父の死と騎士になる決意
ホープが十二歳になった年のことだった。
春も終わりに近づき、村の外れの草地には、やわらかな風が吹いていた。遠くでは森がざわめき、小川のせせらぎがかすかに聞こえる。普段なら穏やかで、どこまでも平和に思える午後だった。
その草地に、乾いた音が響く。
カンッ。
木の剣と木の剣がぶつかり合う音だった。
「はあっ!」
鋭く踏み込んだのはホープである。
五歳の頃とは違う。九歳の頃とも違う。身体つきはまだ少年のものだったが、背は少しずつ伸び、腕の力もついてきていた。何より、その目には子どもの遊びではない真剣さが宿っていた。
ホープは父に向かって、もう一歩踏み込む。
木剣を振り下ろすだけではない。受けられた瞬間に体勢を立て直し、次の一撃へつなげようとする。その動きはまだ荒削りではあったが、以前よりも確かに洗練されていた。
「まだ!」
叫ぶように言って、もう一度剣を振るう。
だが父は、ほんのわずかに身をずらしただけだった。無駄のない動きで一撃を外し、そのままホープの力をいなす。
勢いを殺しきれなかったホープは、たたらを踏み、前のめりに転んだ。
「うわっ!」
草の上に手をつき、情けない格好で止まる。土の匂いが鼻をかすめた。
その様子を見て、父が声を立てて笑った。
「焦るな」
いつもの落ち着いた声だった。
差し出された大きな手を、ホープは少しむっとした顔で見上げる。それでも無視することはできず、ぶっきらぼうにその手をつかんで立ち上がった。
「今の、当たってた」
悔しさを隠しきれずに言うと、父はあっさり答える。
「当たってない」
「当たってたって」
「当たってない」
その言い方がいかにも余裕たっぷりで、ホープはますます悔しくなる。頬を膨らませ、木剣を握り直した。
「くそ……」
父は木剣を肩に乗せたまま、そんな息子を見ていた。その眼差しには、からかうような笑いと、騎士としての冷静な観察の両方があった。
「だが」
父がふいに言う。
ホープは顔を上げた。
父は少し目を細める。
「強くなってる」
その一言に、ホープの不機嫌そうな顔がすぐに揺らぐ。
「ほんと?」
「ああ」
父は今度は笑わなかった。真面目な顔で、まっすぐホープを見る。
その表情に、ホープも自然と背筋を伸ばす。
「でもな」
父は静かに続けた。
「騎士は、剣が強いだけじゃなれない」
ホープはすぐに答えた。
「知ってる」
胸を張る。
「守るため、だろ」
その言葉を聞いて、父の目がわずかに和らいだ。
五歳の頃、自分が教えたことを、この子はずっと覚えている。そんな思いがにじんでいた。
「そうだ」
父はうなずく。
ホープは木剣を強く握りしめた。
「ぼく、騎士になる」
父の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
ホープは気づかないまま、続ける。
「父さんみたいに」
その声には迷いがなかった。
「この土地を守る」
風がひときわ強く吹き、草を揺らした。
父は少し黙っていた。何か言おうとして、飲み込むような沈黙だった。やがて小さく笑う。
「……そうか」
それはいつものような優しい笑みだった。だが、その奥には、消えない影があった。
ホープはまだ、その影の意味を知らない。
ただ、自分の口にした決意が父に認められたことが嬉しくて、もう一度木剣を構えた。
「もう一回!」
父は肩をすくめる。
「まだやるのか」
「勝つまでやる!」
「その意気はいいが、まずは立ち方を直せ」
「え?」
「踏み込みが大きすぎる。勢いだけで斬ろうとするな」
そう言って父は、自分の足の運びを見せた。無駄のない一歩。地を踏みしめる重心。剣を振るう前の、わずかな構え。
ホープはそれを食い入るように見つめる。
父は村では頼れる騎士だった。闘神に仕える騎士の一人であり、戦えば強い。だが、家では普段、決して威圧的ではなかった。厳しいことは言っても、怒鳴ることは少ない。剣のことを教えるときも、ただ打ちのめすのではなく、必ず意味を教えてくれた。
「剣は腕だけで振るうな」
父が言う。
「足と腰と、目だ。相手を見ろ。自分の動きだけに夢中になるな」
ホープは真剣にうなずいた。
「うん」
そして、何度も何度も打ち込んだ。
