第四話 石は、声を出してしまった
石は、少年を待つようになった。
待つ。
足りないに近いが、少し違うもの。
少年が来ない時間は、石の中の何かが沈んだ。
少年が来ると、浮いた。
それは、光の時と似ていた。
けれど、光よりもずっとずっと強かった。
光が来ても、少年が来なければ足りない。
少年は、今日も洞窟へ来た。
足音より先に、匂いがした。
湿った土。
草。
木の葉。
その中に、少年の匂い。
石の中の何かが浮いた。
来る。
少年が来る。
足音が近付く。
「よし。やるか。」
少年の声は弾んでいた。
好ましい。
とても好ましい。
少年は洞窟の中へ入ってきた。
淡い金色の髪に、細い枝の欠片がついていた。
白い頬は少し赤かった。
手には、小さな布袋を持っていた。
少年は棚の前に座ると、布袋の紐をほどいた。
布袋の中から出てきたのは、丸いものだった。
透明な玉。
中に青い筋がたくさん入っている。
入口から差し込む光を受けて、きらりと光った。
石は、その玉を見た。
小さい。
丸い。
硬そう。
透き通っている。
中に青がある。
石と同じ。
丸いところが、少しだけ石と同じ。
硬いところも、少しだけ石と同じ。
でも、石とは違う。
あれは少年の手の中にある。
あれは少年に見つめられている。
少年は、その玉を大切そうに手に落とした。
「磨いたらもっと綺麗になるかな。」
少年は嬉しそうだった。
玉を光にかざす。
明るい緑の目が細くなる。
口元が上がる。
好ましい。
少年が嬉しい。
だから、その玉も好ましい。
「海みたいだ。」
海。
石は海を知らなかった。
けれど、少年がその言葉を言う時、声が柔らかくなった。
だから、海は好ましいものかもしれない。
少年はガラス玉を棚の上に置いた。
他の工具や材料よりも、少し高い場所だった。
少年はしばらくそれを眺めていた。
石も眺めた。
少年が眺めるものを、石も眺める。
同じ。
石と少年は、同じものを見ている。
好ましい。
とても好ましい。
その日、少年は何度もガラス玉を手に取った。
光にかざす。
布で拭く。
転がす。
また棚に置く。
石は、そのたびに目で追った。
ガラス玉は光った。
たくさん、きらきらと。
少年の目も光った。
緑色に、きらきらと。
石は思った。
ガラス玉は、少し少年の目に似ている。
透明で。
光っていて。
中に色がある。
好ましい。
少年の目も好ましい。
ガラス玉も好ましい。
同じ。
石は、その言葉を覚え始めていた。
同じ。
少年と同じ。
石と同じ。
好ましいものと同じ。
それは、好ましい。
とても、好ましい。
夕方になり、少年は帰る支度を始めた。
工具を棚に並べ、花の瓶の水を少し替え、削りかけの木材と金具を布の上に置いた。
それから、ガラス玉を手に取った。
「これは、やっぱり持って帰ろうかな。」
石の中の何かが、少し沈んだ。
持って帰る。
洞窟からなくなる。
ガラス玉がなくなる。
少年が嬉しそうに見ていたものがなくなる。
好ましくない。
けれど少年は、少し考えて首を振った。
「いや、やっぱりここに置いておこう。途中で壊れてもいけないし。」
少年はガラス玉を棚に戻した。
石の中の何かが浮いた。
ここに置く。
洞窟に残る。
好ましい。
少年は洞窟を出ていった。
少年の匂いが遠ざかる。
足音が遠ざかる。
洞窟の中は静かになった。
石はガラス玉を見た。
透明な玉。
中の青い筋。
少年が嬉しそうに見ていたもの。
石は、それを見続けた。
少年がいなくても、ガラス玉は洞窟にあった。
だから少しだけ、少年が残っているような気がした。
それは、とても好ましかった。
次の日も、少年は来た。
その次の日も来た。
少年は洞窟に来るたび、ガラス玉を見た。
時々布で拭いた。
光にかざした。
笑った。
石は、それを見た。
好ましい。
ガラス玉は好ましい。
少年が好ましいと思うものは、石も好ましい。
けれど、ある日。
少年がガラス玉を落とした。
ごとん。
重い音がした。
ガラス玉は少年の手から滑り落ち、棚の板に当たって大きく跳ね、床に転がった。
ごろごろごろ。
転がる。
入口の光を受けて、一瞬だけ青く光る。
それから、洞窟の奥深く、石の方へ転がってきた。
ころ。
石のすぐ前で止まった。
石は見た。
ガラス玉は、石の前にある。
透明で。
青くて。
きらきら。
少年の宝物。
少年はまだ気付いていない。
「あれ?」
少年が棚の近くで目線を巡らせている。
「落ちた。どこにいった?」
少年の声が少し変わった。
弾んでいない。
