エピローグ 星のある夜
帰ってから三か月、銀時計の針は一度も動かなかった。
カノンは机の上で蓋を開き、傷の増えた文字盤を眺めた。八年間、道を渡るたびに頼った時計だ。縁は少し歪み、指でなぞると旅の途中でついた傷が分かる。
「また見てる」
窓辺で本を読んでいたアリアが、ページから目を上げた。
「動いてないよ」
「分かってる。壊れてないか気になって」
「オルフェさんが、壊れてないって言ってたでしょう」
「うん」
「昨日も同じ返事をしたよ」
カノンが蓋を閉じると、アリアは笑って本へ視線を戻した。
銀時計が読むのは、つながった道の先の日付だ。道が閉じているなら針は動かない。それを頭では理解していても、静かな文字盤を見ると、無事に帰ってきたことをもう一度確かめたくなる。
窓の外で、木を削る音がした。
庭の長椅子にニナが腰かけ、小さな木片を膝に載せている。足元には削り屑が落ち、隣には使い込まれた彫刻刀があった。九歳のころカノンからもらった木彫りの鳥を、今も部屋に飾っているらしい。今度は自分の手で何か作っているのだという。
屋敷での暮らしには、まだ覚え直すことが多い。父は帳簿の新しい書式を教え、母はカノンが出かけるたび、何時ごろ戻るかを尋ねる。ディーンは帰りが遅かった翌朝だけ、剣の稽古を少し厳しくした。昔の店がなくなった角を、カノンがうっかり曲がることもある。
アリアも、同じように町を覚えているところだった。
ニナが九歳だったころ、二人が顔を合わせたのは、あの森の騒ぎのあとだった。一緒に過ごせたのはわずかな間だったが、再会した今もニナは「アリアお姉ちゃん」と呼び、買い物に出かけるときには必ず誘ってくる。
先週、二人で橋のそばを歩いたときも、アリアは道を間違えかけたそうだ。
「こっちに薬屋があったよね」
「昔はね。そこは今、布屋さん。薬屋なら橋の向こうだよ」
「じゃあ、パン屋は?」
「ほら、橋の手前。さっき一緒に通ったでしょう」
そう言って笑うニナの後ろを、アリアが小走りについていったという。帰ってきてから二人で描き始めた町の地図には、水路の印の代わりに、焼きたてのパンがおいしい店や、花の苗が並ぶ店が書き込まれていた。
庭からニナの「もう少しでできる!」という声が上がった。アリアが窓越しに「何が?」と尋ねても、答えは返ってこない。
「秘密なんだって」
カノンが言うと、アリアは首をかしげた。
*
昼過ぎ、年老いたエドガーとオルフェが屋敷を訪ねてきた。
二人はそれぞれ記録の束を抱え、玄関をくぐる前から言い合っている。
「そこは消さなくていい。間違った印も残しておく」
「だったら、どうして間違えたか横に書け」
「書いたぞ」
「小さくて読めん」
アリアが吹き出した。オルフェもエドガーも、彼女が笑った理由を分かっている顔だった。
食堂の卓には、先に届いた手紙が一通置かれていた。レオからだ。
ミリアと川沿いの町で暮らし、古い水門の見回りを手伝っているらしい。手紙には、ミリアが木の櫛を直したことも書かれていた。ただ、歯が一本だけ足りないという。
カノンは旅の手帳を開いた。水門の縁で拾い、紙に挟んだままの小さな木片がある。折れた櫛の歯だ。
「……まだ持ってたの?」
アリアが覗き込む。
「返す相手が見つかるまで、捨てられなかったから」
手紙の最後に、レオらしい大きな字があった。
『次に会ったら、今度はこっちの順番で話すからな。』
カノンは笑った。レオとは、出会った順番さえ食い違っていた。今度会うときも、どちらが先に何を知ったかで言い合いになるだろう。けれど、その続きが楽しみだった。
エドガーが二枚の青い布を卓へ広げた。
カノンが旅のあいだ持ち歩いた古い布には、星のない街で現れた光の線が、長い年月にわたって縫い足されている。もう一枚にはそれほど多くの線はなく、最後の夜に確かめた水門の位置と、帰還の日付が新しく記されていた。
「雪の村のことも、ここへ残したい」
エドガーは布の余白を指した。
「家が消えたとき、誰がどこにいたか。お前の手帳を見せてくれんか」
カノンは頷き、サナから届いた便りを取り出した。祖母は元気に暮らしている。けれど、消えた家の主の行方はまだ分からない。名前と、残された履物の印を、カノンは忘れずに書き留めていた。
「この名前、もう一度読んで」
アリアが紙とペンを持ってくる。
