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闘神の剣

世界は止まっていた。


雷は空中で固まり、

炎は形を保ったまま揺れず、

神々も、空に浮いたまま動かない。


裂けた空の雲すら、渦を巻く直前の形で縫い留められている。

落ちかけた石も、散った花びらも、砕けた花壇の土も、すべてが“今”という一点に釘で打ちつけられたように静止していた。


それは、さっきまでの“遅くなった時間”ではない。


完全な静止だった。


神々の絶叫も。

母の剣の軌道も。

ホープの荒い呼吸だけを残して、世界そのものが一拍先へ進むことをやめてしまっている。


ホープだけが動いている。


その事実が、かえって恐ろしかった。


自分の足音だけが響く。

自分の呼吸だけが白く熱い。

世界から取り残されたのではなく、世界を置き去りにしてしまったような錯覚。


そして目の前には――


闘神の剣を振り上げたまま、

時の神である母。


その刃は、あと一瞬で振り下ろされるところで止まっている。


白い衣。

黒い髪。

涙の跡。

冷たい微笑み。


そのすべてが、動かぬままそこにある。


ホープは困惑していた。


「……何だ」


声がかすれる。


周囲を見回す。


「時間……?」


自分でそう口にしても、現実味がなかった。

分かるのは、これが普通ではないということだけだ。

さっきまで戦っていた。

母と向き合い、神々に囲まれ、世界そのものが壊れかけていた。


それが今は、音も風もなく、ただ止まっている。


そのとき。


後ろから声がした。


「ホープ」


とても静かな声。


だが、それはこの止まった世界の中で不思議なほどはっきり響いた。


振り向く。


そこに――


もう一人、母が立っていた。


同じ姿。

同じ顔。

同じ瞳。


白い衣。

長い黒髪。

涙の残る目元。


ただ、前にいる“時の神”とは違って、その人の周囲には狂った神気の歪みがない。

止まった世界の中で、ただ静かに立っている。


ホープの目が見開かれる。


「……母さん?」


前を見る。


剣を振り上げた母。


後ろを見る。


今、声をかけてきた母。


混乱した声が漏れる。


「母さんが……二人?」


後ろの母は、少しだけ微笑んだ。


その微笑みは、花園で見たやわらかな笑みに近かった。

訓練場でホープを抱きしめたときの、涙を滲ませながらもどこかやさしかった顔に近い。


そして言った。


「ええ」


静かな声。


「どちらも私」


その答えは、ホープの混乱を深めるようでいて、不思議と嘘には聞こえなかった。


ホープの胸がざわつく。


母はゆっくりホープの隣に歩いてくる。


止まった時間の中で、その足取りだけがあまりにも自然だった。

まるで本来、彼女もまたこの静止した世界の内側へ入れる存在なのだと示すように。


前に止まったままのもう一人の自分を見る。


そして言った。


「力が……大きすぎたの」


その声には、言い訳ではなく、ただ事実を認める静けさがあった。


空を見る。


止まった世界。


雷も、炎も、裂けた空も、怒りに満ちた神々の顔も、すべてがそのまま留まっている。


「人間の私では」


小さく息を吐く。


「制御できなくなった」


視線をホープへ戻す。


「怒りと悲しみが」


胸に手を当てる。


「この力を暴走させた」


その言葉に、ホープは何も返せなかった。


返せる言葉がなかった。

父を殺された。

十三年奪われた。

ようやく再会したその瞬間に、すべてをまた引き裂かれた。


もし自分が彼女の立場だったら、どうなっていたか想像もできない。


少しだけ目を細める。


「今、あなたが見ているあの私は」


前の自分を見る。


剣を振り上げ、世界すら止めてしまうほどの狂気をまとった存在。


「止まらない私」


ホープは言葉を失う。


目の前にいるこの母は、自分が知りたかった“母”に近い。

だが同時に、前にいる母もまた偽物ではない。

悲しみと怒りに支配された、本物の彼女の一部なのだ。


母は続ける。


「でも」


その目が柔らかくなる。


「私の中には」


ホープを見る。


「まだ、あなたの母としてもいる」


その一言は、ホープの胸を深く打った。


完全に失われたわけではない。

まだここにいる。

壊れた力の内側に、母としての意識が残っている。


その事実だけで、涙がにじみそうになる。


母はゆっくりホープに近づいた。


両腕を伸ばす。


抱きしめる。


ホープの体が一瞬固まる。


だがその腕は、花園で抱きしめてくれた時と同じだった。


