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第八話 石は、少年の名前を知った

 少年は記録を続けた。


「耳は、いつ頃できましたか?」


「少年の声を聞きたかった時。」


「目は?」


「少年を見たかった時。」


「鼻は?」


「少年が花で笑った時。匂いを知りたかった。」


「口は?」


「少年が困っていた。教えたかった。」


 少年は手を止めた。

 そして、石を見た。

 怖い目ではなかった。

 考える目だった。


「やはり全て、僕がきっかけなのか。」


「うん。」


 少年は複雑な顔をした。

 石は、その顔が何なのか分からなかった。


 困る。

 怖い。

 考える。

 嬉しい。

 どれとも少し違う。


 少年の中には、石よりもたくさんのものがあるらしかった。

 石は、それを知りたいと思った。


 少年の中にあるものを、もっと知りたい。

 もっともっと。


 声では足りない。

 顔でも足りない。

 匂いでも足りない。


 少年の中。

 見えないところ。

 石は、それを見たいと思った。


 けれど、そのための場所はまだなかった。

 できるのかも、分からなかった。


 少年は言った。


「僕のせいで、君は変わった、と。」


 石はすぐに言った。


「少年のせい、好ましくない?」


「いえ……決して責めているわけでは、ありません。」


「せめる?」


「悪い、と言うことです。」


「少年、悪くない。好ましい。」


 石は強く言った。

 少年が少し驚いた顔をした。


「悪くない?」


「少年が来た。光より好ましい。耳ができた。目ができた。鼻ができた。口ができた。増えた。好ましい。」


 石は言葉を探しながら言った。


「少年は、悪くない。」


 少年は黙った。

 それから、視線を紙に落とした。


「……そうですか。」


 その声は少し小さかった。

 好ましくない声ではない。

 けれど、浮いてもいない。

 石にはまだ分からない声だった。


 分からない。

 知りたい。


 少年の声は、まだたくさんある。

 少年の顔も、まだたくさんある。


 好ましい。

 もっと知りたい。


 少年は紙を一枚めくった。


「君には、名前がありますか?」


 名前。

 石はその言葉を聞いたことがあった。

 少年が棚に並べたものに向かって言うことがある。


 これは釘。

 これは羽根。

 これは石。

 これは骨。


 それも名前だろうか。


「名前?」


「呼ぶための言葉です。例えば、僕には、エリアスという名前があります。」


 エリアス。

 石の中に、新しい音が入った。


 エ。

 リ。

 ア。

 ス。


 少年の名前。


 声でもない。

 形でもない。

 匂いでもない。

 けれど、少年を指すもの。


 エリアス。

 石は、その音をじっと聞いた。


 エリアス。

 少年が自分で自分をそう呼んだ。

 少年は、少年であり、エリアスでもあった。


 石は口を少しだけ動かした。


「エ、リ、ア、ス。」


 少年の肩が小さく揺れた。

 今度は怖がったのではない。

 驚いて、少し照れているようだった。


「はい。エリアスです。」


「エリアス。」


 石はもう一度言った。

 少年の名前。

 好ましい。


 とても好ましい。


 少年の声。

 少年の姿。

 少年の匂い。

 少年の名前。


 石の中に、少年がまた増えた。


 少年。

 エリアス。

 石は、その二つが同じものだと、何度も確かめた。


 増える。

 好ましい。


「エリアス。」


 石は三度目に言った。

 少年は少し赤くなった。


「そんな風に何度も呼ばれると、少し、変な感じがしますね。」


「変?」


「嫌なわけではありません。しかし、少し慣れません。」


 嫌ではない。

 石はその言葉を聞いた。


 嫌ではない。

 好ましくない、ではない。

 つまり、少し好ましいかもしれない。


 石の中が浮いた。


「エリアス。」


「……はい。」


「エリアス。」


「はい。」


「エリアス。」


「はい。何ですか。」


 石は少し考えた。

 何か用があるわけではなかった。


 ただ、呼びたかった。


 名前を出すと、少年が返事をする。


 エリアス。

 はい。


 同じ。

 行って、戻る。

 声が行って、声が戻る。

 好ましい。


「呼んだ。」


 石は言った。

 少年は一瞬ぽかんとした。

 それから、口元を押さえた。


 笑っている。

 少年が笑っている。

 好ましい。


「呼んだだけですか。」


「うん。」


「そうですか。」


 少年は肩を震わせていた。

 怖い震えではない。

 笑う震えだった。


 石はそれを見て、口を開けそうになった。

 自分も笑いたい。

 少年と同じように。


 同じ。

 好ましい。


 石は少しだけ口角にあたる部分を動かした。

 裂けた口が、横にぐにゃりと広がった。

 白い歯が少し見えた。


 少年の笑いが止まった。

 石はすぐに口を戻した。


 しまった。

 笑うと怖い。

 石の笑うは、少年の笑うと違う。

 同じではない。

 好ましくない。


「ごめん。」


 石は言った。

 なぜか、言葉が出た。

 少年が目を瞬かせた。


「謝ることも、できるんですね。」


 謝る。

 謝るとはなんだろう。

 石は知らない言葉だった。


「ごめん、は、謝る?」


「そうです。謝る、悪かったと思った時に言う言葉です。知りませんでしたか?」


 悪かった。

 石が笑った。

 少年が怖がった。

 好ましくない。

 だから、謝る。


「ごめん。」


 石はもう一度言った。

 少年は少し困ったように笑った。

 今度は硬くなかった。


「大丈夫です。急でしたので、少し驚いただけです。」


「笑う、難しい。」


「……そうですね。君の場合は、少し難しいかもしれません。」


 少年は言ってから、慌てたように付け足した。


「でも、笑おうとしたんですよね。」


「エリアスが笑った。石も同じにしたかった。」


 少年はまた黙った。

 石は、その沈黙を見た。


 怖がってはいない。

 でも、何かを考えている。


 少年はゆっくり言った。


「君は、同じになりたいんですか?」


 同じになりたい。

 石は考えた。


 少年と同じ言葉を使う。

 好ましい。

 少年と同じものを見る。

 好ましい。

 少年と同じ匂いを受ける。

 好ましい。


 少年と同じように笑う。

 うまくできなかった。

 でも、できたらきっと好ましい。


「同じ、好ましい。」


 石は答えた。

 少年は紙に何かを書いた。

 その手が、少しだけ震えていた。


 怖いのだろうか。

 それとも別のものだろうか。


 石にはまだ分からなかった。

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