木剣がぶつかるたび、腕は痺れ、肩は重くなる。それでもやめようとは思わなかった。強くなりたい。その想いは、もう子どもの憧れだけではなかった。十歳のときに初めて神の襲撃を見て以来、ホープの中で「騎士になる」という言葉の重さは変わっていた。
神は、本当に襲ってくる。
村は、本当に壊される。
人は、本当に死ぬ。
そして、それを前に立って防ぐのが騎士なのだ。
ホープは汗だくになりながら、最後にもう一度父へ斬りかかった。
だが結果は同じだった。軽く受け流され、体勢を崩し、危うくまた転びそうになる。
今度は踏みとどまったものの、父は笑う。
「前より粘るようになったな」
「前より、って前はどうだったんだよ」
「すぐ転んでた」
「ひどい」
父は肩を揺らして笑った。
その笑い声を聞きながら、ホープもつられて少し笑ってしまう。
こんな時間が、ずっと続くような気がしていた。
⸻
その夜。
家の中には、温かな灯りがともっていた。
窓の外は静かな夜で、村の家々にもぽつぽつと明かりが見える。
母は鍋からスープをよそっていた。野菜の香りと焼いたパンの匂いが、部屋いっぱいに広がっている。木の食卓には三人分の食器が並び、何でもない夕餉の光景がそこにはあった。
だが、ホープの胸の中には、昼間から抱いていた思いがずっと残っていた。
父と剣を交えたこと。
自分が確かに強くなっていると言われたこと。
そして何より、自分が騎士になりたいのだという気持ち。
席についたホープは、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「母さん」
母が振り向く。
「なあに?」
ホープはまっすぐ言った。
「ぼく、騎士になる」
その瞬間、母の手がぴたりと止まった。
父は向かいの席で、静かに座っている。何も言わず、ただホープを見ていた。
母はゆっくりと椀を置き、息子の顔を見る。
「どうして?」
「父さんみたいに」
ホープは少しも迷わなかった。
「守る」
その言葉は短かった。けれど、そこには十二歳の少年なりの真剣さが、まっすぐにこもっていた。
母はしばらく黙っていた。
その沈黙は、怒っているからでも、呆れているからでもなかった。何か大きなものを決めようとしている人の沈黙だった。
やがて母は口を開く。
「ホープ」
声音は、いつもと同じく優しかった。だが、その優しさの奥にかすかな震えがあった。
「大事な話があるの」
ホープは首を傾げる。
「なに?」
母は父を見た。
父はしばらく黙ったまま、やがて小さくうなずいた。
それを見て、母は一度深く息を吸う。
「あなたと私たちは」
言葉を選ぶように、ゆっくりと言う。
「血のつながりはないの」
ホープの動きが止まった。
「……え?」
耳に入った言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
母は続ける。
声は柔らかい。けれど、逃げるような曖昧さはなかった。
「あなたは、私たちの生まれた子ではないの」
ホープの胸がざわついた。
頭の中で何かがうまくつながらない。目の前の食卓も、灯りも、母の顔も、急に遠くなったような気がした。
「どういうこと?」
かすれた声でそう言うと、今度は父が口を開いた。
「ホープ」
その声は静かだった。
「お前は、赤ん坊の頃に、俺が引き取った」
ホープは父を見る。
「引き取った……?」
父は少し目を伏せる。
「そうだ」
「なんで?」
問い返す声は、知らず震えていた。
父は答える。
「守るためだ」
その一言だけでは、何も分からない。
だが、その言葉の重さだけは分かった。
母が、そっとホープの手を握った。
温かい手だった。いつも自分の額を撫でてくれた手。転んだときに手当てをしてくれた手。眠れない夜に、背をさすってくれた手。
「でもね」
母は優しく言った。
「あなたは私たちの子よ」
その目にうっすらと涙が浮かんでいた。
「ずっと、大事な子」
ホープは何も言えなかった。
頭の中は混乱していた。
自分は父と母の本当の子ではない。
では、自分は誰なのか。
どこから来たのか。
なぜ守るために引き取られたのか。
質問は無数に浮かぶのに、どれ一つ口にならない。
父も母も、目の前にいるのに、今までと少し違う存在に見えてしまう。それが怖かった。
けれど同時に、母の手のぬくもりは確かだった。
父がここにいることも、母がここにいることも、今まで自分を育ててきた日々も、全部本物だった。
そのときだった。
ガン!!