温かい。


震えている。


それは神の腕ではない。

人間の母の腕だった。

やわらかく、細く、それでも必死に息子を包もうとする腕。


ホープは目を閉じそうになる。


こんな時間でなければよかった。

こんな別れのような抱擁でなければよかった。

もっと早く知りたかった。

もっと普通に、笑いながら抱きしめてほしかった。


そんな願いが一瞬で胸を満たす。


母が言う。


「闘神様も」


目を閉じる。


「あなたも」


小さく息を吸う。


「愛している」


ホープの目から涙が落ちる。


その言葉は、あまりにも遅くて、あまりにもまっすぐだった。


父を失ったばかりで。

母は壊れかけていて。

世界は止まっていて。

それでも、その中で初めて交わされる本物の親子の言葉。


ホープは声を出せなかった。

喉が詰まり、ただ涙だけが落ちる。


そのとき。


母が手をかざした。


空間が歪む。


止まった世界の中に、さらに細い光の亀裂が走る。

何もない空間の一点へ、光と神気が集まり始めた。


光が集まる。


神の力が形を作る。


それは、母の時の力だけではない。

闘神の神気の残滓も、彼女の中に残る愛情も、この止まった世界の中でひとつの形に収束していく。


そして剣が生まれる。


闘神の剣。


だが、さっきまでのものではない。


新しい。


神力で創られた、もう一本の剣。


闘神の剣。


それは本物と同じ形をしていた。

けれど単なる複製ではなかった。

闘神の力を継ぐ者のために、母がこの停止した時間の中で新たに形作った剣だった。


母はそれを手に取り。


ホープに渡す。


ホープは震える手で受け取る。


刃は重い。

だが不思議と、自分の手へ吸いつくように馴染む。


「……母さん」


ようやくそれだけを言う。


母は言う。


静かに。


はっきりと。


「私を」


少し間を置く。


その沈黙の中で、ホープはすでに言葉の行き先を悟り始めていた。

悟りたくないのに、分かってしまう。


「貫いて」


ホープの呼吸が止まる。


「……え」


その一音に、拒絶も悲鳴も全部詰まっていた。


母は優しく微笑む。


「この暴走を止めるには」


前に止まった自分を見る。


「それしかない」


ホープは首を振る。


「無理だ」


声が震える。


「できるわけない」


ついさっき母だと知ったばかりだ。

抱きしめてもらったばかりだ。

父は死に、ようやく得た家族を、今度は自分の手で止めろと言われている。


そんなことができるはずがない。


母は首を横に振る。


「あなたならできる」


その目は優しかった。


「あなたは」


ホープの胸に手を当てる。


そこには闘神の力が脈打っている。

父の神気。

守るために振るわれた剣の記憶。

最後に託された願い。


「闘神の子」


そして額に触れる。


そこには時の流れの残響がある。

彼女自身の血。

悲しみではなく、本来人を見つめ、未来を知ろうとした力。


「私の子」


その一言で、ホープはまた泣きそうになる。


母は続ける。


「闘神様が守ってきたこの地を守り続けて」


その願いは、遺言に近かった。

父から子へ託されたもの。

母から子へ託されるもの。

二人の想いが、いまホープの胸の中で一つになろうとしている。


その瞬間。


世界が震えた。


止まっていた時が――

再び動き出す。


雷が落ちる。


炎が動く。


神々が息を吸う。


裂けた空が再び唸りを上げ、花びらは落ち、血は地へ流れ、世界が時間を取り戻す。


そして。


前の母――時の神が。


剣を振り下ろす。


ホープが動く。


剣を構える。


涙が止まらない。


「……できないよ」


声が震える。


「母さん」


剣を握る。


「できない」


その言葉は本心だった。

本当は貫きたくない。

止める方法がそれしかないと言われても、受け入れたくない。


それでも。


戦う。


闘神の力。

時の力。


二つを使い。


涙を流しながら。


ホープは――

母と戦った。


その戦いは、勝つためのものではなかった。

憎しみでもなかった。

世界を守るためでありながら、同時に母を失わないための戦いだった。


花園は崩れ、空は裂け、神々はなお息を呑んで見ている。


その中心で、少年は泣きながら剣を振るう。


自分を愛していると言ってくれた母を、

守るために止めるために。


それがどれほど残酷でも、

もう立ち止まってはいられなかった。

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