闘神の死、時の神の覚醒
空が裂けていた。
夕暮れに染まっていたはずの空は、もはや空と呼ぶには禍々しすぎるものへ変わっていた。
赤い雲の上に黒が重なり、紫の裂け目が何本も走っている。そこから漏れる神気は、雷より鋭く、炎より熱く、風より荒々しく、大地そのものを押し潰すような重さを帯びていた。
黒い雲の中から、次々と神の姿が現れる。
十。
二十。
それ以上。
一柱や二柱ではない。
天空の神殿で決定された“処刑”が、いまそのまま地上へ落ちてきている。
それは討伐ですらなかった。
排除。抹消。脅威と認定したものを、この場で徹底的に消し去るための軍勢だった。
神の軍勢。
怒りと殺意が、空を満たしていた。
花園は、もはや花園ではない。
神の血が花を汚し、石畳にはひびが入り、風は優しさを失っていた。
それでもなお、そこにはまだ花が咲いている。
白い花。青い花。赤い夕焼けに照らされた花々が、これから始まる惨劇を前に小さく震えていた。
その中心に立つのは、雷の神。
鋭い光をその身にまとい、雲の裂け目の奥でひときわ強い神気を放っている。
神殿の会議で、ホープ抹殺へ真っ先に賛同し、必要なら闘神ごと殺すと言い放った神の一人だった。
雷が空を走る。
閃光が黒雲の中を這い、花園の地面へ青白い影を落とす。
一瞬ごとに世界の輪郭が明滅し、そのたびに神々の顔が異形のように浮かんでは沈んだ。
雷の神が低く言う。
「闘神」
その声は大地を震わせた。
ただ呼んだだけなのに、空気そのものがびりびりと鳴る。
訓練場の騒がしさとも、戦場の怒号とも違う。神が神へ向ける宣告の響きだった。
「神を殺した罪」
「そして」
その視線がホープへ向く。
ホープは母の腕の中の名残をまだ体に残したまま、呆然と空を見上げていた。
父だと知った直後。
母に抱きしめられた直後。
それなのに、その再会を祝う時間など一瞬も与えられない。
「その子」
「神々への脅威」
雷の神はそう言って、腕を上げた。
「ここで終わらせる」
空の神々が一斉に神力を集める。
雷。
炎。
風。
水。
それぞれが異なる色と圧を持ちながら、すべてが同じ一点へ収束していく。
花園へ。
そこに立つ三人へ。
そのとき、闘神が一歩前へ出た。
妻とホープの前に立つ。
まるで――
壁のように。
背中は広く、黒い鎧はすでにいくつもの血を浴びてなお揺るがない。
その背が、今この瞬間だけは、神としてではなく家族を庇う男の背にも見えた。
闘神の声が落ちる。
「……下がれ」
ホープが言う。
「でも――」
父だと知ったばかりの相手。
憧れていた闘神。
その背中が、あまりにも当然のように自分たちを庇って前へ出る。
ホープにはまだ何も整理できていない。
それでも、このまま背中へ隠れているだけでいいのかという焦りだけは、強く胸を打った。
闘神は振り返らない。
ただ言う。
「これは」
剣を握る。
神の剣。
闘神の剣。
長い戦の中で幾柱もの神を斬り伏せてきた刃だった。
その剣には、闘神そのものの神力が宿っている。
重く、激しく、触れるものすべてを圧するような力。
「神の戦いだ」
次の瞬間。
空から神々が降りる。
轟音。
地面が砕ける。
石畳が跳ね、花壇の縁が崩れ、花園の土が空へ舞い上がる。
神々の力が、闘神へ襲いかかる。
雷が落ちる。
炎が奔る。
風刃が空気ごと切り裂き、水の槍が地を滑るように迫る。
だが闘神は動いた。
一瞬だった。
剣が閃く。
その動きは速いというより、もはや認識が追いつかない。
空間がそこだけ裂けたように見えた次の瞬間、雷の神の腕が飛んでいた。
神の血が空に散る。
雷の神の怒号が響くより早く、次の神が突っ込む。
闘神の蹴り。
ただそれだけで、神の体が地面へ叩きつけられる。
