第五話 石は、おばけではなかった
少年は来なかった。
一日。
二日。
三日。
光は来た。
雨は来なかった。
風も強くなかった。
洞窟の入口は明るく、道もぬかるんでいないようだった。
それなのに、少年は来なかった。
口は閉じていた。
閉じていたけれど、内側では何度も開きそうになった。
来て。
来て。
来て。
けれど、声にはしなかった。
声を出したら、少年は逃げる。
石は、それを覚えた。
声を出す。
少年が逃げる。
好ましくない。
口を開ける。
少年が怖がる。
好ましくない。
歯を見せる。
少年が悲鳴を上げる。
とても、好ましくない。
だから石は、口を閉じた。
ぎざぎざの歯を隠した。
暗い奥を隠した。
ただの石のふりをした。
ただの石。
少年が怖がらない石。
石は、そういうものになりたかった。
けれど、もう耳はあった。
目もあった。
鼻もあった。
口もあった。
なくせなかった。
石はそれを好ましくないと思った。
ガラス玉は、まだ石の前にあった。
丸くて、固い、少し石と同じ。
けれど、ガラス玉は少年に大切にされていた。
石は、大切にされていない。
石は、見つかってもいなかった。
見つかったら、逃げられた。
石は考えた。
まだ頭はあまり良くなかったので、考えは同じところを回った。
少年はガラス玉を好ましいと思っている。
ガラス玉は丸い。
石も少し丸い。
ガラス玉は硬い。
石も硬い。
ガラス玉は黙っている。
石も黙っていればよかった。
ガラス玉は石と少し同じなのに、少年に大切にされている。
何が違うのだろう。
石は自分の口を閉じたまま、じっとしていた。
四日目。
朝の光が洞窟に入った。
昼になった。
葉の音がした。
鳥の声がした。
水が落ちた。
少年は来ない。
石の中の何かは深く沈んでいた。
とても、とても足りなかった。
けれど、夕方に近い頃。
風の中に、少し違う匂いが混じった。
土。
草。
木の葉。
革。
それから、少年の匂い。
石の中の何かが、急に浮いた。
来る。
少年が来る。
足音が近付いた。
いつもより遅い足音だった。
石は入口を見た。
光の中に、少年の影が見えた。
少年は洞窟の入口で止まった。
中へ入ってこない。
片手にランタンを持っていた。
もう片方の手には、長い金属の棒を握っていた。
棒の先は少し尖っている。
少年が持ってきたもの。
たぶん、家から。
少年はきっと準備をしてきた。
石は、そう思った。
少年の顔は青ざめていた。
けれど、目は洞窟の奥を見ていた。
逃げたい目。
でも、確かめたい目。
石を探している。
石は、そう思った。
少年が石を探している。
それは、好ましい。
けれど、少年の体は入口から動かなかった。
少年の喉が、ごくりと鳴った。
「……そこにいるのは、誰ですか。」
声がした。
少年の声。
少し震えている。
好ましくない。
石は答えなかった。
声を出すと、きっと少年は逃げる。
答えない。
黙る。
ただの石。
ただの石のふり。
石は口を閉じたまま、入口を見ていた。
少年はしばらく待った。
ランタンの火が小さく揺れた。
少年の手も少し揺れていた。
「……人、ではないですよね。」
石は答えなかった。
人。
石はその言葉を聞いたことがある。
少年が言ったことがある。
父上も人。
母上も人。
少年も人。
石は人ではない。
たぶん。
でも、答えなかった。
少年は金属の棒を少し前に出した。
棒の先が洞窟の空気を刺すように動いた。
「何日か前、声がしました。」
石はただ聞いた。
「ガラス玉の場所を、教えてくれた……んですよね。」
ガラス玉。
石は自分の前を見た。
そこにある。
少年の探し物。
教えたかったもの。
少年は覚えていた。
好ましい。
とても好ましい。
少年は怖がっている。
でも、覚えていた。
ガラス玉のことも。
石の声のことも。
石は、口を開けそうになった。
ここにあるよ。
まだあるよ。
割れていないよ。
けれど、口を開けなかった。
少年はまた逃げるかもしれない。
石はじっと我慢した。
少年は入口でしばらく立っていた。
そして、小さな声で言った。
「……魔物ですか。」
魔物。
石は、その言葉を知らなかった。
けれど、少年の声は怖がっていた。
きっと好ましくないもの。
「それとも、精霊か、呪物か。……いや、父上ならまず、現象を切り分けろと言うはずだ。」
少年は自分に言い聞かせるように呟いた。
石は聞いた。
切り分ける。
それは分けることだろうか。
好ましい。
分けることは、石も少しできる。
好ましい。
好ましくない。
来る。
来ない。
同じ。
違う。
少年も分けようとしている。
石と同じ。
石は少し浮いた。
少年はもう一度、洞窟の奥を見た。