沈んでいる。
好ましくない。
少年はしゃがんだ。
床を探す。
布を持ち上げる。
枝をどける。
棚の下を見る。
違う。
そこではない。
ここ。
石の前。
ここにある。
石はガラス玉を見た。
少年を見た。
ガラス玉を見た。
少年を見た。
少年は見つけられない。
少年の声が暗くなる。
「まずいな。割れたかな。」
割れた。
石はその言葉を聞いた。
ガラス玉は割れていない。
ここにある。
丸いまま。
青いまま。
きらきらのまま。
教えたい。
石は、そう反応した。
今までにない反応だった。
聞きたい。
見たい。
匂いを知りたい。
それらは、石の中へ入ってくるものだった。
けれど、これは違った。
石の中から、外へ出したいものだった。
ここにある。
ここにあるよ。
少年に届けば、きっと少年の声は明るくなる。
少年は笑う。
少年が笑う。
好ましい。
教えたい。
教えたい。
教えたい。
石は少年を見た。
少年は洞窟の入口近くまで探しに行っていた。
違う。
そちらではない。
ここ。
石の前。
少年の探し物はここ。
石は目を動かした。
ガラス玉を見る。
少年を見る。
ガラス玉を見る。
少年を見る。
でも少年は気付かない。
目だけでは足りない。
耳でも足りない。
鼻でも足りない。
石は聞ける。
見られる。
匂いを受けられる。
けれど、少年へ渡せない。
足りない。
また足りない。
少年が困っている。
好ましくない。
少年の声が沈んでいる。
好ましくない。
少年の探し物がここにあるのに、少年は知らない。
好ましくない。
教えたい。
口があれば。
石は、そう思った。
その瞬間、石の正面が裂けた。
鼻の下。
石の表面に、横長のひびが走った。
ひびはゆっくり広がった。
細く。
長く。
深く。
洞窟の暗さよりも黒い裂け目が、石の顔のような場所に開いていく。
石は顔という言葉を知らなかった。
けれど、そこはもう、ただの石の表面ではなかった。
裂け目の内側から、白いものが覗いた。
一つ。
二つ。
いくつも。
それは石の欠片のようで、骨のようでもあった。
鋭く、小さく、ぎざぎざと並んでいる。
歯だった。
石に口ができた。
口の奥は暗かった。
深かった。
石の中の、どこまで続いているのか分からないほど暗かった。
石は、それを怖いとは思わなかった。
怖い、という言葉は、まだ少ししか分からなかった。
ただ、これで届くと思った。
少年に届く。
少年の声を明るくできる。
それは好ましい。
少年はまだ探していた。
「どこだ。おかしいな、やっぱり割れちゃったか。」
石は口を動かした。
初めての口だった。
どう動かせばいいのか分からない。
けれど、少年の声は何度も聞いていた。
少年が言葉を出す時の形を、石は見ていた。
口を開ける。
空気を震わせる。
声が出る。
石も同じことをしようとした。
同じ。
少年と同じ。
石の口が、ゆっくり開いた。
ぎしり。
石の裂け目が広がる。
白い歯が並ぶ。
奥の暗いところが見える。
空気が入る。
出る。
震える。
「ここに、落ちてるよ。」
声が出た。
少年の声ではない。
風の音でもない。
水の音でもない。
低く、かすれていて、洞窟の奥から這い出るような声だった。
石の声だった。
少年の動きが止まった。
水の音が、ぽたりと落ちた。
少年がゆっくり振り向いた。
緑の目が大きくなる。
口が開く。
顔から色が消える。
石は見た。
少年がこちらを見ている。
初めて。
少年が石を見ている。
石の中の何かが浮いた。
見ている。
少年が見ている。
好ましい。
けれど、少年の声は明るくならなかった。
「……え。」
少年の声は細かった。
好ましくない。
石は、もう一度教えようとした。
ガラス玉はここにある。
少年の探し物は割れていない。
ここ。
ここだよ。
石は口を開いた。
少年は、その口を見た。
ぎょろりとした目。
ひくひく動く鼻の穴。
横に裂けた大きな口。
白く並んだ歯。
洞窟の奥の、暗い石。
少年は息を吸った。
そして、悲鳴を上げた。
「ぎゃあああああっ!」
石の中の何かが、跳ね、固まった。
少年は後ずさった。
足がもつれた。
尻餅をつきかけて、それでも立ち上がった。
ランタンを掴む。
棚にぶつかる。
羽根が落ちる。
木の枝が転がる。
花の瓶が揺れる。
ここ。
ここにあるよ。
石はまだそう言おうとした。
けれど、少年は洞窟の入口へ走った。
足音が乱れていた。
匂いが遠ざかる。
金色の髪が光の中へ消える。
「うわああああっ!」
声が遠ざかる。
足音が遠ざかる。
