第30話:繋がれた手
パソナ館を後にした三人は、大屋根リングの下を歩き、スペイン館の方向へと向かっていた。右に曲がればすぐ目的地、というところで、璃奈がくん、と鼻を動かし、ふらふらと左手にある飲食スペースへと吸い寄せられていく。そこは、『TECH WORLD』のフードコーナー、『神農生活 TECH WORLD 万博期間限定店』だった。
「あれー?すごくいい香りだと思ったら、これって台湾の料理じゃない!パビリオンの一覧に台湾はなかったのに……」
璃奈の視線の先には、『神農生活ルーローハン』と『台湾ソーセージ豚まん』の美味しそうな写真が並んでいる。ここは2025年当時、諸般の事情がありながらも、その魅力を世界に示したいという熱意から、『玉山デジタルテクノロジー社』が出展したパビリオンだ。
「ちょうどお腹も空いてきたし、買って行かない?私はルーローハンと豚まんにする!」
「いいね!アイラもお腹すいたよね、遅くなってごめんね。アイラは何を食べる?」
「うん、問題ないわ。そうね……あまりたくさんは食べられないから、台湾ソーセージ豚まんにするわ」
「オッケー!じゃあ僕が買ってくるから、二人とも、あそこのベンチで待ってて」
要はルーローハン2つと豚まん3つを注文し、出来上がりを待つ間、店内に並べられた商品を見て回る。
(あ、刀削麺だ。動画で見たことある!沸騰した鍋に向かって、生地の塊をシャッシャって削って入れるやつ。台湾の料理だったんだ。このグラスも可愛いな。……あれは何だろう)
棚の端、大きな透明ケースの中に、真っ赤なブタの人形が大量に詰め込まれているのが見えた。
(何だこれ?ブタ?台湾のお店みたいだし、後で日向さんに聞いてみようかな。……でも、『日向さん』って呼び続けるのも、そろそろ変かな。もうトリオの仲間なんだし、短い名前で呼ぶべきだよな……。アイラは『璃奈』って呼んでるけど……璃奈さん?……璃奈?)
誰もいない店内で、要はガラスケースに映る自分を見ながら、声に出さずに彼女の名前を呼んでみる。途端に、ぶわっと顔に熱が集まった。
(……よし。次から、璃奈さんって呼んでみよう)
熱く火照った顔を、彼は手でぱたぱたと扇いだ。しかし、「ひなたさん」が「りなさん」に変わっても、一文字しか短くなっていないことには、全く気づいていない。
* * *
「お待たせー」
商品のサイズの割にやけに大きな箱を5つ、大道芸のように抱えながら、要がそろりそろりと戻ってきた。
「はい、じゃあ、アイラは豚まんね」
「はーい、ありがとう。箱、大きいわね(笑)」
アイラに手渡し、次に璃奈に向き直る。要は、自分の胸がドクンと鳴るか鳴らないかの、その刹那に、一気に言葉を続けた。
「はい、璃奈さんはルーローハンと豚まんね」
その言葉に、璃奈はハッと息を呑み、大きく目を見開いた。
「えっ!あ……ありがとう!ほんと、箱、大きい(笑)」
――台湾の病院。静かな病室で横になる少女の心臓が、「ドクン」と、確かに一度、大きく波打った。
そこからの璃奈は、いつもにも増して饒舌だった。
「このルーローハン、台湾の屋台でよく食べてた味にそっくり!」「豚まんのソーセージ、やっぱり少し甘い味付けなんだね!うん、そうだったそうだった!」「あっ!『TECH WORLD』って、頭文字が『TW』じゃない!これって台湾のことだったんだ!」「『玉山デジタルテクノロジー』って……どこかで聞いたことがあるような……玉山……TAMAYAMA……TMYMDT……!」
立て板に水のごとく喋り続ける璃奈を見て、アイラがニヤリと笑う。
「ねぇ、璃奈。そのルーローハン、ひとくち頂戴」
「うん、いいよ。はい、アーン」
「パクリ。もぐもぐ……うん、美味しい!アーンしてもらったから、美味しさ倍増ね!要もアーンしてもらいなさいよ、美味しいわよ」
「ななな、何を言ってるんだアイラは!だいたい、僕と璃奈さんは同じものを食べてるんだから意味ないじゃないか!違うものを食べてるなら、まだしも!」
「ふぅん、そう。じゃあ、次は違うものを注文するのがいいわね」
アイラの完璧な誘導に、要はぐうの音も出なかった。
* * *
