深夜のハーブティー
案内された客室は、身代わりの花嫁に用意された部屋とは思えないほど広く清潔だった。
実家で与えられていたすきま風の吹き込む屋根裏部屋とは比べものにならない。
ふかふかのベッドに横たわればすぐにでも眠ってしまいそうだ。
レティシアにはまだやることがあった。
トランクから母の形見の手記を取り出し丁寧に包まれた乾燥薬草の小袋をいくつか並べる。
厨房の使用人に頼み込み、夜遅くにハーブを煎じるための小さなポットと湯を借りた。
使用人たちは。
「旦那様は夜分にお茶など召し上がりませんよ」
「怒りを買わなければいいのですが」
おびえていた。
レティシアの穏やかで凛とした態度に気圧され火を貸してくれた。
選んだのは高山に自生する鎮静の青ハーブ、心を解きほぐす白銀の花弁、魔力の昂ぶりを穏やかに中和する星露草。
ポットから、どこか冷涼でありながら甘く澄んだ香りがふわりと立ちのぼる。
レティシアはそれをお盆に載せ、静まり返った廊下を歩いて再び執務室へと向かった。
深夜を回っても、扉の隙間からは青白い光が漏れていた。
控えめにノックする。
「誰だ」
警戒に満ちた低い声。
「レティシアです。昼間お約束いたしましたお茶をお持ちしました」
「入れ」
と短く返答があった。
扉を開けると、そこには昼間と寸分違わず書類と向き合っているギルバートの姿があった。
青白い頬には濃い疲労の色が差しこめかみには痛みをこらえるような青筋が浮かんでいる。
「まだ起きていたのか。毒見も通していない怪しげな茶を飲む気はない」
冷淡に告げるギルバート。
感情を殺した瞳が、警戒するようにレティシアを射抜く。
レティシアは怯えることなく、静かな所作で机の端にカップを置いた。
透き通るような淡い夜空色のお茶から心地よい湯気が立ちのぼった。
「毒など入っておりません。ご警戒されるのも当然ですわね。私が毒見させていただきます」
レティシアは躊躇いなくカップを取り、自らの唇をつけて一口コクりと喉を鳴らして飲んでみせた。
毒見役を自ら買って出る堂々たる態度に、ギルバートがわずかに目を瞠る。
「私の命を賭けて害のないことを証明いたします。閣下どうか一口だけでも召し上がってみてください。今夜だけでもそのお痛みが軽くなりますように」
レティシアの澄んだ瞳には、世間の人々が彼に向けるような恐怖も嫌悪も打算もなかった。
純粋に、目の前の苦しんでいる人を案じる温かな光だけがあった。
ギルバートは無言のまま差し出されたカップを手に取った。
立ちのぼる香りを吸い込んだ瞬間、頭の奥で張り詰めていた神経が緩むのを感じた。
恐る恐る口をつける。
優しい甘みと、胸の奥にすっと染み渡る清涼感。
喉を通った瞬間、四六時中ギルバートの全身を苛んでいた、針で刺されるような激痛がすうっと引いていった。
「これは」
ギルバートの喉から掠れた声が漏れた。
カップを持つ手が信じられないものに触れたかのように震えている。
「いかがですか。少し強張りが解けましたでしょうか」
「ああ」
言い終えるか終えないかのうち、ギルバートの瞼が急速に重くなった。
まともに眠ったことなどなかった。
横になっても激痛で意識が冴え渡り一日に数十分意識を失うように倒れるのが睡眠だった。
それが抗いようのない温かく幸福な眠気が全身を包み込んでいく。
「閣下」
ギルバートの体が傾いた。
レティシアが慌てて駆け寄り、机に倒れ込みそうになった広い肩を両手で支える。
ギルバートはレティシアの細い肩に額を預けるようにして静かに規則正しい寝息を立て始めた。
「よほど、お疲れだったのですね」
氷の冷酷公爵と恐れられる男の、無防備で穏やかな寝顔。
その顔は噂のような怪物などでは決してなく過酷な運命に耐え続けてきた青年の顔だった。
レティシアは机の上の毛布を取り、静かに彼の肩にかけてあげる。
自分が実家で睡眠を奪われ、苦しんできたからこそ痛いほどよくわかったのだ。
レティシアがそっと微笑んだそのとき胸元のペンダントが、ギルバートの残り香のような魔力に反応して、一瞬だけ淡い銀色の光を放った。
気づく者はいなかった。




