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第九話 石は、名前を待った

 少年は少し黙った後、話題を変えるように言った。


「君の名前は?」


 石は困った。

 石には名前がない。


 少年は少年で、エリアス。

 ガラス玉はガラス玉。

 花は花。

 釘は釘。

 石は石。


「石。」


 石は答えた。

 少年は首を傾げた。


「石は、種類の名前ですが。」


 種類。

 知らない言葉だった。


「しゅるい?」


「多くあるものをまとめて呼ぶための言葉です。石はたくさんあります。それは、君だけの名前ではありません。」


 君だけ。

 石はその言葉を聞いた。

 君だけ。

 それは何だろう。


 少年はたくさんいない。

 少なくとも、この洞窟に来る少年は一人。

 エリアス。

 少年だけの名前。


 石はたくさんある。

 小さな石。

 平たい石。

 棚の上の石。

 洞窟の壁の石。

 そして、自分。

 みんな石。


 でも、少年が言うには、それでは自分だけではない。

 自分だけ。


 石の中に、新しい足りなさが生まれた。


 名前。

 自分だけの名前。

 エリアスにはある。

 石にはない。


 好ましくない。

 これは、好ましくない。


「名前、ない。」


 石は言った。

 少年は少しだけ表情を柔らかくした。


「では、僕が考えましょうか?」


 石の中の何かが浮いた。


「考える?」


「はい。君の名前を。よろしければ。」


 石の名前。

 自分だけの言葉。

 少年が考える。

 エリアスが考える。

 自分のために。


 石は、うまく反応できなかった。


 浮く。

 浮く。

 とても浮く。

 とてもとても浮いて膨らむ。


 体は動かない。

 けれど、石の内側の何かが洞窟の天井まで行きそうだった。


 好ましい。

 とても好ましい。


「名前、ほしい。」


 石は言った。

 少年は頷いた。


「少し時間をいただけますか?きちんと考えたいので。」


 きちんと。

 考えたい。

 石の名前を。

 少年が。

 エリアスが。

 好ましい。


「待つ。」


 石は言った。

 少年は少し笑った。


「待てますか。」


「待てる。少年を待つ。名前も待つ。」


 少年の顔が、少しだけ柔らかくなった。

 石はそれを見て、また口を動かしそうになった。


 笑いたい。

 でも、笑うと怖い。


 石は口を閉じたまま、目だけを少し細めようとした。

 ぎょろりとした二つの目が、ゆっくり細くなる。

 少年は一瞬固まった。


 石はすぐに戻した。


「……今のは?」


「笑う、別のやり方。」


「……少し、練習しましょうか。」


「れんしゅう?」


「上手になるために、何度もやってみることです。」


 練習。

 石は覚えた。


 少年は剣の練習を嫌がることがある。

 でも、練習すると上手になるらしい。


 石も練習する。


 笑う練習。

 喋る練習。

 怖がらせない練習。


 好ましい。

 とても好ましい。


 少年は紙を置いて、石の方を見た。


「まず、口はあまり開けないでください。」


「うん。」


「目は……急に動くと少し怖いです。ですので、ゆっくりにしましょう。」


「ゆっくり?」


「はい。ゆっくり。」


 ゆっくり。

 石はその言葉を覚えていた。


 少年が近付く時。

 怖いけれど逃げない時。

 ゆっくりは、怖さを少なくするらしい。


 石は目をゆっくり動かした。


 右。

 左。

 少年が小さく頷く。


「それくらいなら、大丈夫です。」


 大丈夫。

 好ましい言葉。

 石は浮いた。


「大丈夫。」


 石は繰り返した。


「はい。大丈夫です。」


 少年は少し笑った。

 石は笑おうとしなかった。


 今はしない。

 練習中。


 少年が怖がらない方が大事。

 大事。

 石はその言葉も覚えた。


 しばらく、少年は石に言葉を教えた。


 怖い、驚く、困る、嬉しい、楽しい、嫌い、好き。


 石は、それらを一つずつ聞いた。

 嫌い、という言葉を聞いた時、石の中が少し沈んだ。


「嫌い、好ましくない?」


「そうですね。好ましくない、に近いです。でも同じではありません。」


 同じではない。

 石は少年を見た。


「怖いと、嫌い。同じ?」


 少年は少し考えた。

 それから、ゆっくり首を振った。


「それも、同じではありません。」


 石の中で、何かが止まった。


 怖い。

 嫌い。

 同じではない。


 少年は石が怖い。

 でも、嫌いではないかもしれない。


 石は、それに気付いた。

 浮いた。

 けれど、すぐには浮ききらなかった。


 確かめたい。

 聞きたい。

 でも、聞くのは怖い。


 石も、少し怖いというものを知った。


「エリアスは、石が怖い?」


 石は聞いた。

 少年の肩が少し動いた。


 少年は思っていたことと別のことを言おうとしたのかもしれない。

 けれど、口を閉じた。

 しばらく考えてから、言った。


「怖いです。」


 石の中が沈んだ。

 深く。


 けれど、少年は続けた。


「でも、嫌いではありません。」


 石は少年を見た。

 少年の緑の目は、まだ少し怯えていた。

 けれど、逃げていなかった。


 まっすぐではない。

 少し揺れている。

 でも、石を見ていた。


「嫌いではない?」


「はい。」


「怖い。でも嫌いではない。」


「はい。」


 石は、その言葉を何度も体の中で繰り返した。


 少年は石が怖い。

 でも、嫌いではない。


 石は沈んだまま、少し浮いた。


