身代わりの花嫁
深夜、深い静寂に包まれても屋敷の片隅にある小部屋のランプが消えることはない。
山積みにされた帳簿と領地からの陳情書を前に、レティシアは痛む目をこすりながらペンを走らせていた。
伯爵である父親は、遊興と見栄のための社交に夢中で領地経営などまったく理解していない。
継母がやってきてからは。
「優秀な経理官など無駄な人件費だ」
と解雇され膨大な仕事のすべてが前妻の娘であるレティシアに丸投げされていた。
「税率の再計算に収穫量の帳尻合わせ治水工事の予算配分」
何夜も徹夜続きで頭の奥がじんじんと痛む。
毎日の睡眠時間は2時間か3時間。
弱音を吐くことは許されない。
少しでも計算に不備があれば父からは。
「穀潰しめ」
と罵倒され継母からは平手打ちと食事抜きの罰があるからだ。
東の空が白み始める頃にはペンを置かなければならない。
太陽が上がる前から屋敷の雑用という別の一日が始まるからだ。
すすで汚れた作業用エプロンに着替えかじかむ手で厨房の竃に火をおこす。
朝食のパンを焼き継母と義妹のロザリーが好む豪奢な料理を手際よく仕上げる。
次に広大な廊下を雑巾掛けして回る。
伯爵令嬢でありながら与えられたのは装飾の剥がれたお下がりの古着。
冷たい水仕事で手先は赤く荒れている。
心が折れなかったのは、首元に光る銀のペンダント亡き実母の形見があったからだ。
「レティシア、学んだ知識と誇りだけは誰にも奪えないのよ」
母の遺した薬草の知識と、身につけた領地経営の実務。
この過酷な日々で自分を保つ唯一の盾だった。
限界寸前の日常を切り裂いたのは、その日の昼下がりに響き渡った凄まじい金切り声だった。
「絶対に嫌。あんな化け物のところへ嫁ぐくらいなら死んだほうがマシよ」
掃除用具を持ったまま応接室の前を通りかかったレティシアの耳に、義妹ロザリーの叫び声が飛び込んできた。
部屋を覗くと、豪奢なソファーに身を投げ出し義妹ロザリーが美しい顔を涙と怒りでぐしゃぐしゃに歪ませている。
床には、王家の紋章が押された婚姻の打診状が踏み躙られていた。
「ロザリー、落ち着いて頂戴。私の可愛い宝物をあんな恐ろしい男に差し出したりするものですか」 「そうだよロザリー。泣かないでおくれ」
義母と父が、腫れ物に触るように義妹ロザリーをなだめていた。
縁談の相手は、北の果てを治めるギルバート公爵。
戦場で敵を1人で焼き尽くしたと噂されるほど規格外の魔力を持ち、感情が一切読めず社交界にも姿を見せないことから氷の変わり者、人外の公爵と恐れられているいだ。
その縁談は伯爵家の自慢の娘として贅沢三昧をしていたロザリーに舞い込んだものだった。
そのとき、扉の隙間に立っていたレティシアに、ロザリーの視線が突き刺さった。
「あら、いるじゃない」
ロザリーが涙を拭い嗜虐的な笑みを浮かべて指を差した。
「お父様、お母様。いいことを思いついたわ。レティシアを行かせればいいじゃない」
「えっ」
「この女なら、泥だらけで料理や掃除をして夜には書類にかじり付いてるだけのみすぼらしい下女同然よ。化け物公爵にお似合いだわ。伯爵令嬢の肩書さえあれば向こうだって文句は言えないはずよ」
義母が扇子で口元を隠した。
「名案ね」
と目を細めた。 父親もまた迷う素振りすら見せずにレティシアを値踏みするように見やる。
睡眠時間を削ってまで領地を支えてきたことなど、何一つ感謝すらしていない冷酷な目だった。
「それがいい。公爵家からの申し出を断るわけにはいかん。愛しいロザリーをあんな魔境に送るわけにはいかないからな。おいレティシア」
父親は、廊下に立つレティシアに尊大に言い放った。
「お前がロザリーの身代わりとして、アルデンツィ公爵家に嫁ぎなさい。妹の輝かしい未来のために泥を被るのが、姉としての務めだ。断る権利などない」
掃除ブラシを握りしめ、レティシアは伏せていた目をゆっくりと上げた。
睡眠時間を奪われ、罵倒され使用人以上の重労働と領地の実務を押し付けられ続けてきた日々。
今度は、妹の身代わりの生贄になれと言う。
普通ならば絶望して泣き崩れる場面だろう。
だが、レティシアの胸の奥に広がったのは、絶望ではなく解放感だった。
これで、地獄のような家から出られる。
エプロンの下、亡き母の銀のペンダントを握りしめる。
恐ろしい公爵だろうと、毎日二時間しか眠れず家族から搾取され続ける日々に比べれば、どれほどましだろう。
「かしこまりました、お父様」
レティシアはブラシを静かに床へ置き完璧な淑女の礼をとった。
取り乱すこともなく、震えることもなくどこまでも透き通った声で答える。
「慎んで、義妹ロザリーの代わりに嫁がせていただきます」
あまりに淡々と受け入れたレティシアを見て、ロザリーは勝ち誇ったように笑った。
「物分かりだけはいいのね。あの冷酷公爵に八つ裂きにされないよう怯えて暮らしなさい」
嘲笑う家族たち。 彼らはまだ気づいていない。
毎日口にしていた食事や清潔な屋敷はもちろんレティシアが1人で睡眠を削って処理していた膨大な領地運営の書類や経理が、すべて自分たちに降りかかってくるという事実に。
翌朝、レティシアは母の手記と粗末な着替えを小さなトランクに詰め、迎えの馬車へと乗り込んだ。
目指すは北の公爵領。
レティシアの新しい人生が、静かに動き出そうとしていた。




