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第六話 石は、明日の約束をもらった

 少年はしばらく黙っていた。

 顔はまだ強張っている。

 けれど、目は石から離れなかった。


 ランタンの光で、緑の目が揺れていた。


 怖いのに。

 逃げたいのに。

 少年は見ている。

 石を見ている。


 石は、そのことを好ましいと思った。

 とても、好ましい。


 少年はやがて、小さな声で言った。


「……でも。」


 石は聞いた。


「ガラス玉の場所、教えてくれたんですよね。」


「うん。」


「僕を驚かせるためじゃなくて?」


「少年が困っていた。」


 少年の表情が少しだけ変わった。

 怖い顔の中に、違うものが混じった。


「困っていたから、教えたんですか。」


「うん。」


「……それは、親切、ということになるのかな。」


 親切。

 石はその言葉を知らなかった。


「しんせつ?」


「誰かのために、何かをしてあげること、です。……たぶん。」


 たぶん。

 少年も、たぶんと言った。

 石は少し浮いた。


 少年と同じ。


 誰かのため。

 少年のため。

 何かをする。


「親切。」


 石はその言葉を繰り返した。

 口の中で、少し転がした。

 しんせつ。


 石の中に、新しい言葉が入った。

 少年が教えてくれた言葉。

 好ましい。


「親切、した。」


 石は言った。

 少年は棒を構えたまま、少しだけ困った顔をした。

 その顔は、さっきまでの恐怖だけの顔ではなかった。


 石はそれを見た。

 好ましい。


 少年の顔が変わる。

 怖いだけではなくなる。

 とても好ましい。


「……そう、なのですよね。たぶん。」


 少年は小さく言った。

 それから、ガラス玉の方を見た。

 石の前にある透明な玉。


 少年はまだ取りに来られない。

 石が近いから。

 石が怖いから。


 石はそれに気付いた。


 少年はガラス玉が欲しい。

 でも石が怖い。

 ガラス玉は石の前。

 好ましくない。


 石は考えた。

 自分がいなければ、少年は取りに来られる。


 でも、石は動けない。

 動けないから、どけない。

 好ましくない。


 ガラス玉を渡したい。

 でも手がない。

 好ましくない。


 口で押せば動くかもしれない。

 石は少し口を開けた。

 少年がびくっとした。


 石はすぐに口を閉じた。


 違った。

 口を開けるのは好ましくない。

 少年が怖がる。


 石はまた沈んだ。


 少年はその様子を見ていた。


「……今、何をしようとしました?」


「ガラス玉を、そっちに。」


「口で?」


「うん。」


 少年は少し顔を引きつらせた。


「やめてください。」


「うん。」


 石はすぐにやめた。

 少年がやめてと言った。

 だからやめる。

 石はそれを覚えた。


 やめて。

 その言葉は、止まること。

 しないこと。

 少年が怖がる前に、やめること。

 大事な言葉だった。とても。


 少年はしばらく石とガラス玉を交互に見ていた。

 そして、棒を伸ばした。

 棒の先で、そっとガラス玉を引き寄せようとする。

 手が震えているせいで、棒の先も震えていた。


 ガラス玉は少し転がった。

 ごろり。

 少年の方へ。


 けれど、途中でくぼみに引っかかった。

 少年はもう少し棒を伸ばした。


 石は動かなかった。

 目も動かさないようにした。

 鼻も動かさないようにした。

 口も閉じた。


 少年が怖がらないように。


 少年はガラス玉を少しずつ引き寄せた。

 やっと手が届くところまで来ると、素早く拾った。

 その動きはとても速かった。

 石から取られないようにしているようだった。


 石は少し沈んだ。

 石は取らない。

 ガラス玉は少年のもの。

 石はそう思った。


 けれど、少年がそう思わないのなら、仕方がない。


 少年はガラス玉を握りしめた。

 ほっとした息を吐いた。


 その息は好ましかった。

 少年が安心した。

 それなら、好ましい。


 少年はガラス玉を布袋に入れた。

 今日は棚に置かなかった。

 石はそれを見た。


 ガラス玉がなくなる。

 好ましくない。

 でも少年が安心している。

 好ましい。


 どちらもある。

 石は少しだけ沈んで、少しだけ浮いた。