少年が消える。
洞窟は静かになった。
石は口を開けたまま、入口を見ていた。
少年はいない。
声もない。
匂いも薄くなる。
ガラス玉だけが、石の前にあった。
固くて。
丸くて。
石と少し同じ。
置いていかれた。
石と同じ。
石は、ガラス玉を見た。
それから入口を見た。
少年は戻ってこない。
石は口を閉じようとした。
けれど、うまく閉じられなかった。
初めての口だったから。
ぎざぎざの歯がかちりと鳴った。
その音が洞窟に響いた。
好ましくない。
この口は、とても好ましくない。
少年を驚かせた。
少年の声を細くした。
少年を逃がした。
好ましくない。
とても、とても、好ましくない。
石は、初めて後悔に近いものを感じた。
後悔、という言葉はまだよく知らなかったけれど。
さっきとは違う今にしたい、と思った。
声を出す前に戻りたい。
口ができる前に戻りたい。
少年がガラス玉を探していた時に戻りたい。
そうすれば、声を出さない。
口を開けない。
じっとしている。
少年は困るかもしれない。
でも、逃げない。
少年が逃げるよりは、そちらの方がずっといい。
石はそう思った。
けれど、戻らなかった。
時間は、戻らない。
光は入口から入ってきて、少しずつ赤くなった。
夕方になった。
いつも少年が帰る時間だった。
けれど、少年はもう帰っていた。
いつもの「また明日」はなかった。
石は入口を見ていた。
口はしっかり閉じていた。
もう開けたくなかった。
夜になった。
洞窟は暗くなった。
石は暗いのを知っている。
暗い。
好ましくない。
けれど、今日の暗さはいつもよりずっと沈んでいた。
少年がいない。
好ましくない。
少年が怖がった。
好ましくない。
石が声を出した。
とてもとても好ましくない。
石は何度も考えた。
まだ頭はあまり良くなかったから、同じことを何度も何度も何度も考えた。
教えたかった。
ただ、教えたかった。
少年を困らせたくなかった。
少年の探し物はここにあった。
だから、ここにあるよ、と言った。
少年は逃げた。
なぜ。
なぜ。
石は、少年の顔を思い出した。
大きくなった緑の目。
開いた口。
血の気の引いた頬。
震えた声。
あれは、怖い時の顔だったのだろうか。
石は、怖いという言葉を少し知っていた。
少年は怖かった。
何が怖かったのだろう。
声だろうか。
石だろうか。
口だろうか。
歯だろうか。
石は、自分の口を少しだけ開けた。
暗い中で、歯がかちりと鳴った。
好ましくない。
これはきっと、とても好ましくない。
石はすぐに閉じた。
次の日、少年は来なかった。
光は来た。
葉の音もした。
水も落ちた。
虫も這った。
花の匂いも少し残っていた。
ガラス玉も石の前にあった。
けれど、少年は来なかった。
好ましくない。
その次の日も、少年は来なかった。
雨は降っていなかった。
道も悪くなさそうだった。
風も強くなかった。
それでも少年は来なかった。
好ましくない。
とても、好ましくない。
石は入口を見続けた。
できてしまった口が、何度も開きそうになった。
もし、少年を呼べたら。
石は、少年の名前を知らなかった。
だから呼べない。
でも、呼びたい。
来て。
来て。
来て。
石はそう思った。
けれど、結局口は開かなかった。
声を出したら、少年はまた逃げるかもしれない。
それは好ましくない。
石は口を閉じた。
歯を合わせた。
暗い奥を隠した。
ただの石のふりをした。
耳があって。
目があって。
鼻があって。
口があって。
もう、ただの石ではないのに。
それでも、石はただの石のふりをした。
少年が来るかもしれないから。
少年が来た時に、怖がるかもしれないから。
ガラス玉は、ずっと石の前にあった。
石は、ガラス玉を見た。
ガラス玉は何も言わなかった。
口がないから。
少年を怖がらせなかった。
口がないから。
少年を逃がさなかった。
口がないから。
石は思った。
口など、できなければよかった。
けれど。
口がなければ、少年に教えられない。
教えられなければ、少年は困ったまま。
少年が困るのは好ましくない。
少年が逃げるのも好ましくない。
石は分からなかった。
何をすればよかったのか、分からなかった。
ただ一つだけ分かった。
少年が来ない。
それは、どんなものより好ましくなかった。
石は洞窟の奥で、入口を見ていた。
石は、もう声を出したくなかった。
でも、少年には来てほしかった。
来て。
来て。
来て。
石は、声にしないまま、何度も何度もそう思った。




