第三話 石は、匂いを欲しがった
石に目ができた。
丸く、濡れていて、洞窟の薄闇の中でぎょろりと動く目だった。
石には、それが自分の体にふさわしいものなのかどうか分からなかった。
ふさわしい、という言葉も知らなかった。
ただ、目は好ましかった。
目があると、少年が見える。
少年が入口から入ってくるところ。
少年が板を削るところ。
少年が笑うところ。
少年が考え込むところ。
少年が失敗して、少しだけ口を尖らせるところ。
全部見える。
好ましい。
とても好ましい。
石は毎日、洞窟の奥で少年を待った。
朝、細い光が入ってくる。
好ましい。
昼、光が少し太くなる。
好ましい。
それから、足音。
好ましい。
少年が来る。
とても好ましい。
石は、耳を澄ませた。
目を動かした。
入口を見た。
少年の金色の髪が、光の中に現れる。
緑の目が、洞窟の中を見回す。
「よし、今日もやるか。」
少年はそう言った。
何をするのだろう。
石はまだよく分からなかった。
けれど、少年の声は明るかった。
だから好ましい。
少年は、石のことを知らない。
石に耳があることも。
石に目があることも。
洞窟の奥から、自分の動きがずっと見られていることも。
知らない。
少年は気付かない。
石はそれでよかった。
ただ、見た。
少年が洞窟の中を歩く。
石の目が動く。
少年がしゃがむ。
石の目が動く。
少年が工具を取る。
石の目が動く。
少年が入口の光の方を向く。
石の目も動く。
少年が笑う。
石の中の何かが浮く。
少年が帰る。
石の中の何かが沈む。
その繰り返しだった。
少年は洞窟にいろいろなものを持ってきた。
変な形の木の根。
白い動物の骨や角。
丸い小石や平たい石。
鳥の羽。
大きさの違う金具。
色んな形の工具。
少年は一つずつ並べては、満足そうに眺めた。
「これは竜の骨っぽい。……いや、たぶん鹿だけど。」
竜。
骨。
石はその言葉を覚えた。
「これは染色して合わせたら、飾りになるかな。」
染色。
飾り。
それも覚えた。
「これは……模様が化石っぽいけど、たぶんただの石だな。」
少年はそう言って、小さな石を棚に置いた。
石は、その小さな石を見た。
小さい。
丸い。
動かない。
目もない。
耳もない。
石は少しだけ、その小さな石が気になった。
あれも石。
自分も石。
けれど、あの石には目も耳もない。
自分は、あの石と同じだろうか。
石は考えようとした。
けれど、まだ頭はあまり良くなかったので、すぐにやめた。
少年が笑ったからだ。
少年が笑うと、そちらを見る方が大事だった。
石より、ずっと好ましい。
ある日、少年は花を持ってきた。
白い花だった。
細い茎の先に、小さな花がいくつもついている。
少年はそれを洞窟の入口近くで振った。
「なんか春っぽいな。」
春。
石はその言葉を知らなかった。
けれど、少年の声は弾んでいた。
好ましい。
少年は細い瓶に花を挿した。
瓶には水が少し入っていた。
花は棚の上に置かれた。
洞窟の中に、今までになかったものが増えた。
白い。
小さい。
揺れる。
花。
石はそれを見て分けようとした。
好ましいか。
好ましくないか。
白い花は、光に似ていた。
少し好ましい。
そして、少年が花を見て笑った。
とても好ましい。
とても、とても好ましい。
「いい匂いだな。」
少年はそう言った。
いい匂い。
石は、その言葉を聞いた。
匂い。
知らない言葉だった。
少年は花に顔を近付けた。
息を吸った。
そして、また笑った。
石はそれを見た。
少年は何かを受けている。
目ではない。
耳でもない。
花から出ている何かを、少年は受けている。
そして笑っている。
きっと好ましいものなのだ。
匂い。
好ましいものらしい。
けれど、石には分からなかった。
花は見える。
少年の声も聞こえる。
でも、少年が受けているものが分からない。
足りない。
また足りない。
石の中で、その感覚がじわりと広がった。