 少年は立ち上がった。

 帰るのだろうか。

 石の中が沈み始めた。


 けれど少年は、すぐには帰らなかった。

 洞窟の入口の方へ数歩下がり、そこに腰を下ろした。


 石から遠い場所。

 逃げやすい場所。

 けれど、洞窟の中だった。


 少年はまだいる。

 石は浮いた。


 少年は金属の棒を膝の上に置き、ランタンを横に置いた。

 そして、石をじっと見た。


「……いくつか、確認してもいいですか。」


 確認。

 石は知らない言葉だった。


「かくにん?」


「分からないことを、ひとつずつ確かめることです。」


 分からないことを確かめる。

 石は分かった。

 石にも確かめたいことはある。


 少年のこと。

 少年の名前。

 少年が来なかった理由。

 少年が怖い理由。


 でも、先に少年が聞く。

 それでいい。

 少年が話す。

 好ましい。


「いいよ。」


 石は答えた。

 少年は深く息を吸った。

 そして、ひとつずつ聞いた。


「いつから、そこにいるんですか。」


「分からない。」


「かなり長い間ここにいた?」


「たぶん。」


 少年は一瞬眉を動かしたが、今度は何も言わなかった。

 たぶん、に少し慣れたのかもしれない。


「僕が来る前から?」


「うん。」


「僕が来た時も、そこにいた?」


「うん。」


「ずっと見ていたんですか?」


「見ていた。」


 少年の顔がまた少し引きつった。

 石はすぐに言い足した。


「少年が好ましいから。」


 少年は固まった。

 石は、また間違えたかもしれないと思った。


「好ましい?」


「うん。」


「僕が?」


「うん。」


「……どういう意味ですか。」


 石は考えた。


 少年の声。

 少年の姿。

 少年の匂い。

 少年が笑うこと。

 少年が来ること。


 全部好ましい。


「来ると、浮く。」


 石は言った。

 少年は目を瞬かせた。


「浮く?」


「中が、浮く。」


「それは……嬉しい、ということですか?」


 嬉しい。

 少しずつ分かってきた言葉。


 少年が来ると浮く。

 少年が帰ると沈む。

 少年が笑うと浮く。

 少年が怖がると沈む。


 嬉しい。

 たぶん、これは嬉しい。


「嬉しい。」


 石は繰り返した。

 また確かな言葉が入った。

 石の中に、少年の言葉が増えていく。

 好ましい。


 少年は困ったような顔をした。

 けれど、さっきより少しだけ怖くなさそうだった。


「僕が来ると、嬉しいんですか。」


「うん。」


「……僕がいない間は?」


「好ましくない。」


 少年の視線が、少しだけ下がった。

 ガラス玉を入れた布袋を握る手が、少し緩む。


「それは……悪いことを、しました。」


 悪いこと。

 石はその言葉を聞いた。

 少年の声は沈んでいた。


 好ましくない。


「少年は悪くない。」


 石はすぐに言った。

 少年が顔を上げた。


「どうしてですか。」


「怖かったから。」


 少年は黙った。

 石は続けた。


「石が怖かった。だから来なかった。少年は悪くない。」


 少年は石を見ていた。

 長く、見ていた。


 怖い顔ではなかった。

 でも、笑ってもいなかった。

 石には分からない顔だった。


「……君は、怖いということを、分かるんですね。」


「少し。」


「僕が怖がったのも?」


「分かる。好ましくない。」


「僕が怖がることが?」


「うん。」


「どうして?」


「少年が怖いと、少年の声が好ましくない。」


 石は言った。

 それから、少し考えて付け足した。


「少年が笑う方が、好ましい。」


 少年は息を止めたようだった。

 それから、ほんの少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。

 まだ硬い。

 少しだけ。

 けれど、笑った。


 石の中の何かが浮いた。

 少年が笑った。

 好ましい。

 とても好ましい。


 もっと笑ってほしい。


 石は口を開けそうになった。

 自分も笑ってみようとした。

 けれど、口を開けるときっと少年が怖がる。


 石は口を閉じたままにした。


 笑わない。

 少年のため。

 石は少し賢くなった気がした。


 少年はまた確認した。


「どうして、目や口があるんですか。」


 石は考えた。

 どうして。