ガン!!
外から、激しい鐘の音が響いた。
非常警報。
三人の空気が、一瞬で変わる。
父が立ち上がる。
その表情は、ついさっきまで食卓についていた父親のものではなかった。闘神に仕える騎士の顔だった。
「神だ」
短い一言で、母の顔から血の気が引いた。
父は壁に立てかけてあった剣を取り上げる。
鞘走る音が、やけに鋭く部屋に響いた。
ホープも反射的に立ち上がる。
「父さん」
父が振り向く。
ホープは言った。
「ぼくも行く」
その言葉に、父は即座に首を振った。
「駄目だ」
「でも!」
声が裏返る。
十二歳の少年がどれほど強く願っても、それが戦場に立てる理由にはならない。頭では分かっていた。だが心が拒んだ。
父はホープのそばへ来ると、その肩にしっかりと手を置いた。
「ホープ」
声は優しかった。
「お前は」
父の目が、母へ向く。
「ここにいろ」
ホープの瞳が揺れる。
反論したい。
行きたい。
父のそばにいたい。
自分だって守りたい。
その全部が胸の中で渦を巻く。
だが父は、静かに続けた。
「母さんを守れ」
わずかに笑う。
「それも騎士だ」
ホープは息を呑んだ。
母を守ること。
家に残ること。
それが戦うことと同じだと言われて、何も言い返せなくなる。
父は扉へ向かう。
ホープの喉が詰まる。
「父さん!!」
叫ぶように呼んだ。
だが父は振り返らなかった。
扉が開き、夜の冷たい空気が流れ込む。
次の瞬間には、父の背中は外へ消えていた。
⸻
ホープはじっとしていられなかった。
母のそばにいなければならない。そう言われた。分かっている。けれど、鐘の音と外のざわめきは不安を煽り続けた。叫び声、地響き、何かが砕ける音。村全体が揺れているようだった。
母も青ざめた顔で立ち尽くしていた。
ホープは母の手を握った。
「母さん……」
母は我に返ったようにホープを見る。
その目には恐怖が浮かんでいたが、それでも気丈に微笑もうとした。
「大丈夫」
だが、その声は少し震えている。
外から、再び大きな音が響いた。
窓がびりびりと震える。
ホープはたまらず扉へ駆けた。
「ホープ!」
母が呼び止める。
けれどホープは、扉を少しだけ開けて外を見た。
夜空が不気味に光っていた。
村の外れ――父が向かった方向だ。
いてもたってもいられず、ホープは走り出した。
「待ちなさい!」
母の声が背中に飛ぶ。
だが足は止まらなかった。
息を切らしながら村の外へ向かう。
冷たい夜気が肺に刺さる。胸が苦しい。怖い。けれど、それ以上に父のことが気がかりだった。
村の外れに辿り着いたとき、ホープは目の前の光景に息を呑んだ。
そこには、黒い神が降りていた。
闇をまとったようなその姿は、人の理解を拒む威圧感に満ちていた。顔立ちすらはっきりしない。ただ、その全身から流れ出る破壊の気配だけが、圧倒的にそこにあった。
騎士たちが前に立っている。
その中心に、ホープの父がいた。
剣を抜き、神を睨み据えている。
黒い神が、嘲るように笑う。
「人間が」
その声は低く、耳にまとわりつくように不気味だった。
「神に刃を向けるか」
父は一歩も引かない。
「ここは」
剣を構える。
「闘神様の土地だ」
その言葉には迷いがなかった。
たとえ相手が神であろうと、自分が立つ場所はここだと決めている者の声だった。
神は、面白がるように首を傾ける。
「だからどうした」
次の瞬間、神力が落ちた。
轟音。
空気そのものが爆ぜたかのようだった。地面が揺れ、土が跳ね、騎士たちの体が衝撃で吹き飛ばされる。
ホープは目を見開く。
何が起きたのか、一瞬では理解できなかった。
父は倒れなかった。
いや、倒れるより先に突っ込んでいた。
神へ向かって駆ける。
剣が閃く。
人が神に抗う一撃。
その光景は、無謀であるはずなのに、ホープにはひどく美しく見えた。
父は本気で戦っていた。
守るために。
この土地を。村を。家族を。
だが、神の力はあまりに圧倒的だった。
黒い神が腕を振るう。
