第99話 フィーレンス教授の独白(2)
初日はあの後、全員で秋津の古文書に群がって一日が終わった。奴らは密林の人喰い魚に似ている。餌を沈めると恐ろしいほどの勢いで食いつき、骨も残さない。
恐ろしい。非常に恐ろしい魔窟に来てしまった。そして、ここに足を踏み入れたのは大きな過ちだった。奴らは魔法陣の情報など何も持っていないではないか! そして現在この国に残された偽書の所有者は、あのアルブレヒト伯だという。謀られた! やはり彼奴があの魔法陣を書いたのか? いや、迷い人はあの子供のほうだ。そっちか? しかしどうも利発そうには見えない。アルブレヒト伯はフェンケ姉上の孫に当たるらしいから、やはりあの男であろうな。気弱そうな見た目をして、とんだ狐であったわ。
一日目は秋津語に食いついた魚どもであったが、翌日からはまた盛んに「実演しろ」だの「説明しろ」だのと群がってきた。こういうのは初手が大事だ。一発ぶちかましておかねば。
「私が約束したのは監修だ。一から十まで全て答えを教えてもらおうなどと、貴殿らはそれでも研究者か!」
「「「なにーーーッ!!!」」」
人喰い魚どもはビリビリと雷に撃たれたかのように打ち震えた。
「私は貴殿らに『古代秋津文字』という大きなヒントを与えた。見事自ら答えを導き出してみせよ!」
「「「魔導伯!!!」」」
よしよし、うまくいった。後は奴らが黙々と魔法陣と睨めっこしている間に、グレートポッポーズ四号を編成して秋津に向かわなければならない。しかし、
「魔導伯! ここは「カ」ですかな?」
「いやここは「へ」なのでは!」
「何を言うか! こことここを繋げて「ファー」に決まっているだろう!」
「「「ですよね魔導伯!!!」」」
「いやっ、そのっ、そこは貴殿らで確かめる場面であって」
「そういえば、そもそもあの水属性のウォーターの噴霧ですぞ。光属性とともに汚れに食い込んで引き剥がす。そのメカニズムとは?」
「うぇっ」
「そうですぞ! その上、対象に付着していたと思われる不純物は一体どの段階でどこへ? 私は火属性の部分で焼却すると踏んでおりますが!」
「いやいやそこは風だろう!」
「あのそれは」
「まぁまぁ皆さん、一度に訊かれてはフィーレンス魔導伯も困ってしまいます。ね、魔導伯?」
「あっはい」
「というわけで、毎日輪番で魔導伯の研究室にお邪魔するというのはどうでしょうか!」
「「「おお〜〜〜」」」
パチパチパチ。
なんだか私の意思を介さぬ方向で話がまとめられてしまった。人喰い魚どもが「さすがセルバンテス伯」「次期魔術師団長は格が違う」「リーダーシップに長けておりますな」などと口々に褒めそやす中、伯は私に向かって小声を放った。
「これで大丈夫です。一度に来られると困ってしまいますよね?」
いや、「これで大丈夫」ってなにそれ。一度に来られても困るが、毎日来られたらもっと困る。大丈夫な要素が寸分も見当たらないのだが、その自信に満ちたドヤ顔は何を根拠に。
それから私は、とにかく「自分で調べろ」「安易に答えを聞こうとするな」「そこから先はエルフの極秘事項なので教えられない」の三種の神器を武器に、迫り来る人喰い魚たちと戦った。だって魔法陣の仕組みなんて、言ってしまえば単純だ。後はどれだけその単純なしくみを上手くごまかし、中身を悟られないようにするか。だってそれが魔法陣なのだから。
しかし彼奴らとて腐っても人類最高峰の魔術師集団、一人一人が非常に緻密なレポートを手に日替わりで襲いかかってくる。しかも全員がクリーンをマスターしているのだ。
ちょっと待て。クリーンといえば、我らエルフ族においてかなり高度な秘術だ。あまりに難解ゆえ、過去それをマスターした者は一握り。結果として秘術となってしまった曰くつきのスキルだ。それを、精緻な魔力操作に、完璧な時間差発動で。しかも恐るべき魔力消費量の低さ。もうお前たち、伝説の先人を超えちゃってると思うんですけど。一体これ以上、何を知りたいというのか。
私が毎日早朝から深夜まで魚の襲撃に遭っている間、当のセルバンテス伯は事務室でのうのうと会計業務に携わっている。確かにあちらはあちらで激務なようだが、もとはといえば魔法陣は彼奴主導で研究を進めていたはずだ。ここはひとつ、本来の責任者に話を戻すとしよう。
しかし私の野望はあっさり打ち砕かれた。
「いやぁ、私はもともと地方の徴税官で、宮廷魔術師ではなかったんですよ」
頭をぽりぽりと掻きながらへらへらと笑う魔導伯。いやお前は魔導伯じゃないか。聞けばとある寒村に立ち寄った際、たまたま口伝で得たのが「シュッとしてファー」ことクリーンだったというだけで、彼自身は魔術師でも何でもなかった。そして「シュッとしてファー」の研究のために王都に連れて来られ、知らない間に魔法陣の研究者に据えられていたとのこと。ちょっと何を言ってるか分かりません。
しかしはっきりしたのは、彼奴は魔法陣の解読について何一つ助けにならないこと。そして、人喰い魚たちの矛先を再び彼に向けることは不可能なこと。
「私には、会計業務の方が性に合ってますから」
そう微笑んだ彼の手元には、ドロドロの液体でくすんだ紙片があった。しかもモヤモヤとドス黒い魔素が蠢き、そこはかとなく危険な香りがする。
「本当に厄介ですよねぇ。クリーンを掛けると文字まで消えちゃうから、使えないんですよ」
そこで私はやっと気付いた。彼の目元には、最初から濃いクマが浮かんでいた。しかし彼だけではない。この部屋に在席する官吏全員が、まるで生気のない顔色、抜け落ちた表情をしている。そればかりか、小刻みに揺れる手元や足元。そして口元からひそかな囁き。
「……シテ……コロシテ……」「モウヤダ」「カエリタイ」「ウフフフ、ターノシー」「ナカマニナレ……」
ひそひそ、ひそひそと充満する狂気。
「ヒッ! よ、用事を思い出した! 失礼する!」
私は丸椅子から飛び上がり、事務室から走り去った。あそこはいかん。危険だ。人喰い魚の比ではない。
「ところでこれ、よく見たら古代秋津文字で「ウォーター」「ライト」「ファイア」「ウィンド」って書いてありませんか?」
ある日、セルバンテス魔導伯がクリーンの魔法陣を見て、そう言った。
「何を言うかセルバンテス伯。この魔法陣がそんなに単純なわけがないだろう!」
「魔術の深淵の粋を極めた魔法陣が、そんな子供の落書きのような。ねえ、フィーレンス魔導伯?」
「あ、ああ。当然だ」
本当だ。確かに「ウォーター」「ライト」「ファイア」「ウィンド」って書いてある。私はただ古代秋津文字っぽいな〜と思っていただけだったが、まさかそれが本当だったとは。彼はあの事務室で、魚たちが書き殴った読めない書類を解読するエキスパートらしい。もしかしたら、本当に彼が魔法陣解読の糸口を見出すかもしれない。
しかし、生活魔法の名称だけで精密な魔力操作が行使されるとは思えない。絶対、まだ隠された要素が眠っているはず。おのれアルブレヒト伯め、今度会った時には絶対に内容を吐かせてくれる。




