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暴走

花園は、すでに花園ではなかった。


つい先ほどまで、そこは妻が手ずから花を育て、多くの人に見てもらいたいと願っていた静かな庭だった。

白い花が風に揺れ、青い花が夕暮れに染まり、石畳の小道を歩けば戦の匂いを忘れられるような場所だった。


だが今、その面影はほとんど残っていない。


大地は裂け、空は歪み、神の血が地面を染めている。


花壇は崩れ、咲き誇っていた花は踏み潰され、焼かれ、血に濡れていた。

神々の力と闘神の剣がぶつかり合った余波で、土は抉れ、石は割れ、かつてやわらかな風の通った場所は、もはや神々の処刑場のような凄惨な姿になっていた。


その中心に――


闘神の亡骸。


血に濡れた黒い鎧。

胸を貫かれ、動かなくなった体。

ついさっきまで神々の軍勢を前に、一歩も引かず立ち続けていた男の体が、いまは花と血の中に横たわっている。


そして、その横に立つ女。


闘神の妻。

ホープの母。


だが、もうその姿は人間ではなかった。


白い衣をまとい、長い黒髪を夕焼けと血風に揺らしながら立っている。

見た目は確かに人の女のままだ。

それなのに、その周囲にあるものが人の理から完全に外れていた。


彼女の周囲の空間が歪んでいる。


視界そのものが、彼女を中心に揺らいでいた。

熱で蜃気楼が立つような歪みではない。

もっと深いところ、世界の骨組みが軋んでいるような異常だった。


風が動かない。


いや、正確には“動けない”のだ。


吹いていたはずの風は、彼女の周囲で無理やり留められたように静止している。

落ちていた花びらが、空中で止まっていた。


一枚だけではない。

何枚もの花びらが、舞っていた形のまま空中へ縫い留められている。

血の雫も、砂も、砕けた石の欠片も、すべてが不自然な位置で止まったまま、落ちることを許されていない。


時間が――

止まっている。


神々が息を呑む。


ついさっきまで怒りに任せて花園へ力を叩きつけていた彼らが、今は誰一人としてすぐに動けない。

恐怖と理解が、同時にその場を縛っていた。


雷の神が呟く。


「……時の神」


その名を口にした瞬間。


女がゆっくり顔を上げた。


その動きだけが、止まった世界の中で滑るように進む。

周囲の時間を支配している者だけが持つ、不気味な自然さだった。


その目は――


涙の跡を残しながらも、静かに狂っていた。


泣いた痕がある。

頬に乾ききらぬ涙が残り、睫毛はまだ濡れている。

そこには確かに、闘神を失ったばかりの女の悲しみがあるはずだった。


だが、その悲しみはもはや人の涙の形をしていなかった。


感情が壊れ、その壊れた断片の奥で、別の何かが目を開けている。


そして、ゆっくり言う。


「全部」


低い声。


壊れたような静かな声。


怒鳴るでもなく、嘆くでもなく、ただ凪いだ湖の底から響くような声だった。

それがかえって恐ろしい。


「止める」


空を見上げる。


神々を見つめる。


「全ての時を」


「止める」


次の瞬間。


空の雲が止まる。


さきほどまで渦巻いていた黒雲が、空に描かれたまま固定される。

裂けた空の縁で走っていた雷も、途切れた光のまま止まった。


落ちていた神の血が止まる。


花へ落ちる寸前の血の雫が、空中で赤黒く光ったまま静止する。


炎も。

風も。

音も。


すべて。


動かない。


世界が止まる。


神々の体も、重く固まる。


それは単なる拘束ではなかった。

時そのものが、彼らの肉体から先へ進むことを拒んでいる。

神であるがゆえに完全には凍りつかない者もいる。だがその動きはあまりにも鈍く、意志と現実のあいだに深い泥が流し込まれたようだった。


恐怖が広がる。


神々は知っている。

時の神が本気で力を振るえばどうなるかを。

だからこそ、かつて恐れた。

だからこそ、消そうとした。


そしていま、その恐れていたものが、もっと悪い形で目の前にいる。