花園の石畳が割れ、土が吹き飛び、薔薇の蔓がちぎれた。
風の神が風を放つ。
見えぬ刃が何十、何百と重なって、闘神の体と、その背後の妻とホープを一息に切り刻もうと迫る。
闘神が剣を振る。
風ごと斬る。
見えないはずの風が、目に見えるように裂け、風の神の体がその向こうで崩れる。
神々が叫ぶ。
「化け物……!」
だが闘神は止まらない。
一歩。
また一歩。
神を斬る。
蹴り飛ばす。
砕く。
神の体が次々と地に落ちる。
圧倒的だった。
それはもう戦いというより、神々にとって悪夢だった。
彼らは数で押し潰そうとしている。
だが闘神は、その数ごと斬っていく。
花園はすでに戦場。
花は焼け。
地面は裂け。
神の血が流れる。
白い花弁は赤黒く汚れ、青い花は土ごと抉られ、石畳はひびでは済まぬほど砕けていた。
妻が十三年かけて守り、育て、多くの人に見てもらいたいと願った場所が、いま神々の戦火の中心にある。
闘神の背中の後ろ。
そこには妻とホープ。
闘神は決して、後ろへ攻撃を通さない。
雷も。
炎も。
風も。
水も。
すべてを前で受ける。
すべてを前で斬る。
背後へ一撃たりとも漏らさぬように、その巨体と神剣で壁になっていた。
ホープが呟く。
「……すごい」
それは神の戦いだった。
訓練場で剣を交えた時とも、村で神の襲撃を見た十歳の時とも違う。
これは神話の中の光景そのものだった。
けれど、その戦場の中で、ただ一人、動かない神がいた。
空の高み。
神々の中心。
創造の神。
すべての神の中でも最も古く。
最も影響力を持つ神。
戦いを好まぬようでいて、実のところ最も多くの秩序と破壊を決めてきた存在。
神々の序列の奥に座し、世界の骨格へもっとも深く手を入れられる神。
その手には、槍。
神の始まりの槍。
ただの武器ではない。
神々の創生と終焉の象徴のような槍。
それを向けられた瞬間、空気そのものが凍るような圧を持っていた。
創造の神が言う。
「……やはり」
静かな声だった。
だが、その静けさが他の神々の怒号よりもよほど恐ろしかった。
「闘神」
「お前は危険だ」
それは昔から神々が抱いていた結論だった。
だが今この場では、さらにその意味が深い。
闘神自身も危険。
その子も危険。
その家族もまた、神々の秩序に対する否定そのものになりつつある。
創造の神は槍を構える。
闘神がその気配に気づく。
振り向く。
だが、その瞬間。
槍が――
放たれた。
光。
空間が裂ける速度。
それは飛んだというより、存在がそこへ現れたような一撃だった。
回避の余地はない。
防御のための時間もほとんどない。
闘神が剣を上げる。
だが間に合わない。
ドン――
衝撃。
槍が――
闘神の胸を、貫いた。
鎧ごと。
神体ごと。
背中まで突き抜ける。
その瞬間、時間が一拍遅れたように見えた。
闘神の体が止まる。
剣が落ちる。
血が流れる。
黒い鎧の隙間から、信じられぬほど大量の血があふれ、花園の土へ落ちる。
ホープの声が裂ける。
「父さん!!」
初めて、その呼び名が叫びになった。
闘神の体が崩れる。
膝をつく。
さっきまで、数多の神を前に立ち続けていた背が、ほんの一瞬で人のように重く落ちる。
妻の目が見開かれる。
次の瞬間、走っていた。
「……!」
彼女の白い衣が血と土で汚れるのも構わず、ただ一直線に闘神の元へ駆ける。
闘神の体を抱く。
胸には槍。
血が溢れている。
その量を見た瞬間、理解してしまう。
これは、立て直せる傷ではない。
神である闘神にとっても致命傷だと。
妻の手が震える。
「……いや」
声が震える。
「いや……」
否定の言葉しか出てこない。
何かを呼ぶことも、助けを求めることも、できない。
闘神がゆっくり目を開ける。
