きくなったな」
「それ、言おうと思ってたのは私なのに」
ニナが笑いながら抱きつく。カノンはその背を受け止めた。
「待たせて、ごめんな」
「八年だよ」
カノンはディーンを振り返る。兄が知らん顔をすると、ニナが笑った。
「二人とも、同じような顔してる」
それからニナは、カノンの隣にいるアリアに気づいた。
「アリアお姉ちゃん……本当に、変わってない」
「ニナは、見違えたよ」
アリアの声も少し上ずっていた。年の近くなった二人は、昔のように抱きつくでもなく、互いの顔をしばらく見ていた。やがてニナが手を差し出し、アリアがその手を握る。
「町のこと、教えてね。知らないお店がいっぱいだった」
「うん。今度は私が案内する」
あのころはまだ九歳だったニナが、今はアリアの知らない町を案内しようとしている。アリアはその手を離さず、何度も頷いた。
年老いたエドガーとオルフェも、母に促されて屋敷へ入った。ディーンが塔の様子を聞きかけたところで、母が「食事が先です」と言い切る。オルフェは口を開きかけてやめ、エドガーだけが小さく笑った。
*
食堂には、いつもの大きな卓があった。
知らない傷がいくつか増え、椅子の布も張り替えられている。席へ着くと、カノンの前へ皿が置かれた。温かなパンと、母がよく作っていた野菜の煮込みだった。
スプーンを持ったところで、急に腹が鳴った。
「ほらね」
母に言われ、カノンは照れくさくなった。向かいでディーンが肩を震わせている。
ニナが町の出来事を次々に話し始めた。学校で友人と喧嘩したこと、薬屋が橋の向こうへ移ったこと、ディーンが稽古中に庭の木を折って父に怒られたこと。兄が「余計なことを言うな」と止めても、ニナは楽しそうに次の話へ移る。
カノンは知らない出来事を、何度も聞き返した。アリアもニナの言葉を追いながら、時折驚いた顔で笑う。彼女が井戸の水位ではなく、今日の町の話を聞いている。それがカノンには嬉しかった。
食事が終わると、父に廊下へ呼ばれた。
叱られるのを覚悟したカノンへ、父は古い帳面を差し出した。表紙には、年ごとに書き足された日付が並んでいる。
「森と水路の捜索記録だ」
開けば、調べた道の名と、派遣した者の報告が細かな字で残されていた。綴じ紐がきつく張るほどの厚さだった。
「探すのをやめたわけではない」
「……はい」
「来年も続けるべきか、何度も迷った。それでも母さんは、手紙を捨てなかった」
カノンは顔を上げた。塔へ入る前、ディーンに託した手紙のことだ。今は十七歳の自分がそばにいるからと、直接渡さなかった。
「兄さんが、渡してくれたんですね」
「ああ。戻れるかどうか分からないと、正直に書いてあった」
父は帳面を閉じた。
「お前が何をしていたか、全部は分からん。聞かせてもらうのは、明日からでいい」
カノンは頷いた。父が迷ったことも、母が待ってくれたことも、簡単に埋まるものではない。
「俺も、留守の間のことを聞きたいです」
父は目元をゆるめ、カノンの肩へ手を置いた。
食堂へ戻ると、母が砂糖を入れないお茶を出してくれた。懐かしい香りが、湯気と一緒に立ち上る。
アリアは隣で手帳を開いていた。星のない街で暮らした人々の名と、井戸の水位を書き込んだものだ。
「帰ってきたから、あの人たちのことを忘れたくないの」
紙を借りて、井戸番の親子へ宛てた手紙を書き始める。今は危険な道を開いて届けるつもりはない。いつか安全な方法が見つかったときに、渡したい言葉を残しておくのだという。
カノンも旅の手帳を広げた。雪の村で出会ったサナの名、白い砂漠の旅人の名。アリアは知らない名前の横へ指を置く。
「この人たちの話も、聞かせて」
「長くなるよ」
「私だって、一年分あるもの」
「じゃあ、明日から少しずつ」
ニナが横から、紙なら倉庫にたくさんあると言った。アリアは笑って、手帳を閉じる。今夜のうちにすべてを書き終える必要はなかった。
*
夜遅く、カノンは庭へ出た。
星が見えた。
何度も夜空を見上げてきた。雪の村でも、砂漠でも、星のない街でも。それでも故郷の庭で見る星は、どこか違っていた。幼いころ屋根に登って怒られたときと、同じ並びの光がそこにある。
後ろで戸が開いた。
「また一人で考えてた?」
アリアが歩いてくる。髪には銀の花がない。あれは星のない街の床で、今も誰かの暮らしを支えている。
「少しだけ」
「何を?」
「君に話したいことが多すぎて、何から話せばいいかって」
アリアは庭の長椅子へ腰を下ろし、自分の隣を軽く叩いた。カノンが座ると、家の中から食器を片づける音が聞こえた。ニナが何か言い返し、ディーンが呆れたような声を上げている。
「今日、全部話さなくていいよ」
「そうだな」
しばらく二人で星を眺めた。
「白い道で、俺が『先に行って』って言ったの、覚えてる?」
「忘れないよ。途中で引き返したことも」
アリアは星を見上げたまま、静かに続けた。
「カノンを置いて行けなかった。だから戻ったのに、違う道に出ちゃった。ずっと、約束を破ったのは私だと思ってた」
「俺は、あとから追いつけるって思い込んでた。確かめもしないで、すぐ迎えに行くって言ったんだ」
アリアは膝の上で重ねていた手をほどいた。
「もう、どっちが悪かったか決めなくていいよね」
「……うん。次は、ちゃんと話そう」
「先に行けって言う前にね」
アリアの手が、カノンの手の上へ重なった。
以前なら、その温かさを確かめるだけで精いっぱいだった。今は握り返せば、彼女も自然に指を絡めてくる。
「知らない道があったら、先に相談しよう」
「行き先も、誰が待ってるかも」
「帰り道もな」
アリアは笑った。夜風が庭木の枝を揺らす。家の中では誰かがカノンの名を呼び、少し遅れて母の声がした。
「明日、町を案内してくれよ」
「私も知らない店ばかりだよ」
「橋のそばにパン屋があったろ。まず、あそこへ行こう」
「うん。ニナにも、好きな店を教えてもらおうか」
カノンが立ち上がると、アリアも腰を上げた。差し出した手を、彼女はためらわずにつかむ。
食堂の窓に家族の影が動き、聞き覚えのある笑い声が庭まで届いた。
二人は並んで、同じ戸をくぐった。