「……おばけ、ではないですよね。」
おばけ。
石はその言葉も知らなかった。
けれど、少年の声はさっきより少し小さかった。
怖いのに、少し恥ずかしそうだった。
石は、考えるより先に答えていた。
「ちがうよ。」
声が洞窟に落ちた。
低く、かすれて、石の奥から出た声だった。
少年の肩が跳ねた。
「ひっ!」
少年は一歩下がった。
石の中の何かが一気に沈んだ。
しまった。
声を出した。
答えてしまった。
石の中の何かが、ぎゅっと縮まった。
さっきの前に戻りたい、とまた思った。
声を出す前に戻りたい。
少年は棒を構えたまま、入口の外まで下がった。
石は見ていた。
少年の足は逃げたがっている。
けれど、少年の目はまだ洞窟の奥を見ている。
逃げる。
見たい。
遠ざかる。
近付きたい。
少年の中にも、二つあるらしかった。
石にも二つある。
声を出したい。
声を出したくない。
少年に来てほしい。
少年を怖がらせたくない。
同じ。
少年と同じ。
石は、少しだけ浮いた。
少年はそのまま逃げはしなかった。
入口の外で、荒い息をしていた。
「……違う、んですね。」
少年が言った。
声は震えていた。
でも、まだそこにいた。
石は嬉しかった。
嬉しい、という言葉はもうだいぶ分かるようになっていた。
少年が来る時の、浮く感じ。
それは嬉しい、に近かった。
石は慎重に答えようとした。
少年が怖がらないように。
短く。
小さく。
歯を見せないように。
石は口を少しだけ開いた。
「ちがう。」
少年はまた肩を震わせた。
けれど、やはり逃げなかった。
「じゃあ、何なんですか。」
石は困った。
何。
自分は何か。
石は考えた。
耳がある。
目がある。
鼻がある。
口がある。
でも、動けない。
手もない。
足もない。
体は硬い。
冷たい。
重い。
洞窟の奥にある。
たぶん、石だ。
「石だよ。」
少年は黙った。
長く黙った。
ランタンの火が揺れた。
水が、ぽたりと落ちた。
少年の息の音がした。
「……石。」
「うん。」
「石が、喋っているんですか。」
「うん。」
少年はまた黙った。
石は、自分の答えがよくなかったのかもしれないと思った。
けれど、何がよくないのかは分からない。
石は石だ。
そして、喋った。
だから、石が喋っている。
合っている。
なのに、少年の顔は暗い。
合っていることを言っても、少年は嬉しくない時がある。
石はそれを覚えた。
少年は棒を握り直した。
「……石のふりをしている何かではなく?」
石のふり。
石は少し考えた。
石は、ただの石のふりをしていた。
でも、石だ。
石が石のふりをする。
よく分からない。
「石だよ。」
石はもう一度言った。
少年は眉を寄せた。
「それは、さっき聞きました。」
「うん。」
「……本当に石なんですか。」
「たぶん。」
「たぶん……。」
少年は小さく繰り返した。
その声は、怖い時の声と、考えている時の声が混ざっていた。
少年が考えている。
考えている時の少年は、よく眉を寄せる。
緑の目が少し細くなる。
石はその顔が好きだった。
好き、という言葉はまだよく分からなかったけれど。
とても、好ましかった。
少年は、深く息を吸った。
そして静かに吐いた。
それから、入口の岩に片手をついた。
「怖がっているだけでは、何も分からないな。」
少年はそう言った。
自分に言っているようだった。
声はまだ震えていた。
けれど、さっきより少しだけ硬かった。
逃げる声ではなかった。
進もうとする声だった。
少年は少しずつ洞窟の中へ入ってきた。
一歩。
また一歩。
ランタンを前に出す。
金属の棒も前に出す。
足は慎重だった。
逃げる準備をしている足だった。
けれど、目は洞窟の奥を探していた。
少年の目は、怖いだけではなかった。
怖い。
けど知りたい。
逃げたい。
けど見たい。
少年の中で、それらが押し合っているようだった。
石は動かなかった。
ただの石のふりをした。
目もあまり動かさなかった。
鼻の穴も、できるだけひくひくさせなかった。
口は閉じていた。
少年が怖がらないように。
少年は洞窟の真ん中あたりで止まった。
「どこに、いますか。」
ここ。
石はそう言おうとした。
けれど、声を出すときっと少年が怖がる。
だから少し迷った。
迷う、ということも、石は覚え始めていた。
言う。
少年が知る。
好ましい。
言う。
少年が怖がる。
好ましくない。
言わない。
少年が分からない。
好ましくない。
言わない。
少年が逃げない。
好ましい。
どちらも好ましい。
どちらも好ましくない。
石は困った。
少年は待っている。
ランタンの火が揺れる。
少年の手が震える。
石は答えた。
「ここ。」