母は続けた。


「全部」


闘神の剣を握る。


その刃に、時の力が流れる。


本来なら闘神の神気だけを帯びているはずの剣が、いまはそれだけではない。

刃の表面に、見えぬ時間の揺らぎがまとわりつく。

過去と未来が薄く重なり、刃そのものが世界を切り分けるための概念へ変わりつつあった。


「壊す」


そして静かに言った。


「全ての神を」


「壊して」


目を細める。


そこにあるのは、優しさの名残に似たものだった。

けれど中身は、底のない破壊衝動で満たされている。


「全てを」


小さく微笑む。


「無にする」


神々の顔が変わる。


恐怖。


初めて。


神が恐怖を見せた。


今までは彼らが恐れられる側だった。

滅ぼす側であり、裁く側であり、他者の命と世界の秩序を決める側だった。


その神々が、今は一人の女の前で、はっきりと恐怖を浮かべている。


そのとき。


一人だけ動く者がいた。


ホープ。


彼だけは、母の力の中心へ向かって走れる。

おそらく血のせいだろう。

闘神の力と時の神の系譜、その両方を持つことで、止まった時間の縁をかろうじて踏み越えていける。


ホープが叫ぶ。


「母さん!!」


声が震える。


叫びであり、悲鳴であり、懇願だった。


「やめて!!」


だが母は振り向かない。


目は神々を見ている。


そこにはもう、花園で自分を抱きしめた母の眼差しはない。

訓練場で泣きながら笑った奥方様の顔もない。

闘神の死によって壊れた、その先にあるものだけがそこにいた。


ホープが走る。


「母さん!」


必死に呼ぶ。


「俺だ!」


その言葉には、ついさっき得たばかりの自覚がこもっていた。

自分はこの人の子だ。

だからこそ、届いてほしい。

他の誰でもなく、自分なら止められるのではないかと、必死に願っている。


だが母の目は揺れない。


そこにはもう、母の意識がない。


少なくとも表へ出ているものは、母としての理性ではなかった。


創造の神が震えていた。


空の上。


その顔は青ざめている。


つい先ほど闘神を討った神。

すべての神々の中でもっとも古く、もっとも世界の骨格に近い場所へ立つ神。


その創造の神が、いま確かに恐れていた。


「……あり得ない」


声が震える。


「時の神の完全覚醒……」


神々がざわめく。


ざわめきさえ、止まりかけた時間の中では妙に歪んで聞こえる。

だが、その内容は明白だった。


想定を超えている。

少年の覚醒すら危険だった。

だが、母の完全覚醒はそれ以上だ。


しかも理性を保った神としてではない。

悲嘆と怒りで壊れたまま、時間そのものを握っている。


創造の神は歯を食いしばる。


「……所詮」


声を絞り出す。


「人間だ」


その言葉は、自分自身を奮い立たせるためでもあった。

相手は神ではない。

器は人間だ。

壊せる。終わらせられる。そう言い聞かせなければ、足が竦みそうだったのだ。


そして槍を握る。


創造の槍。


世界の法則を作る神の武器。


その槍だけは、時間の歪みの中でも完全には止まらない。

世界の外縁へ触れる武器だからだ。

創造と終焉、その両方へ干渉するための神具。


創造の神が叫ぶ。


「終わらせる!!」


槍が光る。


空間を裂く。


それは投げられたというより、法則そのものが一点へ書き換えられるような軌道だった。

妻の胸を貫き、すべてを終わらせるためだけの一撃。


そして、妻へ向けて突き出された。


その瞬間。


母の目が、わずかに動いた。


時間がさらに歪む。


槍が止まる。


創造の槍でさえ、彼女の前では完全には進めない。

先端が彼女の目前で震えたまま、空間へ縫い留められる。


母はゆっくり手を上げる。


空間を掴むように。


それから、軽く振った。


槍が――

弾かれた。


“弾かれた”という表現すら生ぬるい。

世界の流れそのものを横へ押し退けたように、槍の軌道が一瞬で反転する。


次の瞬間。


槍は、そのまま創造の神へ向かって飛んだ。


