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第七話 石は、大事を覚えた

 少年は明日来ると言った。

 石は、その言葉を覚えていた。


 明日。

 少年が来る。

 好ましい時。


 けれど、その明日がいつ来るのか、石にはまだよく分からなかった。


 光が消えた。

 暗くなった。

 水が落ちた。

 虫が這った。

 風が洞窟の入口を撫でた。


 それから、また光が来た。


 これはもう『明日』だろうか。


 石は入口を見た。

 耳は足音を探した。

 鼻は匂いを探した。


 けれど、少年はまだ来なかった。


 光はゆっくり動いた。

 洞窟の地面を照らし、石の前まで伸び、少しずつ場所を変えた。


 明るい。

 好ましい。

 けれど、少年はいない。


 足りない。

 明日は来たのに、少年がいない。

 これは本当に『明日』なのだろうか。


 石は考えた。

 まだ頭はあまり良くなかった。

 だから、明日というものが少し難しかった。


 明日。

 少年が来る時。


 でも、少年が来る前の明日もある。

 少年が来ていない明日。

 よく分からない。


 石は待った。

 待つ、という言葉は、もう少し分かるようになっていた。


 少年が来るまでの長い時間。

 匂いを探す時間。

 足音を探す時間。


 それが待つ。

 待つは、少し苦しい。


 昼に近付いた頃、風の中に匂いが混じった。


 草、土、革、木。

 それから、少年の匂い。


 石の中の何かが強く浮いた。


 明日。

 今が『明日』。

 少年が来る。


 足音がした。

 昨日より少しだけしっかりしていた。

 でも、やはりいつもよりは遅かった。


 少年は洞窟の入口に現れた。


 片手にはランタン。

 もう片方の手には、昨日と同じ金属の棒。

 腰には布袋。

 背中には小さな革鞄。


 少年は洞窟の入口で止まった。

 すぐには入ってこない。


 緑の目が、洞窟の奥を見ていた。

 石を見ていた。


 怖い。

 きっとまだ怖い。

 石はそれを少し分かるようになっていた。


 少年の肩は硬い。

 手は金属の棒を握っている。


 でも、目は逃げていない。

 目は知りたがっている。

 好ましい。


 少年はごくりと息を呑んだ。

 それから、少しぎこちなく言った。


「……来ました。」


 石の中の何かが大きく浮いた。

 石は返事をしようとした。


 嬉しい。

 来た。

 好ましい。


 言いたいことはたくさんあった。

 けれど、口を開けると少年が怖がる。


 石は慎重に、ほんの少しだけ口を開けた。

 歯をできるだけ見せないように。

 暗い奥をできるだけ見せないように。


「来た。」


 少年の肩が少し跳ねた。

 けれど、逃げなかった。

 石はそれを見て、また少し浮いた。


 少年は洞窟の入口から、ゆっくり中へ入った。


 一歩。

 止まる。

 また一歩。

 止まる。


 棒を前に出す。

 ランタンを少し高く持つ。

 逃げる準備を残したまま、近付いてくる。


 昨日よりも、少しだけ近い場所に座った。

 石からはまだ遠い。

 けれど、入口よりは近い。


 好ましい。

 とても好ましい。


 少年は鞄を下ろした。

 中から、紙の束と、細い棒を出した。

 石はそれを見た。


 紙。

 細い棒。


 少年は時々、木や地面に線を描いていた。

 その線を、今度は紙に描くらしい。


 少年は石を見た。

 石は動かなかった。


 少年は細い棒を持ったまま、言った。


「まず、約束をしていただいてもいいですか。」


 やくそく。

 石は知らない言葉だった。


「やくそく?」


「守ると決めることです。」


 守る。

 決める。

 石には少し難しかった。


 少年は考えるように眉を寄せた。

 その顔は好ましかった。


「……僕が必要以上に驚かないように、幾つかお願いしたいことがあります。」


 少年が怖がらない。

 それは好ましい。

 とても好ましい。


「する。」


 石はすぐに言った。

 少年は少しだけ目を大きくした。


「まだ内容を言っていませんが。」


「少年が怖がらない。好ましい。する。」


 少年は口を開けた。

 それから、少し困ったように閉じた。


 怖がってはいない。

 困っている。


 石は、困る顔と怖がる顔が少し違うことを覚えた。

 困る顔は、怖がる顔より好ましかった。


 少年は小さく咳払いをした。


「では、一つ目。急に大きな声を出さないでください。」


「大きな声。」


「はい。大きな声で突然喋られると、やはりどうしても心臓が驚きます。」


 心臓。

 石はその言葉を知らなかった。


「しんぞう?」


「胸の中で動いているものです。止まると、死にます。」


 死ぬ。

 石はその言葉も少ししか知らなかった。


 花が枯れる。

 虫が動かなくなる。

 少年はそれを死んでいると言ったことがある。


 心臓が止まる。

 少年が死ぬ。

 少年が動かなくなる。

 声がしなくなる。

 笑わなくなる。


 好ましくない。

 とてもとても、好ましくない。


「大きな声、出さない。」