少年が息を吸った。
「ここ、とは。」
「ここ。」
石は自分の前を見た。
目が動いた。
しまった、と思った。
けれど遅かった。
少年がその動きを見た。
洞窟の奥。
暗い場所。
丸い石。
その表面で、ぎょろりとした二つの目が動いた。
少年の顔から、また色が消えた。
「……そういうことか。」
少年はそう言った。
声はかすれていた。
「……いや、そういうことか、ではないな。全然分からない。」
石は少し沈んだ。
嘘ではない。
ここ。
石はここにいる。
少年はランタンをゆっくり持ち上げた。
火の光が洞窟の奥へ伸びた。
石の前に落ちているガラス玉がきらりと光る。
少年の目がそこへ行った。
「あ。」
少年はガラス玉を見つけた。
声が少し明るくなった。
好ましい。
石は嬉しくなった。
見つけた。
少年が見つけた。
教えられた。
よかった。
けれど、少年の目はすぐにガラス玉から石へ移った。
ランタンの光が、石を照らした。
ぎょろりとした二つの目。
ひくひく動く鼻。
横に裂けた口。
閉じていても少し見える、白い歯の端。
ごつごつした丸い体。
洞窟の奥にあったはずの、ただの石。
少年は息を呑んだ。
それから、喉の奥で変な音を出した。
「う、わ……っ。」
後ずさった足が小石を踏んだ。
石は沈んだ。
やはり。
やはり、怖い。
自分は少年にとって怖い。
好ましくない。
とても、好ましくない。
石は口をぎゅっと閉じた。
目も動かさないようにした。
鼻も止めようとした。
でも、鼻は少年の匂いを受けていた。
少年の匂いは強かった。
土。
汗。
革。
怖い時の匂い。
石は、怖い時の匂いを初めて知った。
それは少し鋭くて、好ましくなかった。
少年はしばらく石を見ていた。
逃げるかもしれない。
石は思った。
逃げる。
好ましくない。
でも、追えない。
追う足もない。
引き止める手もない。
ただ、見ているしかない。
少年は逃げなかった。
震えながら、金属の棒を握り直した。
棒を石の方へ向ける。
「動かないでください。」
石は困った。
でも、石は動けない。
だから、これはできる。
「動かないよ。」
少年の顔が少し変わった。
「……動けないんですか。」
「うん。」
少年は棒を構えたまま、少しだけ目を細めた。
怖い。
でも、知りたい。
石はその目を見た。
好ましい。
少年がまだ見ている。
逃げていない。
とても好ましい。
「本当に、動けない?」
「うん。」
「飛びかかってきたりは。」
「しない。」
「できない?」
「たぶん。」
少年の眉がぴくりと動いた。
「そこは、たぶんではなく、はっきり言ってほしいです。」
石は驚いた。
たぶんは好ましくないらしい。
石は覚えた。
少年が怖がっている時、たぶんはよくない。
「できない。」
石は言い直した。
少年は少しだけ息を吐いた。
けれど、まだ棒は下ろさなかった。
「……人を食べる類のものですか。」
石は驚いた。
食べる。
人を。
少年を。
石は考えた。
食べる、という言葉は知っている。
少年が昼にパンを食べるところを見たことがある。
木の実をかじるところも見た。
花は食べない。
枝も食べない。
石も食べない。
少年は柔らかそうだった。
温かそうだった。
匂いも強い。
でも、食べたいと思ったことはない。
石は少年を見たい。
聞きたい。
匂いを受けたい。
少年が笑うと好ましい。
少年がいなくなると好ましくない。
食べたら、少年はいなくなるのだろうか。
それは好ましくない。
とても、好ましくない。
「食べないよ。」
石は答えた。
少年はまた少しだけ肩の力を抜いた。
「本当に?」
「うん。」
「なぜ?」
なぜ。
石はまた考えた。
食べたくないから。
少年がいなくなるから。
少年が怖がるから。
少年が痛いかもしれないから。
でも、それらをうまく言葉にできなかった。
まだ頭は、少しずつ良くなっている途中だった。
石は、正直に言った。
「食べたことないから、分からない。」
少年の肩がまた跳ねた。
「分からないんですか。」
石は、また答えを間違えたと思った。
「食べない。」
「今、分からないって言いました。」
「食べない。」
「本当に?」
「少年が、食べられるのを好まないなら、食べない。」
少年は完全に固まった。
石は、これも違ったのだと分かった。
少年は棒を握り直し、じり、と少し後ろへ下がった。
「僕が好む好まないの問題ではありません。」
「ちがう?」
「違います。」
石は覚えた。
食べる話は、好ましくない。
少年が怖がる。
言わない方がいい。
でも、少年が聞いた。
聞かれたら答えた方がいい。
答えると怖がる。
石は困った。
話すことは、石にとってまだとても難しかった。