 沈む。

 浮く。

 同じ時に。


 石の中が、また少しぐるぐるになった。


「人の感情は、とても複雑です。」


 少年が言った。

 石は顔を上げるように目を動かした。


「ふくざつ?」


「一つではない、ということです。怖いけれど嫌いではない。驚くけれど知りたい。逃げたいけれど、来てしまう。そういうのを、複雑と言います。」


 複雑。

 一つではない。

 石は、自分の中を見た。


 少年が怖がると沈む。

 少年が来ると浮く。

 少年が帰ると沈む。

 また来ると言うと浮く。


 口は好ましくない。

 でも、口があるから話せる。

 ガラス玉がなくなるのは好ましくない。

 でも、少年が安心するのは好ましい。


 たくさんある。

 一つではない。

 複雑。


「石も、複雑。」


 石は言った。

 少年は小さく笑った。


「そうかもしれません。」


 その笑いは柔らかかった。

 石はまた浮いた。


 少年はそれから、自分のことも少し話した。


 辺境伯という家の長男で、十四歳であること。

 父は古い遺跡や石碑が好きなこと。

 母は魔法が使えて強いが、少年のことになるとひどく心配すること。

 弟が一人と、幼い妹が二人いること。

 剣の稽古は嫌いではないが、決まった型ばかりは退屈なこと。

 この洞窟は、一人になれる、特別な場所だったこと。


 石は聞いた。

 全部聞いた。

 少年の言葉が、石の中に入ってくる。


 父、母、弟、妹、家。

 稽古、一人、退屈、心配。


 石は意味を全部分かったわけではない。

 けれど、やはり少年の世界が洞窟の外にもあったことは分かった。


 少年は洞窟に来る。

 けれど、洞窟だけにいるわけではない。


 石の知らない場所に、少年は戻る。

 石の知らない人たちと話す。

 石の知らないものを見て、聞いて、匂いを受ける。


 それは少し好ましくなかった。

 けれど、少年がその話を石にしてくれるのは好ましかった。


 複雑。

 石は覚えたばかりの言葉を使った。


 少年には外がある。

 好ましくない。

 少年が外の話をする。

 好ましい。

 複雑。


 少年は話しながら、だんだん棒を握る力を緩めていった。


 最初は両手で握っていた。

 次に片手になった。

 やがて、膝の横に置いた。


 手はまだ棒の近くにある。

 でも、握ってはいない。


 石はそれを見た。

 きっと、怖いが、少し減った。

 好ましい。


 少年は紙に記録を書き足した。


 時々、石を見た。

 時々、首を傾げた。

 時々、考えた。


 石は、その全部を見ていた。


 少年の動き。

 少年の声。

 少年の匂い。

 少年の名前。

 エリアス。


 もっと覚えたい。

 全部覚えたい。

 忘れたくない。

 大事。


 石はそう思った。


 夕方になった。

 光が赤くなる。

 洞窟の入口が暗くなり始める。


 少年は紙を鞄にしまった。

 石の中が沈み始めた。


 帰る。

 少年が帰る。

 好ましくない。


 でも、少年には家がある。

 母が心配する。

 父が待つ。

 弟や妹がいる。


 帰るのは、たぶん必要。

 必要。


 石はまだその言葉をよく知らなかった。

 でも、少しだけ分かった。


 少年は立ち上がった。

 金属の棒を持った。

 ランタンを持った。

 それから、少し迷うように石を見た。


「明日も来ます。」


 石の中がふわりと浮いた。


「明日。」


「はい。明日。」


「エリアス、来る。」


 少年はまた少し赤くなった。


「はい。僕が来ます。」


「エリアス。」


「はい。」


「エリアス、明日、来る。」


「……はい。」


 少年は困ったように、でも少し笑っていた。

 石はその顔を見て、口を動かさないように気をつけた。

 笑う練習は、まだ必要。


「名前。」


 石は言った。

 少年は足を止めた。


「君の名前ですか?」


「うん。」


「きちんと、考えてきます。」


 石は浮いた。


「待つ。」


「はい。待っていてください。」


 待つ。

 石はできる。


 少年を待つ。

 名前を待つ。

 明日を待つ。


 待つ間は、少し足りない。

 少し苦しい。

 でも、少年が来るなら好ましい。


 少年は洞窟の入口まで歩いた。

 そこで一度振り向いた。

 ランタンの光が揺れ、金色の髪に赤い夕方の光が混じった。


「それから。」


 少年は少し言いにくそうにした。


「今日みたいに、口を閉じていてくれると……その、助かります。」


 石はすぐに口を強く閉じた。


「閉じる。」


 少年は笑った。


「ありがとうございます。」


 ありがとう。

 石に向けたありがとう。

 好ましい。

 とても好ましい。


 少年は洞窟を出ていった。


 姿が見えなくなる。

 声も消える。

 足音が遠ざかる。

 匂いが薄くなる。


 洞窟は静かになった。

 けれど、今日は静かさが少し違った。


 石の中に言葉が増えていた。


 約束、記録、忘れる、大事、名前、エリアス。

 楽しい、怖い、嫌い、複雑。


 石は、それらを一つずつ思い出した。

 少年がくれた言葉。

 エリアスがくれた言葉。


 石の中に、エリアスの言葉が増える。

 言葉が増えると、石の中も増える。

 好ましい。


 石は、暗い洞窟の奥で、入口を見ていた。

 石は、もう待っていた。


 エリアス。

 明日。

 名前。

 待つ。


 石はそれを、何度も何度も繰り返した。


 忘れないように。

 大事なものを、なくさないように。

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