創造の神の目が見開かれる。


「な……」


回避は間に合わない。

自ら放った槍が、自らの時間の隙間を突いて戻ってくる。


ドン――


槍が胸を貫いた。


創造の神の体が、空中で止まる。


その光景は、あまりにも不気味だった。

槍に貫かれたまま、死の直前で時間に縫い留められている。


血が溢れる。


神の血。


それも、創造の神の血だった。


神々が絶叫する。


「創造神!!」


母はゆっくり歩く。


空を。


創造の神へ向かって。


重力が崩れる。


人間なら地に足をつけているはずの女が、花園の上を、壊れた法則の中で自然に歩いていく。

彼女の足元では、砕けた石が落ちず、花びらが逆巻き、血の雫が逆流する。


時間が歪む。


母の顔には、微笑み。


優しい笑み。


花園で見せた、やわらかな微笑みによく似ていた。

だがそれは恐ろしく冷たい。


思いやりの形をしているのに、その実、完全な破壊だけを宿した笑みだった。


母は言った。


「安心して」


優しい声。


「すぐには殺さない」


創造の神の目が震える。


あれほどの古神が、いまは言葉も返せない。

死よりも恐ろしいものを悟っている顔だった。


母は続けた。


「ゆっくり」


首を少し傾ける。


「苦しませてあげる」


「苦しむ姿をみせて」


その声は完全に狂っていた。


悲しみの延長線上にある狂気ではない。

悲しみそのものが世界の法則を巻き込み、破壊衝動へ転化した声だった。


そのとき。


ホープが前に立つ。


母の前に。


空を歩いていた彼女の進路を、地から飛び出すように塞いだ。

神々は驚愕し、創造の神は息を止め、花園の下で闘神の亡骸は変わらず沈黙している。


「……やめて」


息が荒い。


涙が滲む。


「母さん」


その呼びかけは、ようやく口にできたものだった。

母と知ったばかりなのに、すでに失いたくないという思いが胸を焼く。


妻の目が、初めてホープを見る。


冷たい目。


感情がない。


いや、感情はある。

ありすぎるほどある。

だがそれがすべて壊れて混ざり合い、人として読める形を失っていた。


そして言った。


静かに。


「どいて」


その声音には怒鳴りも苛立ちもない。

だからこそ恐ろしい。


ホープが首を振る。


「嫌だ」


震えている。

怖くないわけがない。

いま目の前にいるのは、自分を抱きしめた母と同じ顔をしているのに、神々すら凍りつかせる何かだ。


それでも下がれなかった。


ここで下がれば、この人は本当に世界を壊してしまう。

そう本能で分かっていた。


母の目が細くなる。


剣を少し上げた。


闘神の剣。


その刃に、時の力が渦巻く。


黒い刃の周囲で、時間の層が幾重にも捻じれ、細い光の糸のようにまとわりつく。

その一振りで、神も、空間も、法則すら斬れるのだと、見る者すべてに理解させる刃だった。


母は言う。


低く。


警告の声。


「……これ以上」


ホープを見つめる。


それから、はっきり言った。


「邪魔をするなら」


一瞬の沈黙。


その沈黙の中で、ホープは喉の奥が冷たくなるのを感じた。

それでも逃げられない。


そして母は、静かに告げた。


「お前を撃ち抜く」


その言葉は、脅しではなかった。


本当にそうするつもりなのだと、ホープにも、神々にも、誰より本人自身が分かっていた。


花園の上で、時間はなお歪み続ける。


母は剣を握り、空を焼くような夕暮れの中で立っている。

ホープはその前に立ち、涙を滲ませながらも退かない。


神々は初めて、少年を狙うだけでは終わらない戦いに足を踏み込んだことを悟っていた。


今、もっとも危険なのは誰か。


それはもはや、闘神の血を継いだ少年だけではない。


愛を失い、時そのものを暴走させた母。

その絶望だった。


そしてホープは、その絶望の前で、逃げずに立つことを選んだ。

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