第95話 セルバンテス魔導伯の回顧録(3)
シュッとしてファー地獄は、王都到着後1ヶ月ほど続いた。意外というか予想通りというか、宮廷魔術師たちがクリーンを習得するまでにはかなりの時間を要した。彼らの分析によると、このシュッとしてファーというスキルは、術式を読み解いて理解しようとすると恐ろしく複雑で難解なものだという。村で会得した時も、私が一番最後だった。下手に魔術の知識があると、先入観があって習得の邪魔になるらしい。
外国語と同じだ。大人になってから新しい言語を習得しようとして、文法だの人称だの気にしていたら何年経っても身につかない。臆することなく片言からしゃべり始める赤子の方が、ずっと話すのが早いものだ。
そんなことを考える余裕が、私にもできた。なぜなら宮廷魔術師団、通称「塔」と呼ばれる魔法省の面々が、ついにシュッとしてファーを習得したからだ。やっと私はお役御免となった。もうあの「もう一度見せてみたまえ」は聞きたくない。今でも夢に見る。
しかし今は冬。ドイブラーを含む王国北西デルブリュック公爵傘下の地は、雪に閉ざされている。馬車での移動は難しい。私は春まで王都に籍を置かれることとなった。何もせずに給金を得るのは申し訳ないので、何か仕事がないかと申し出たところ、徴税官をやっていたなら会計業務はどうかと勧められた。ありがたい。一人黙々と数字と向き合うのは嫌いではない。
——それが次の地獄への扉だった。
魔術師から上がっていくる書類という書類が、およそ人類に判別できるような代物ではなかった。彼らは相手に意思疎通や情報伝達を行うという意思がない。大抵ミミズののたくったような何か、良くて数字だけを羅列した何か。薬剤や埃にまみれ、ちぎれ、黒ずみ、そして日付けは何年も前のもの。更に「領収書? なにそれ美味しいの?」だ。みなが天才である余り、人としての何かを全て魔術の才能に全振りしている。そのくせ、不備で突っ返したら「君はこの国の魔術の発展を阻む気か」と血相を変えて怒鳴りこんでくる。ゴネる機能だけは失っていないようだ。
「ははっ。セルバンテスさんが来てくれて、本当に良かった」
目のクマがすごい。「塔」の文官たちは、みんな瀕死だ。先日まで1ヶ月「シュッとしてファー」を繰り返していた私の比ではない。一体何ヶ月、いや何年こんな理不尽に揉まれているのか。
彼らは教えてくれた。魔術師から上がってくる書類は、みんな暗号だと思えと。
「ケラー師のアルファベット表はこちらです。直線にもいくつか種類がありますので、よく見比べてくださいね。スペルミスが酷いですので、推理力が大事です」
「数字ばっかりなのがキーンツル師です。彼は購入する薬剤がほぼ一定なので楽勝ですよ。こちらが薬剤の価格表なので、何をいくつ買ったのか逆算します。ちょっとしたパズル感覚です」
「あ、それからそのクラインベック師の書類には気をつけてください。たまに劇薬が掛かってて、皮膚が爛れ落ちることがありますから」
「ヒッ!」
ちょうど書類を手にしていた私は、裏返った悲鳴とともに投げ捨てた。殺傷力のある書類とは、一体。
魔導王国コルネリウス。ここでは魔術師の地位が高い。支払いの書類を受け付けないと、彼らは今度は財務省まで乗り込んでいく。そして財務省の連中も巻き込まれたくないから、そのまま事務方に舞い戻る。宰相から「良きに計らうように(俺たちを面倒ごとに巻き込むな払ってやれ)」との小言付きで。からの、暗号解読と翻訳書類作成の日々。もちろん、年をまたいだ請求書については帳簿改竄のおまけつきだ。
宮廷魔術師。彼らは有事の際には一騎当千の働きをして、幾度となく国難を退けてきた。よって貴族より崇敬を集め、また実際に爵位を持つものもいる。しかし彼らは別の意味でもモンスターだ。いっそ人類よりも魔物に近いと言われても、誰も異論はないだろう。
かつて私は、己の魔術の才のなさを嘆き、優れた者たちを妬んだものだ。王都の文官採用試験は文官を目指す者にとって登竜門、しかも「塔」へ配属など、花形も花形だ。しかし、狭き門を突破した秀才たちの成れの果てがこれである。事務室の中は死屍累々。土気色をした文官たちが、時折独り言をつぶやきながら机に向かってゆらゆらしている。ここはアンデッドの巣窟だろうか。
一体私はどうしてこんな魔窟に足を踏み入れてしまったのか。ドイブラーでの徴税官だったあの頃、私は確かにこの上なく幸せだったのだ。同僚の奇声に耳を塞ぎながら、私は手元の解読表を頼りに、次の暗号解読に取り掛かった。




