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ホープの決意

戦場となった花園の上空。


そこはもはや空ですらなかった。


裂けた雲の隙間から神の光が漏れ、黒く渦を巻く空間の奥では雷が途中で止まり、炎が形を崩さぬまま浮かび、風は吹こうとしては歪んで消えていた。砕けた石や花びら、血の雫までもが、落ちることを忘れたようにあちこちで空中へ貼りついている。


花園は完全に壊れていた。


白い花は神の血に染まり、青い花は焼け、石畳は割れ、妻が大切に守ってきた小道も、もう元の形を留めてはいない。

それでも、そこがかつて花園だったという記憶だけが、夕暮れの光の残りの中にかろうじて残っていた。


神々の力がぶつかり合い、空は裂け、大地は砕けている。


その中心で。


母と子が向き合っていた。


時の神。


そして。


新たな闘神――ホープ。


闘神の剣を握る少年と、同じ剣を先ほどまで振るっていた母。

二人のあいだには血と破壊と止まりかけた時間が横たわっている。

それでも、他の誰も入り込めぬ何かがそこにはあった。


神々は遠巻きに二人を見ている。


先ほどまで戦っていたはずなのに、今は誰も手を出せない。


雷の神も。

炎の神も。

風の神も。

水の神も。


みな傷つき、神気を乱し、互いに視線を交わしながらも、迂闊に動けずにいた。


それは恐れだった。


暴走した時の神だけでも危険なのに、その前へ立つホープが、闘神の力と時の力の両方を急速に自分のものにしつつあるのが分かるからだ。

今、この場へ不用意に踏み込めば、二つの神格のぶつかり合いに巻き込まれ、自分たちまで消し飛ばされかねない。


空気が張り詰めていた。


風は止まり、音はゆがみ、時間の層が幾重にも重なっている。

わずかな息遣いさえ、遅れて聞こえたり、逆に先へ届いたりするような異常な静寂だった。


母がゆっくり歩く。


闘神の剣を手に。


その姿は、まだ美しかった。


いや、美しいからこそ恐ろしいのかもしれない。

血と灰に汚れた白い衣。

長い黒髪。

涙の跡を残したまま、静かにこちらへ向かってくる足取り。


その目は、狂気の奥にまだ何かを残していた。


完全に壊れきっているわけではない。

だからこそ、ホープは剣を向けながらも諦めきれない。


母はホープを見て言う。


静かな声で。


「ねえ」


その声は、戦場には似つかわしくないほど小さかった。


ホープは剣を構えたまま答える。


「……何だ」


声は低い。

だが内側では、胸がひどく強く鳴っていた。


目の前にいるのは敵ではない。

敵にしなければならない相手でもない。

ようやく母と知った人だ。

しかも、その人は壊れたままなお自分へ話しかけている。


母は首を少し傾ける。


その仕草だけ見れば、昔からそうして息子の顔色をうかがってきた母のようですらあった。


「どうして?」


その声は。


先ほどの神ではなく――

母の声だった。


ホープの胸が揺れる。


ほんの少しだけ、時間が戦場から外れたような錯覚さえあった。


母は続ける。


「神々のくだらない争い」


空を見る。


神々を睨む。


その視線には、もはや神への畏れは欠片もなかった。

あるのは嫌悪と、底の見えない軽蔑だけだった。


「そのせいで」


胸に手を当てる。


そこには、まだ人間の女としての痛みが残っている。

神としての憎しみだけではない。

一人の母として、奪われた十三年の痛みが。


「私はあなたを手放さなければならなかった」


ホープの胸が揺れる。


その言葉は、剣より深く入った。


自分はずっと知らなかった。

雪の夜に城から出されたことも。

母が泣きながら自分を抱いていたことも。

名前だけを託して別れたことも。


だが今、目の前の母の声が、それを現実として胸へ押しつけてくる。


母は続ける。


「あなたが生まれた夜」


「私は泣きながらあなたを抱いていた」


その声は震えている。


時の神としての圧倒的な力をまといながら、言葉の端だけがひどく人間的に揺れていた。


「そして」


闘神の亡骸を見る。


その視線だけで、空気がまた少し重くなる。


「あなたの父は」


小さく息を吐く。


「殺された」


それは事実だ。

神々によって。

この空の上にいる者たちによって。


闘神は、家族を守るために立ち、そして貫かれて死んだ。


母はゆっくりホープを見る。


その目には悲しみがある。


深く、濁った悲しみだった。

