幕間 残された者たちのパニック
レティシアを厄介払いができた北の公爵領へ追いやった翌朝。
伯爵邸の朝はいつもとまるで違う不快な静寂に包まれていた。
「お腹が空いたわ」
優雅にレースのネグリジェをまとったロザリーがあくびを噛み殺しながら食堂へと現れた。
テーブルの上には白いクロスが敷かれているだけで、焼きたてパンも、スフレオムレツも、香り高い紅茶も用意されていない。
「ちょっとレティシア。いつまで寝坊しているのよ、朝食を持ってきなさい」
甲高い声で怒鳴りつけるロザリー。
返事はない。静まり返った廊下に後妻である母親が苛立ちを隠せない様子でやってきた。
「ロザリー、騒いではしたないわよ。あのみすぼらしい下女はいったいどこをほっつき歩いているのかしら」
「お母様、昨日北の化け物公爵のところへ追い払ったじゃない」
「そうだったわね。せいぜいあちらで凍え死ねばいいわ。誰でもいいから朝食の支度をしなさい」
母親が鈴を鳴らして呼びつけたのは、わずかな給料で雇い入れたばかりの不慣れな若い下働きだ。
慌てて運ばれてきたのは、中まで火の通っていない生焼けのパンと、焦げ付いて苦味の強い卵料理。
紅茶は渋くてとても飲めたものではない。
「何よこれ。泥水じゃないの、こんな不味いもの食べられるわけないわ」
ロザリーがティーカップを床に投げつけ激高すした。
「いつもあいつが作っていた、美味しいオムレツと身体がすっきりするハーブティーはどうしたのよ」
「そんなことを言われましても。お料理はすべてレティシア様がお一人で、特殊な香草を調合して仕込んでおられたました。私どもにはとても真似できません」
震える下働き。
料理も、掃除も、屋敷のすべての快適さはレティシアが早朝から身を粉にして整えていたから成り立っていた。
安給料の下働きたちにそれが務まるはずはなかった。
「もういいわ、外で食べるからお父様にお金をもらうわ」
ロザリーが言った瞬間。
食堂の重い扉が、乱暴に跳ね飛ばされた。
立っていたのは、血相を変えた父親だった。
その手には、ぐしゃぐしゃになった数枚の羊皮紙が握りしめられていた。
「おいレティシアはどこだ。あいつはどこへ行った」
「あなた、朝からみっともないわよ。あの役立たずなら昨日、ロザリーの代わりに北の公爵領へ送り出したじゃありませんか」
「馬鹿な、なぜ止めてくれなかったんだ」
父親が頭を抱えて叫び声をあげる。
貴族としての威厳などない、あまりの取り乱しようにロザリーと母親は目を白黒させる。
「どうなさったのよ、あなた」
「どうもこうもあるか。王都の財務省から税の申告漏れがある。三日以内に是正しなければ爵位の剥奪も視野に入れると最後通牒が届いたんだ。領地の治水工事の予算も作物の収穫報告もどこをどう計算しても帳尻が合わん」
「そんなのお父様が計算して提出すればいいのに」
能天気に言い放つロザリーに父親は青筋を立てて怒鳴り返した。
「できるわけがないだろう。数字の計算も領地運営の書類もレティシアに丸投げしていたんだぞ。あいつが徹夜で辻褄を合わせていたから、この家は持っていたんだ」
「なぜ」
「なんですって」
母親とロザリーが絶句した。 レティシアが夜遅くまで部屋にこもっていたのを、いじけているだけと嘲笑っていた。
自分たちの贅沢な生活と領地のすべてを、レティシアの頭脳が支えていたなど夢にも思っていなかった。
「ど、どうするのよあなた。爵位を剥奪されたら、私のドレスも夜会も全部おしまいじゃない」
「嫌よ。私貧乏人になんてなりたくない」
喚き散らす母娘に、父親は脂汗を垂らしながら爪を噛んだ。
「ええい、こうなったら手紙だ。至急、北の公爵領へ早馬を走らせろ。書類の引き継ぎができていない。いますぐ領地の帳簿を計算して送り返せ。実の父親への恩を忘れたかとな」
自分たちで追い出しておきながら、どこまでも図々しく身勝手な命令。 父親は震える手で手紙を走り書きすると、公爵領へ向けて早馬を飛び立たせたのだった。




