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虐げられていた伯爵令嬢レティシア~身代わりの婚姻~  作者: 春告草


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4/10

目覚めと感情の綻び

小鳥のさえずりとカーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光。


ギルバートがゆっくりと目を開けた瞬間、感じたのは違和感だった。

いつもなら目覚めと同時に全身を苛むはずの焼けるような頭痛がない。

身体の奥で暴れ狂っていた魔力の奔流が凪いだ水面のように静まり返っている。


呆然と周囲を見回す。

自分は執務机の前のソファーに横たえられており肩には温かな毛布が掛けられていた。

時計の針を見れば、朝の8時を回っている。

7時間以上もの間熟睡していたのだ。

物心ついてから、奇跡のような朝は一度たりとも経験したことがない。


部屋の隅に目をやると驚きの光景が飛び込んできた。


朝日を浴びながら、レティシアが手を動かしていたのだ。

昨晩の質素なドレスの裾を少し捲り上げ、床に散らばっていた膨大な書類をテキパキと分類した。

机の上の埃を丁寧に拭き取っている。

雑然としていたはずの執務室は、すっきりと整えられ窓辺には良い香りを放つ薬草の小瓶が飾られていた。


「何をしている」


ギルバートのかすれた声に、レティシアが手を止め振り返った。

その顔には徹夜の疲れなど微塵も見せず春の日差しのような穏やかな笑みが浮かぶ。


「おはようございます、閣下。お目覚めになられましたか、勝手に執務室を片付けてしまい申し訳ありません。領地からの陳情書と魔獣の討伐記録が混ざってしまっていたので緊急度順に仕分けておきました」

「なに」


ギルバートが机に歩み寄り、整然と並べられた書類の山を一瞥した。

緊急度の高い治水関連、防壁の修繕が一番手前に、急ぎではない報告書は日付順にまとめられていた。

完璧な事務処理能力。

並の文官でも数日はかかる分量を彼女はたった一晩で、ギルバートの眠りを妨げないよう音を立てずにやり遂げていた。


ギルバートは言葉を失った。

昨夜のあの不思議な茶といい、領地運営の知識といい、王都から送られてきた泣き虫で我儘な伯爵令嬢という情報と何一つ合致しない。


「お身体の具合はいかがですか。まだ頭痛は残っておいででしょうか」


心配そうに小首をかしげるレティシア。

自分の心配など二の次で真っ先に体調を気遣ってくる大きな瞳に、ギルバートの胸の奥が小さく跳ねる。


「痛みはまったくない。生まれて初めて、こんなに深く眠った」

「よかった、本当によかった」


レティシアは胸に手を当て、心の底から安堵したようにふわりと笑った。

その笑顔が眩しく、嘘偽りがなさすぎてギルバートは思わず目を逸らしてしまう。

周囲の人間から恐れられ遠ざけられ利用されることしか知らなかった、彼は無償の優しさを向けられる経験は初めてのことだ。


「貴様はなぜそこまで尽くす。無理やり身代わりに嫁がされたのだとすれば、俺を恨んで毒を盛ることだってできた」


レティシアは少しだけ困ったように眉を下げ静かに告げた。


「毒など滅相もございません。私は恨んでなどおりませんよ。実家では毎日罵倒され睡眠時間を削られて仕事を押し付けられるだけの日々でした。閣下は私を理不尽に怒鳴ることも殴ることもなさいません。それどころか私が淹れたお茶を信じて飲んでくださった」


レティシアはスカートの裾をつまみ、深々とお辞儀をした。


「私にとって地獄などではありません。救われたのは私の方なのです」


ギルバートの凍てついた心が激しく揺さぶられた。

この少女がどれほどの理不尽に耐え、過酷な扱いを受けてきたのか。

小さな手の甲に残る水仕事の荒れ跡が雄弁に物語っている。


ギルバートの中で、音を立てて溶けていく。

感情を殺していたはずの氷青色の瞳に強い光が宿る。


「レティシア」


初めて彼女の名を呼ぶ。


「お前を、身代わりとして放り出しておくつもりは毛頭なくなった。正式な公爵夫人として屋敷のすべてを委ねたい。これからも俺の隣であの茶を淹れてくれないか」


口下手な彼が絞り出した精一杯の願いだった。

レティシアは目を丸くし、それから花が咲くように嬉しそうに微笑む。


「はい、喜んで。閣下がぐっすりお休みになれるよう毎日腕によりをかけてお茶をご用意いたしますね」


二人の間に柔らかな空気が流れた。

その時、 廊下から青ざめた執事が慌てふためいて駆け込んできた。


「旦那様、大変でございます。伯爵家から至急の早馬が届いております」


実家からの手紙。

レティシアというかねめを失った伯爵家が、破滅への第一歩を踏み出した知らせだった。


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