食事を終えた三人は、大屋根リングを挟んで向かい側にある、スペイン館の巨大な階段の下にいた。あたりがゆっくりと暗くなっていく中、要が最初に数段ほど上ると、ステップの段差が不規則だということに気づく。
振り返って「段差が不規則だから気をつけて」と、そう言いかけた瞬間だった。
「きゃっ!」
アイラが、その不規則な段差に足を取られ、前へと大きく体勢を崩す。咄嗟に、要がその小さな体をぐいと引き寄せ、抱きかかえるように支えた。
「うわーっ!危なかった!アイラ、怪我してない?」
驚きで大きく見開かれた瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「うん、大丈夫……。でも、この階段、ちょっと怖いわね。要、手を繋いでくれる?」
要は、アイラの震える小さな小さな手をとり、安心させるように、しっかりと握った。
その瞬間、アイラの時間が、ほんの少しだけ止まった。
アルスラーンと手を繋ぐのとは、全く違う。柔らかくて、温かくて、それでいて、自分を守ってくれるような力強さがある。アルスラーンと暮らし始めてから、ほとんど経験したことのなかった、生身の人間の温もり。
胸の奥が、きゅっ、と甘く締め付けられるような、初めての感覚。アイラの健康的な小麦色の頬が、ほんのりと赤く染まった。
「ありがとう。これで安心。……危ないから、璃奈も繋いでもらいなさいよ」
「……っ!……こっちも、お願いします」
アイラの完璧な助け船に乗り、璃奈も顔を真っ赤にしながら、そっと手を差し出す。先ほどアイラを助けた時のドキドキがまだ胸に残っていたせいか、要は不思議と緊張することなく、その小さな手を優しく握った。
「じゃあ、ゆっくり行こう。二人とも、気をつけてね」
フラメンコのステージがある最上段までの道のりが、璃奈には、永遠に続くかのように長く、長く感じられた。
* * *
アイラが、どこか満足げに呟く。
「つまり、素人は黙って見ていろということね」
「ふふ、言葉は悪いけれど、まあ、そういうこと」
「なるほど。経験者でもないのに曲に合わせて手拍子をすると、踊り手の手拍子の妨げになるから良くないと。確かにその通りだ。手拍子は演目が終わってから、盛大にパチパチすることにしよう」
璃奈によるフラメンコ観覧時のマナー、『観客は手拍子をしないこと』を学んだアイラと要は、ショーが始まるのをいまか今かと待っている。
「まあ、私も本場のフラメンコを見るのはこれが初めてなんだけどね。実体験の伴わない、頭でっかちな知識なのよ(笑)」
やがて、ステージに情熱的なギターの音色が響き渡り、ショーが始まった。
激しく、そして優雅にステップを踏む踊り手たち。魂を絞り出すかのように歌い上げる歌声。その全てが一体となり、観客を魅了していく。
あっという間に、情熱的な時間は終わりを告げた。
「歌も楽器も、足で床を踏み鳴らす音も、すごく大きな音が出るのね!驚いたわ!」
「女性も男性も、踊り手がすごくセクシーだったわ!」
「ストーリーはよく分からなかったけど、民族が持つ魂の力強さみたいなものを、強く感じたよ」
三人は興奮冷めやらぬまま、感想を言い合った。
* * *
「では、お二人とも、お手をどうぞ」
すっかり夜の闇に包まれた巨大な階段を降りるため、要が率先してアイラと璃奈の手を『きゅっきゅっ』と握る。
「気をつけて。ゆっくり降りよう」
階段にはLEDの装飾が埋め込まれているものの、それだけでは足元がおぼつかない。アイラが一足先に無事に階段を降りきった、その時だった。璃奈が、最後の一段を踏み外してバランスを崩した。
咄嗟に、要が璃奈の体をぐいと引き寄せ、抱きかかえるように支える。璃奈の髪から、ふわりと甘いシャンプーの香りがした。その香りに気を取られていると、璃奈の体がぐっと寄りかかってきて、思った以上にずっしりとした重みが腕にかかる。要はぐっと腰を落とし、璃奈を倒すまいと、その体を力強く支えた。
「うわーっ!今度は璃奈さん!危なかった!怪我してない?」
「……うん、大丈夫。ごめんね。私、重かったでしょう?」
「いや、そんなことないよ。……アイラよりは、重かったけど(笑)」
「もうっ!」
要の照れ笑いと、璃奈の恥ずかしそうな笑い声、そしてアイラの楽しそうな笑い声が重なって、夜の闇に温かいハーモニーを描いた。