 耳は、少年の声を聞きたかったから。

 目は、少年を見たかったから。

 鼻は、少年が笑った匂いを知りたかったから。

 口は、ガラス玉を教えたかったから。


 全部、少年。


「少年のせい。」


 石は答えた。

 少年の顔がまた強張った。


「……僕のせいですか。」


 石は、すぐに間違えたと分かった。

 少年のせい、は好ましくないらしい。


「ちがう。」


「今、僕のせいって。」


「少年の声を聞きたかった。だから耳ができた。」


 少年は黙った。


「少年を見たかった。だから目ができた。」


 少年の目が少し大きくなった。


「少年が花で笑った。匂いを知りたかった。だから鼻ができた。」


 少年の腕が、少しだけ動いた。


「少年が困っていた。教えたかった。だから口ができた。」


 それから、石は口を閉じたまま、できるだけ小さな声で言った。


「……少年が怖がった。だから、口は好ましくない。」


 少年は、何も言わなかった。


 洞窟の中に、水の音が落ちた。

 ぽたり。


 ランタンの火が揺れた。

 外で鳥が鳴いた。


 少年は長いあいだ、石を見ていた。


 怖い。

 まだ怖い。

 けれど、目の中に別のものが増えている。


 石はそれを見た。


 知りたい。

 少年は、まだ知りたい。

 石のことを、知りたい。


 石はそのことを好ましいと思った。


 少年はやがて、小さく言った。


「……君は、僕を驚かせたかったわけじゃないんですね。」


「うん。」


「僕を食べたいわけでもない。」


「うん。」


「ただ、伝えようとした。」


 伝える。

 石はその言葉を聞いた。

 石の中から、外へ出す。

 少年へ届かせる。

 きっと、話すことに少し似ていること。


「伝える、した。」


 石は繰り返した。

 少年は、少しだけ息を吐いた。


「そっか。」


 その声は、さっきより柔らかかった。

 石は浮いた。


 少年は洞窟の入口の方を見た。

 夕方の光が赤くなり始めていた。

 少年は帰る時間らしかった。


 石の中が沈み始めた。


 少年は立ち上がった。

 棒を持った。

 ランタンを持った。

 布袋を腰にしまった。

 ガラス玉も持っていく。


 少年も帰る。

 好ましくない。


 けれど、少年は入口で振り向いた。


「……明日。」


 石は聞いた。

 明日。

 好ましい言葉。


「明日、また来ます。……確認したいことが、まだありますから。」


 石の中の何かが大きく浮いた。


 明日。

 また来る。

 少年がまた来る。

 好ましい。

 とても、とても好ましい。


 石は口を開けそうになった。


 明日。

 嬉しい。

 来て。


 言いたいことがたくさんあった。

 けれど、声を出すと少年が怖がるかもしれない。

 石は少し迷った。


 少年は入口で待っていた。

 石の返事を待っている。

 返事をしなければ、少年が困るかもしれない。

 困るのは好ましくない。


 石は、ほんの少しだけ口を開けた。

 歯を見せないように。

 暗い奥を見せないように。

 小さく。


「明日。」


 少年は肩を震わせなかった。

 少しだけ頷いた。


「はい。明日。」


 そう言って、少年は洞窟を出ていった。


 金色の髪が光の中へ消える。

 緑の目が見えなくなる。

 足音が遠ざかる。

 匂いが薄くなる。


 けれど、今日は前と違った。


 また明日。

 少年はそう言った。


 石の前にガラス玉はもうなかった。

 けれど、少年は明日来る。


 とても好ましい。

 とてもとても好ましい。


 石は洞窟の奥で、じっと入口を見ていた。

 けれど、もう口ができなければよかったとは、少しだけ思わなかった。

 口があったから、少年と話せた。


 少年が言った言葉を、石は何度も思い出した。


 親切。

 嬉しい。

 伝える。

 確認。

 明日。


 石の中に、少年の言葉が増えた。

 少年の言葉が増えると、石の中も増えた。


 好ましい。

 とても好ましい。


 石は、暗い洞窟の奥で、明日を待った。


 明日。

 少年が来る日。

 好ましい日。


 少年は言った。

 また来る。

 石は、それをなくさないことにした。


 信じる、という言葉は、まだ知らなかったけれど。

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