氷の公爵との対面
がたごとと揺られる馬車の窓から見えるのは、険しい山々と深い森に囲まれた黒亜の城だった。
王都から数日。
北の果てに位置するアルデンツィ公爵家の領地は、一年を通じて冷たい風が吹き抜け魔獣も多く出没する辺境の地だ。
実家での息の詰まる日々に比べれば、この冷涼な空気さえ心地よく感じられる。
レティシアが小さなトランクを手に馬車を降りる。
数名の使用人と困惑した顔の初老の執事が待っているだけだった。
「ようこそおいでくださいました、花嫁様。質素な装いで」
執事の言葉も無理はない。
伯爵家の令嬢でありながら、レティシアが着ているのは装飾の剥がれかけた地味な古着。
持参金も贅沢な調度品もなく手荷物は粗末な革のトランクがひとつだけ。
実家の父と継母が、身代わりのに持たせるものなどないと切り捨てた結果だった。
「急な縁談でしたので、身軽にしてまいりました。お部屋へ案内していただけますか」
見下されてもおかしくない格好でありながら、立ち居振る舞いは完璧で、その声音には澄んだ気品があった。
執事は一瞬目を丸くしてすぐに居住まいを正して深々と一礼した。
「失礼いたしました。旦那様がお待ちです、執務室へご案内いたします」
静まり返った広大な屋敷を進む。
豪華な造りだがどこか手入れが行き届いておらず、生活感が薄い。
何より、奥の部屋へ近づくにつれて肌をピリピリと刺すような異様な気配が濃くなっていく。
執事が重い扉をノックし、声を震わせ告げた。
「旦那様、伯爵家より花嫁様がご到着されました」
「入れ」
低く温度のない声。
執事に促されてレティシアが足を踏み入れた部屋は、書類と魔道書が山積みにされた薄暗い執務室だった。
机の前に座っていた男を見て、は息を呑んだ。
アルデンツィ公爵。
夜空を溶かしたような漆黒の髪に、鋭い氷青色の瞳。
息を呑むほど整った顔立ちをしているが、表情には人間らしい感情の揺らぎが一切ない。
レティシアが息を呑んだのは彼の美貌のためではなかった。
彼の周囲の大気が青白い光を帯びて微かに歪んでいたのだ。
部屋中に充満する、濃密すぎる魔力の圧。
普通の人なら恐怖で立ちすくみ息苦しさに倒れてしまう密度だった。
魔力過多、身体が耐えきれないほどの魔力を生み出し続け、常に全身を苛まれているという男の姿だ。
ギルバートは書類から目を離し、冷然とした瞳でレティシアを一瞥した。
「伯爵家の娘だな。噂は聞いている。俺を恐れて泣き喚いていたそうだがずいぶんと落ち着いているな」
義妹ロザリーが王都で騒ぎ立てた噂は、すでにここまで届いていたらしい。
だが、ギルバートはレティシアの顔を見ても、書類の娘と違うことに気づく様子もなかった。
彼にとって政略結婚の相手が誰であろうと興味がないのだ。
「はじめまして、ギルバート閣下。レティシアと申します」
レティシアはピリつく魔力の重圧に耐えながら、ドレスの裾をつまみ完璧なカーテシーを返した。
恐怖に怯えることなくまっすぐにギルバートを見つめた。
ギルバートがわずかに眉を動かした。
感情の読めない瞳の奥にほんのわずかな好奇心が宿った。
「俺の魔力に当てられて、震えもしない女は初めてだな。ただ愚かなだけか」
「いいえ。閣下が大変お苦しそうだと思いましたので」
「何」
「その魔力の圧迫、内側から激しい熱と頭痛を伴っているのではありませんか。顔色もすぐれません。ここ何日もまともにお眠りになっていないのでは」
室内が凍りついたように静まり返った。
控えていた執事が青ざめて息を呑む。
公爵の不調を指摘するなど、怒りを買えばただでは済まない。
しかし、ギルバートの目が見開かれた。
それは彼が長年誰にも言えず、抱え込んできた苦痛そのものだったからだ。
規格外すぎる魔力は常に彼の神経を焼き不眠と激痛をもたらしてた。
「貴様に何がわかる」
冷たく突き放すようなギルバートの声。
しかしレティシアは動じることなく、静かに微笑んだ。
胸元のペンダントにそっと指先を添えながら、自分の特技を武器にする。
「薬草の心得がございます。よろしければ閣下、今夜のお茶を私に淹れさせていただけないでしょうか。 ほんの少しですがお痛みを和らげることができるかと存じます」
感情を捨てたはずの公爵と虐げられながらも誇りを捨てなかった身代わり令嬢。
二人の運命の歯車が静かに噛み合い始めた。