カノンが読み上げると、彼女は聞いたとおりに書き、綴りを確かめた。見たことのない雪の村の人を、勝手に知っているつもりにはならなかった。
アリアの手帳にも、星のない街の人々の名前が残っている。井戸番の親子、隣家の老人、赤い札の合図を覚えた子ども。帰ってきた日に書き始めた手紙は、もう封筒に入れてあった。
道は閉じたままだ。安全に届ける方法も、まだ分からない。
「すぐに送れなくても、書いておきたかったの」
アリアはそう言って、封筒を手帳の間へ戻した。
エドガーは何も急がせなかった。オルフェも、今すぐ道を開ける方法を話し始めたりはしない。ただ、それぞれが持ち帰った記録を、卓の上で確かめ合った。
夕方、オルフェがカノンの銀時計を手に取った。
蓋を開き、針が動かないのを見てから返してくる。
「そのままでいい」
「また道が開いたら?」
「そのときは調べる。何も起きていない日にまで、道を探さなくていい」
カノンは時計を受け取り、しばらく掌に載せていた。八年間、日付を探すことが朝の習慣だった。明日の行き先を、針に教えてもらわずに決めるのは、今でも少し不思議だ。
やがて時計を引き出しへしまう。代わりに取り出したのは、母に頼まれた花の苗と、父に頼まれたインクを書いた買い物の紙だった。
どちらかを忘れたら、帰ってきて叱られるだけだ。
カノンは紙を外套の内側へしまった。
*
夜、庭へ出ると、アリアが長椅子に座っていた。
髪に、小さな木の花が咲いている。
五枚の花弁のうち一枚だけが、少し大きい。留め具はありふれた金属で、青い石もついていない。近づいてみると、花弁の縁には、彫刻刀の跡がわずかに残っていた。
「ニナがくれたの」
アリアが嬉しそうに髪へ触れた。
「朝から作ってたの、それか」
「うん。『前の花にはかなわないけど』って。でも、私、こっちも好き」
カノンは隣に座った。
「似合う?」
「似合うよ」
「ちゃんと見て言った?」
「見てるって」
アリアが笑う。カノンは少し傾いていた髪飾りを直した。花弁が指に触れる。銀の花よりずっと軽く、少し力を入れれば折れてしまいそうな木の花だった。
それでも、彼女の髪によく似合っていた。
庭の上には星がある。
アリアはしばらく空を見上げ、それから尋ねた。
「日本の景色、今も見える?」
「思い出すことはある。でも、新しく流れ込んでくることはない」
「……寂しい?」
「少しだけ。知らない人なのに、不思議だよな」
雨の駅も、机に置かれた灯りも、誰かが画面を持つ手も、カノンは覚えている。自分の前の人生ではなかったのかもしれない。それでも、あの景色を見て考えたことまで、なくなったわけではない。
アリアは彼の隣で、木の花をそっと押さえた。
「私も、向こうの井戸のことを考える日があるよ」
「そうか」
「うん。でも、今日はニナと町の地図を描いた。明日はあのパン屋へ行くの」
「俺も行く。買い物を頼まれてるんだ」
「じゃあ、インクを買い忘れないようにしないとね」
「……なんで知ってるんだよ」
「さっき、お母さんが言ってたもの」
アリアは楽しそうに笑った。カノンもつられて笑う。
屋敷の扉が開いた。
「二人とも、いつまでそこにいるんだ。片づけを手伝え」
ディーンの声だった。その後ろから、ニナが「花、曲がってない?」と顔を出す。
「大丈夫。ちゃんと似合ってる」
アリアが答えると、ニナはほっとしたように笑った。
アリアが立ち上がり、カノンへ手を差し出す。
「行こう」
「ああ」
握った手は温かかった。開いた扉から、食器の触れ合う音と家族の話し声が流れてくる。
木の花が、夜風に小さく揺れた。
二人は手をつないだまま、家の灯りへ戻った。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
カノンとアリアの長い旅も、これでおしまいです。
八年前に交わした約束。離ればなれになった二人が、それぞれの時間を歩き、ようやく同じ場所へ帰ってくるまでの物語でした。
二人が無事に帰り、何気ない毎日を一緒に過ごせるようになったことを、作者としても嬉しく思っています。
長い物語でしたが、ここまで二人の旅にお付き合いいただけたこと、心から感謝しています。
この物語が、皆さんの心に少しでも残るものになっていたら幸いです。
改めまして、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




