零度の怒り
「旦那様至急の早馬です。伯爵家からの親書で宛名がレティシア様となっております」
執事が銀のトレイに載せて差し出した封書には、雑に押し付けられた伯爵家の蝋封がある。
レティシアが受け取り、封を切って目を通す。
手紙を追うごとに、彼女の整った眉が引き結ばれ、顔から血の気が引いていく。
『愚かな娘へ。 お前が勝手に出て行ったせいで領地の税申告と帳簿が滞っている。妹ロザリーも朝食の不味さに寝込んだ。 これほどの迷惑をかけるとはどこまで恩知らずな娘だ。 大至急、同封した数年分の収支報告書を計算し直して返送しろ。できなければ公爵家に恥を晒した罪で勘当する』
身勝手極まりない、恫喝と命令の数々。
追い出したのは自分たちであるにもかかわらず、困ったとなれば当然のようにレティシアを利用しようとする厚顔無恥さに、乾いた息を吐いた。
胸の奥が冷たく締め付けられる。
長年刷り込まれてきた恐怖が蘇りそうになる。
横から大きな手が伸びてきた。
「見せてみろ」
ギルバートがレティシアの手から手紙を抜き取る。
手紙に視線を落とした瞬間、氷青色の瞳が細められた。
室内の空気が一瞬で氷点下まで下がった。
ギルバートから放たれる凄まじい威圧感と冷気が、青白い火花となって執務室の窓ガラスを鳴らす。
普段なら痛みに苦しんで漏れ出る魔力だ。
いま放たれているのは絶対零度の怒りだった。
控えていた執事がたまらず後ずさりして息を呑む。
だが、その暴風のような魔力は不思議とレティシアの身体だけを柔らかく避けていた。
ギルバートが、無意識に彼女を傷つけないよう制御していたのだ。
「なるほどな。恩知らず下女同然の役立たず」
ギルバートの低く冷徹な声が、凍りついた執務室に響く。
「俺の頭痛を消し去り、一夜にしてこの執務室の書類を完璧に整理した我が妻をあの下劣な男は役立たずと呼ぶのか」
手紙が握り潰される。
掌を開くと、炎が燃え上がり手紙は一瞬にして灰となって床に散った。
「閣下」
驚くレティシアに、ギルバートは静かに歩み寄る。
その表情からは先ほどの怒りの気配が消え、不器用な痛ましげな色が瞳に宿っていた。
「レティシア。お前が気にする必要は欠片もない。こんな紙屑に二度と心を痛めるな」
ギルバートは大きな手を伸ばし、レティシアの華奢な肩にそっと触れた。
触れられた場所からじんわりと温かい体温が伝わってくる。
「お前はあの家の人間ではない。我がアルデンツィ公爵家の人間だ。俺の目の前でお前を搾取することも傷つけることも許さん」
「閣下」
誰かに庇われ、理不尽から守られることなど生まれて初めてだ。
レティシアの胸の奥底で、凍りついていた孤独の殻が崩れていく。
目頭が熱くなり、溢れそうになる涙を必死に堪えた。
ギルバートは執事に向き直ると、冷徹な声で矢継ぎ早に命令を下した。
「セバスチャン」
「はい」
「王都の一流の仕立て屋と宝飾商を全員この屋敷へ招集しろ。レティシアに最高級のドレスと日用品を揃えさせる。屋敷で一番日当たりの良い部屋を彼女の私室として改装しろ」
「かしこまりました」
ギルバートの瞳に獲物を狙う肉食獣のような鋭利な光が宿った。
「王都の財務省と監査局にいる息のかかった者たちへ連絡を入れろ。伯爵家の過去五年分の帳簿、領地運営の実態を徹底的に洗え、と。レティシアひとりに隠蔽させていた杜撰な経営と横領の証拠をすべて白日の下に晒してやる」
情け容赦のない破滅への包囲網。
ギルバートは、レティシアが苦しめられてきた年月の分だけ、利子をつけて実家に叩き返すつもりだ。
「レティシア」
ギルバートが再びレティシアを見つめ困ったように眉尻を下げた。
「あの実家がどうなるかお前は気にするか」
レティシアは胸元の銀のペンダントに触れながら澄み切った声で答えた。
「いいえ。私は前を向いて生きていきたいと思っております。閣下の隣でこの場所を私の居場所にしたいのです」
「そうか」
ギルバートの口元に、生まれて初めてと言っていい、極上の笑みが浮かんだ。
「ならばすべて俺に任せておけ」
身代わりとして捨てられたはずの花嫁は、北の果てで最強の守護者を得た。
王都の伯爵邸には、監査局の役人たちが一斉に踏み込もうとしていた。