ただそれだけで、見えない塊に殴りつけられたように、父の体が宙を舞った。
「――ッ!」
父は地面に叩きつけられ、土煙が上がる。
ホープの喉から、引き裂かれるような叫びが飛び出した。
「父さん!!」
神がゆっくりと父へ近づいていく。
その手が持ち上がる。
再び神力が集まり始める。
だめだ、と思った。
間に合わない、と。
そのときだった。
空が震えた。
ドン――
世界そのものが重くなるような圧が降ってくる。
黒い神の顔が初めて明確に歪んだ。
空から、一つの影が降りてくる。
圧倒的な神力。
黒い鎧。
戦場の空気すら支配する存在感。
闘神だった。
その姿を見た瞬間、騎士たちの間に安堵と熱が走る。
闘神は一切の無駄なく剣を振るった。
一撃。
それだけだった。
黒い神の体が大きく裂かれ、吹き飛ぶ。
戦いは、あまりにも一瞬で終わった。
だがホープの目には、その勝敗などほとんど入っていなかった。
父だ。
ホープは地を蹴って走った。
騎士たちの制止も聞こえない。土に膝をつき、倒れた父の体を抱き起こす。
「父さん!」
血が流れていた。
温かい血だった。手に、服に、べったりとつく。
父の目が、ゆっくりと開く。
「……ホープ」
その声を聞いただけで、胸が張り裂けそうになる。
「死ぬな」
ホープは泣いていた。涙が次々にこぼれ、視界が滲む。
「父さん、死ぬなよ……!」
父はかすかに笑った。
その笑みは弱々しかったが、どこか安心したようでもあった。
「……聞け」
声はもう、ひどく弱い。
ホープは必死に顔を近づけた。
父は途切れそうな息の合間に言う。
「お前とは……血のつながりはない」
ホープの胸が痛んだ。
さっき聞いたばかりの事実が、こんな瞬間にもう一度突きつけられる。
だが父は、次の言葉でその痛みを全部塗り替えた。
少しだけ笑って、ホープの胸に手を置く。
「だが」
「お前は……俺の息子だ」
涙が、ぽたぽたと父の手に落ちた。
ホープは声にならない声を漏らす。
苦しくて、悲しくて、どうしようもなかった。
父はさらに何か言おうとした。
「騎士に……」
その先は言葉にならなかった。
手から力が抜ける。
ホープの胸に置かれていたその手が、ゆっくりと落ちた。
「父さん?」
返事はない。
「父さん」
もう一度呼ぶ。
動かない。
「父さん!!」
叫んでも、父はもう何も答えなかった。
その瞬間、ホープの世界が崩れた。
闘神に仕える騎士。
強くて、優しくて、自分の目標だった父。
剣を教えてくれた父。
頭を撫でてくれた父。
笑ってくれた父。
そのすべてが、自分の腕の中で、静かに途切れてしまった。
ホープは父を抱きしめた。
声を上げて泣いた。
周囲に誰がいるのかも、闘神が何をしているのかも、もう分からなかった。自分の世界には、冷たくなっていく父の体しかなかった。
どれほど泣いたのか分からない。
やがて嗚咽の中で、ホープはゆっくりと顔を上げた。
視界の先に、父の剣があった。
闘神の騎士の剣。
父が命を懸けて握っていた剣。
ホープは震える手で涙を拭った。
頬は濡れ、呼吸は乱れたままだった。けれど、目の奥に宿るものだけが変わっていた。
「……ぼく」
かすれた声で言う。
「騎士になる」
それは、憧れから口にした言葉ではなかった。
子どもの夢ではない。
喪失の痛みの中で、なお捨てられなかった願い。
いや、父の死によって、初めて本当の形を持った誓いだった。
ホープは拳を握りしめる。
「守る」
父が守ろうとした土地。
父が守ろうとした村。
父が守ろうとした人たち。
そして、母を。
自分を育ててくれたすべてを。
ホープは父の亡骸を抱いたまま、静かに続けた。
「父さん」
涙がまた落ちる。
「ぼくが守る」
その夜。
十二歳の少年は、父を失った。
同時に、憧れではない本物の決意を、その胸に刻みつけた。
騎士になる。
父のように。
いや、父が命を懸けて繋ごうとした想いを受け継ぐ者として。
その夜、少年はただ泣く子どもではなくなった。
悲しみの中で、確かに騎士になることを決めたのだった。