妻を見る。
その目は、いつもの闘神ではない。
戦場の神でもなく。
支配者でもなく。
ただの男だった。
長い時間の中で、ようやく本当の意味で妻を愛した男。
そして、今まさにその終わりにいる男。
妻の頬に手を伸ばす。
震える手。
血に濡れた指。
それでも、その動きはあまりにも優しかった。
そして言う。
静かに。
「……愛してる」
それは、最後の言葉としてあまりにも静かだった。
叫びでもなく。
命令でもなく。
ただ本心だけを残す、かすれた告白。
妻の涙が溢れる。
「だめ……」
その一言に、これまでのすべてが詰まっていた。
失いたくない。
もう奪われたくない。
せっかくここまで来たのに。
やっと本当に心を通わせたのに。
だが、願いは遅い。
闘神の手が落ちる。
目が閉じる。
呼吸が止まる。
闘神は――
息を引き取った。
世界が静かになる。
ほんの一瞬だった。
神々の気配も、風も、雷も、すべてが凪いだように感じられた。
妻の目から涙が落ちる。
そしてその瞬間。
何かが壊れた。
胸の奥で。
大きな何かが、音を立てて崩れた。
それは悲しみだけではなかった。
喪失。
絶望。
怒り。
ようやく得たものをまた奪われた痛み。
十三年前に子を奪われた夜よりもさらに深い、根そのものを引き裂かれるような痛み。
妻はゆっくり立つ。
目は涙で濡れている。
だがその目は――
変わっていた。
そこにはもう、花園を大切に育ててきた静かな奥方様の眼差しはない。
深い悲嘆の底で、何か別のものが目を覚ましつつあった。
足元に落ちていた剣。
闘神の剣。
妻はそれを握る。
手が震える。
それは重い。
人間の女が軽々と扱えるはずのない、神の剣。
闘神の力そのものを宿した刃。
だが、その瞬間。
体の奥から力が溢れる。
時間が歪む。
空気が震える。
花園に漂う神の血の匂い。
裂けた空。
泣き叫ぶホープの声。
すべてがどこか遠く、そして異様に鮮明に感じられる。
時の神。
その力が、完全に目覚めた。
だがそれは正常な覚醒ではなかった。
暴走。
何百年も前、神々が恐れた時の神の力。
それが今、悲しみと怒りに呑まれた人間の女の器を通して、一気に噴き出そうとしている。
妻の目が空を見る。
神々。
敵。
すべて。
視界が赤く染まる。
ホープが叫ぶ。
「母さん!!」
その呼び名は、ついさっき得たばかりのものだった。
けれど今、その声は届かない。
妻は振り向かない。
その目は、誰も見ていない。
愛するものを失った悲しみ。
絶望。
怒り。
それが混ざり合い、もはや一つの感情として分けることもできないまま、力だけを巨大に膨らませていく。
時間そのものが花園の周囲で捻じれていく。
落ちた花びらが途中で止まり、次の瞬間には朽ちかけ、また巻き戻るように戻る。
神々の顔に浮かんだ表情が遅れ、空の雲の形が一瞬で変わる。
世界の順序が壊れ始めていた。
妻が呟く。
低く。
壊れた声。
「……全部」
神々を見る。
「消す」
その一言は、もはや人の声ではなかった。
空が歪む。
神々が初めて、
恐怖の顔をした。
雷の神が言葉を失い、風の神が初めて後ろへ引き、炎の神の神気が揺らぐ。
創造の神でさえ、その目を細めた。
彼らは理解したのだ。
闘神の死によって。
もっとも触れてはならぬ形で。
時の神の力が、完全に目を覚ましたことを。
しかもそれは、冷静に未来を見渡す神としてではない。
愛するものを奪われた直後の、絶望に染まった覚醒。
それがどれほど危ういか。
どれほど破滅的か。
神々には、分かりすぎるほど分かった。
花園は血に染まり、夕焼けはなお赤く、闘神の亡骸は妻の足元にある。
その中心で、世界はもう元へ戻らない場所まで来ていた。