少年は花を棚に置いたまま、いつものように木を削り始めた。
時々、花の方を見る。
時々、花に顔を近付ける。
そのたびに、少年の口元が柔らかくなる。
匂い。
少年を笑わせるもの。
石には届かないもの。
好ましくない。
少年が好ましいと思っているものを、自分は知らない。
それは好ましくない。
とても好ましくない。
石は花を見た。
白い花。
細い茎。
小さな葉。
瓶の水。
見える。
けれど、足りない。
見えるだけでは足りない。
聞くだけでも足りない。
知りたい。
石は、またそう思った。
匂いを知りたい。
少年が笑うものを知りたい。
少年と同じものを受けたい。
少年が好ましいと思うものを、自分も好ましいと思いたい。
石の表面が、かすかに軋んだ。
耳ができた時のように。
目ができた時のように。
石の中から、何かが外へ出ようとしていた。
けれど、今回は目ほど大きくなかった。
正面の、目の下あたり。
石のごつごつした表面に、小さなくぼみができた。
くぼみはゆっくり深くなる。
土の中を虫が掘るように。
水が岩を削るように。
少しずつ。
少しずつ。
やがて、そこに穴が開いた。
一つ。
それから、もう一つ。
穴は暗かった。
石の奥へ続いていた。
穴の縁はひくひくと動いた。
石なのに。
石なのに、そこだけ柔らかいもののように動いた。
石に鼻ができた。
その瞬間、世界がまた増えた。
湿った土。
古い水。
木材。
金具。
石。
苔。
虫。
花。
石は、それらを一度に受けた。
多い。
多すぎる。
好ましい。
好ましくない。
分けきれない。
土の匂いは、洞窟に似ていた。
古い水の匂いは、少し重たかった。
木の匂いは、乾いていた。
鉄の匂いは、少し鋭かった。
苔の匂いは、湿っていた。
虫の匂いは、小さくて、動く感じがした。
そして、どこか少し柔らかい匂い。
これだ。
石は思った。
これが、花の匂い。
少年が笑ったもの。
白い花から、柔らかいものが出ている。
それは空気の中を漂って、石の小さな穴に入ってくる。
花の匂い。
好ましい。
とても好ましい。
少年はやはり石の鼻に気付かなかった。
洞窟の奥は暗い。
石はごつごつしている。
穴が二つ増えても、ただのでこぼこした石にしか見えない。
だから少年は気付かない。
石は花の匂いを受けながら、少年を見た。
少年も同じ匂いを受けている。
少年も好ましいと思っている。
同じもの。
石の中の何かが浮いた。
同じ。
少年と同じ。
好ましい。
とても好ましい。
それから、石は匂いを覚えるようになった。
少年が持ってくるものには、それぞれ匂いがあった。
木の枝は乾いた匂いがした。
土のついた小石は、洞窟の外の匂いがした。
鳥の羽は軽い匂いがした。
古い布は、少し少年と同じ匂いがした。
石はその布をよく見た。
薄い茶色。
柔らかく、少しだけ端がほつれている。
少年はそれを棚に敷いた。
石は、その匂いを受けた。
少年の匂い。
石はそれを覚えた。
花とは違う。
土とも違う。
木とも違う。
古い水とも、鉄とも、虫とも違う。
洞窟の外の匂いが少しあった。
乾いた草の匂いが少しあった。
日の光を受けた布の匂いが少しあった。
それから、少年の匂いがあった。
石は、その匂いを分けようとした。
何度も受けた。
何度も覚えた。
これは、少年。
声ではない少年。
形ではない少年。
けれど、確かに少年。
石は、初めて少年の匂いが分かった。
それは、とても好ましかった。
とても、とても好ましかった。
その日から、石は少年が洞窟に来る前に、少年を知るようになった。
足音より先に。
声より先に。
入口の外を風が通る。
草の匂いが入る。
土の匂いが入る。
木の葉の匂いが入る。
その中に、少年の匂いが混じる。
石の中の何かが浮く。
来る。
少年が来る。
足音が遅れて聞こえる。
「今日は風が強いな。」
声がする。
石は入口を見た。
少年が入ってくる。
淡く光る金の髪。
白い肌。
石とは違う、薄く、なめらかに見えるもの。
明るい緑の目。