何も知らなかった頃のやさしさではない。

すべてを奪われたあとの、それでもなお残ってしまった愛情と絶望の混ざった悲しみ。


「なのに」


問いかける。


「どうして」


神々を指す。


「そいつらの味方をするの?」


沈黙。


風が止まっている。


いや、世界そのものが答えを待っているようだった。


ホープは剣を握る。


手に汗が滲む。

闘神の剣は重い。

その重さの中に、父の死と、父が守ろうとしたもの全部が詰まっている気がした。


そして言う。


静かに。


「……守るためだ」


時の神の目がわずかに揺れる。


その答えは、彼女にとってもっとも聞きたくない種類のものだったかもしれない。

復讐でもなく。

怒りでもなく。

“守るため”。


ホープは続ける。


空を見る。


遠くの城。

闘神が築いた領地。

人間の街。

エルフの森。

獣人の村。

魔族の鍛冶場。

いろいろな種族が暮らしている場所。


五歳のころ、養父に「剣は守るために振るうんだ」と教えられた日。

九歳で村を見渡し、この場所を守りたいと思った朝。

十歳で神の襲撃を見て、それでも騎士になると決めた日。

十二歳で養父の亡骸の前に立ち、守ると誓った夜。


そのすべてが今の言葉の背後にあった。


「父さんが」


言う。


「守ってきた土地」


真っ直ぐ母を見る。


「俺も守りたい」


その一言には、父を知ったばかりの息子の思いと、もっと幼いころからこの土地を愛してきた少年の思いが重なっていた。


剣を握る。


「種族とか」


首を振る。


「神とか人間とか関係なく」


「みんなが生きられる場所」


「幸せになれる場所」


その言葉は、闘神が守ってきたものそのものだった。


力で押さえつけるだけではなく、人間も、エルフも、魔族も同じ土地で生きられる場所。

神々の世界では歪で、異質で、だからこそ狙われ続けた場所。


ホープは言う。


「だから」


母を見る。


「俺は戦う」


沈黙。


長い沈黙。


時の神はしばらくホープを見ていた。


その目は、悲しそうだった。


壊れきったように見えて、なおその言葉を理解してしまう部分が残っているのだろう。

“守るために戦う”。

それはかつて闘神が最後に選んだ姿でもあり、いま目の前の息子が選んだ姿でもある。


母は小さく笑った。


「……残念ね」


その笑みはやわらかい。

けれど、あまりにも遠い。


闘神の剣を持ち上げる。


時間の力が刃に集まる。


刃の周囲で空間が波打ち、花園の残骸が触れずとも砕ける。

世界が歪む。


神々が息を呑む。


誰もが、次の一撃がどれほどのものになるかを理解していた。


「終わりにしましょう」


剣を振りかざす。


ホープも剣を構える。


腕が軋む。

呼吸が熱い。

それでも目は逸らさない。


次の瞬間。


――


すべてが止まった。


風。

神々。

炎。

雷。

落ちていた石。


すべて。


完全に。


止まる。


それはこれまでよりもさらに深い停止だった。

部分的に遅くなるのではない。

一帯まるごと、時間という概念から切り離されたような静止。


ホープだけが動ける。


だが、何が起きたのか分からない。


「……?」


剣を構えたまま、周囲を見る。


神々は空中で止まっている。

雷も止まっている。

炎も動かない。

吹き上がった花びらも、崩れた土も、母の髪の先まで、すべてが不自然な位置で固定されていた。


そして。


目の前。


剣を振りかざしたままの母。


その刃も。

その微笑みも。

その涙の跡も。


止まっている。


ホープの胸がざわつく。


さっきまでの停止とは違う。

もっと広く、もっと深く、もっと静かな停止だった。


「……何だ」


声が響く。


奇妙なことに、自分の声だけがこの静止した世界の中をまっすぐに進んでいく。


「何が起きた」


世界が、完全に静止していた。


それは母の仕業なのか。

それとも自分の中の時の力が、無意識にこの一瞬を掴んだのか。

分からない。


ただ一つだけ確かなのは。


この止まった時間の中で、次に動ける者が何を選ぶかで、すべてが決まるということだった。


花園は壊れ、空は裂け、父は死に、母は暴走している。

それでもなお、世界は完全には終わっていない。


止まったこの一瞬だけが、最後の猶予のようにホープの前へ差し出されていた。

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