 石は言った。

 少年は頷いた。


「二つ目。口を大きく開かないでください。」


 石はすぐに口を閉じた。

 少年は少しだけほっとした顔をした。

 好ましい。


「歯が、その、少し危なく見えるので。」


「歯、好ましくない?」


 少年は言葉を探すように視線を落とした。

 石はじっと待った。


 少年が考える時の沈黙は、嫌いではなかった。

 少年がそこにいるから。


 少年はやがて言った。


「歯だけのせいではないです。たぶん。」


 たぶん。

 少年もたぶんをたくさん使う。


「しかし、急に見えるとやはり、その、怖いです。」


「怖い。好ましくない。」


「はい。」


「口、大きく開けない。」


「……お願いします。」


 少年は少し頭を下げた。

 石はそれを見た。


 頭を下げる。

 何だろう。


 少年がそうする時、声が少し丁寧になる。

 石はその形を覚えた。


「三つ目。僕が『待って』と言ったら、止まってください。話さないでください。」


「待って。」


「はい。待って、です。」


 待つ。

 石はそれを知っている。


 少年を待つ。

 光を待つ。

 匂いを待つ。


 苦しいけれど、できる。


「できる。」


 石は答えた。

 少年は少しだけ表情を緩めた。


「ありがとうございます。」


 ありがとう。

 石はその言葉を聞いたことがあった。


 少年が花を変える時。

 時々、誰もいない洞窟で言っていた。


 でも、今は石に向けて言っている。

 石に。


 少年が石に、ありがとうと言った。


 石の中の何かが大きく浮いた。

 膨らんだ。


「ありがとう、好ましい。」


 石は言った。

 少年は瞬きをした。


「……そうですか。」


「うん。」


「なら、よかったです。」


 よかった。

 それも好ましい言葉らしかった。

 石は覚えた。


 少年は紙を膝の上に置き、細い棒で何かを書き始めた。

 炭が紙を擦る音がした。


 石はそれを見た。


「何?」


 石が聞くと、少年は少しだけ肩を揺らした。

 怖がったというより、驚いたらしい。


「記録です。」


「きろく?」


「見たものや聞いた内容を、忘れないように留めておくことです。」


 忘れる。

 石はその言葉を知らなかった。


「忘れる?」


「覚えていたものが、分からなくなることです。」


 分からなくなる。

 分からなくなるとは、なんだろう。

 石は少し考えた。


 少年の声が分からなくなる。

 少年の姿が分からなくなる。

 少年の匂いが分からなくなる。


 好ましくない。

 とても、好ましくない。


「忘れる、好ましくない。」


「そうですね。大事なことは、できるだけ忘れないようにすべきです。」


 大事。

 石はその言葉を聞いた。


「だいじ?」


「そうですね……無くしたくない、覚えておきたい、傷付けたくない、守りたい、そういったものでしょうか。」


 少年は少し悩みながら言った。


 無くしたくない。

 覚えておきたい。

 傷付けたくない。

 守りたい。


 少年。

 石の中で、その言葉たちが少年の形に集まった。


 少年は大事。

 少年はとても大事。

 石は、そう思った。


 まだ、言葉の意味を全部は分かってはいない。

 けれど、少年はきっと大事に近かった。


 とても好ましくて。

 なくなると好ましくなくて。

 怖がると沈んで。

 笑うと浮く。


 少年は大事。

 石はその言葉を、体の奥に置いた。


 少年は紙に線を引いた。

 石の形を描いているらしかった。


 丸い体。

 目。

 鼻の穴。

 口。


 少年は口を描く時、少し手を止めた。

 石は気付いた。


 口は怖い。

 少年は口が怖い。

 石は、もっと強く口を閉じた。


 少年はそれに気付いたのか、少しだけ苦笑した。


 苦笑。

 それは笑うに似ている。

 でも、少し困っている。


 石はまた一つ、少年の顔の種類を覚えた。


「君は、本当に僕の言葉を理解……いえ、分かっているんですね。」


 少年が言った。


「分かる。少し。」


「昨日より、上手に話している気がします。」


 上手。

 石は知らない言葉だった。


「じょうず?」


「そうですね……前より、よくできるようになっている、という意味です。」


 前より。

 よく。

 できる。

 好ましい。


「上手、好ましい。」


 石は言った。

 少年は頷いた。


「はい。好ましい、ですね。」


 少年が石の言葉を使った。


 石は浮いた。

 とても浮いた。

 内側が大きく膨らんだ。


「同じ。」


 石は言った。

 少年は首を傾げた。


「同じ、ですか?」


「少年も、好ましいを使った。石と同じ。」


 少年は少しのあいだ黙った。

 それから、ふっと小さく笑った。


 怖い笑いではない。

 硬い笑いでもない。

 少し柔らかい笑いだった。


「そうですね。同じですね。」


 同じ。

 少年と同じ。


 同じは好ましい。

 とても好ましい。


 石はその言葉を何度も体の中で転がした。

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