土で汚れた靴。
少し汗ばんだ首筋。
土と草と風と、少年の匂い。
石は見た。
聞いた。
匂いを受けた。
少年が、前よりはっきり分かる。
好ましい。
これは、とても好ましい。
少年は洞窟に入ると、瓶の花を見た。
「あ、少ししおれてる。」
少年の声が少し沈んだ。
好ましくない。
花は白かった。
けれど、昨日より下を向いていた。
匂いも少し弱くなっていた。
少年は瓶の水を替えた。
「もう少しもつかな。」
少年が花に触れる。
石はその手を見た。
少年の指は細かった。
白い花を、壊さないように動いていた。
花は、少年に動かされていた。
少年の手の中で、少し揺れていた。
少年は花の水を替えると、満足そうに頷いた。
「よし。」
少年が笑った。
石の中の何かも浮いた。
花がある。
匂いがある。
少年が笑う。
好ましい。
けれど数日後、花は枯れた。
白かった花は茶色くなった。
柔らかい匂いは、少し甘く、少し嫌な匂いに変わった。
少年は残念そうに花を見た。
「だめだったか。」
少年の声が沈む。
好ましくない。
石は枯れた花を見た。
花はもう、少年を笑わせない。
花はもう、好ましくない。
少年は枯れた花を瓶から抜いた。
そして、洞窟の外へ持っていった。
花の匂いが遠ざかる。
消える。
けれど、次の日、少年はまた花を持ってきた。
今度は黄色い花だった。
「やっぱり花があると良いな。」
少年は笑って、瓶に花を挿した。
石は匂いを受けた。
昨日とは違う。
白い花より少し強い。
少し明るい。
石はその匂いを好ましいと思った。
少年がまた笑ったから、もっと好ましいと思った。
それから少年は、時々花を持ってくるようになった。
白い花。
黄色い花。
紫の花。
丸い実のついた花。
石は、それらの匂いを覚えた。
けれど、一番よく覚えたのは少年の匂いだった。
少年の匂いがすると、石は浮く。
少年の匂いがしないと、石は沈む。
雨の日は、少年の匂いが来なかった。
石は入口を見ていた。
雨の匂いだけが入ってくる。
好ましくない。
少年の匂いがない。
好ましくない。
石は、雨を少し嫌いになった。
雨が降ると、少年が来ない。
少年が来ないと、洞窟はただの洞窟になる。
足りない。
足りない。
足りない。
石は雨の日、入口を見続けた。
目を閉じることを知らなかった。
耳を塞ぐことも知らなかった。
鼻を止めることも知らなかった。
だから、ずっと探していた。
少年の姿。
少年の声。
少年の匂い。
少年。
少年。
少年。
次の日、雨が止んだ。
土の匂いが強かった。
葉の匂いも強かった。
洞窟の外の全部が濡れているらしかった。
石は入口を見た。
光が入ってくる。
湿った風が入ってくる。
そして、その中に少年の匂いが混じった。
石の中の何かが、一気に浮いた。
来る。
少年が来る。
ぬかるんだ土を踏む音がした。
「昨日は来られなくて悪かった。変わり、ないかな。」
少年は洞窟に入るなり、そう言った。
誰に言ったのだろう。
洞窟にだろうか。
道具にだろうか。
花にだろうか。
石にだろうか。
石には分からなかった。
けれど、少年の声は少し申し訳なさそうだった。
悪かった。
来られなかった。
少年は、来られなかったことを好ましくないと思っているらしい。
石は、そのことを好ましいと思った。
少年も、ここに来ないことを好ましくないと思う。
同じ。
石と同じ。
好ましい。
とても好ましい。
少年は濡れた靴を入口で軽く払った。
それから、洞窟の中へ入ってきた。
いつもより少し奥まで。
石の方へ、少しだけ近かった。
石は少年を見た。
少年の髪が濡れていた。
淡い金色の髪の先から、水が一滴落ちた。
首筋にも水がついていた。
土と雨と少年の匂いがした。
いつもより強い。
石の鼻の穴が、ひくりと動いた。
もっと。
もっと受けたい。
少年の匂いを、もっと。
石は思った。
その時、少年がふと顔を上げた。
石は動かなかった。
目だけが、少年を見ていた。
少年の視線が洞窟の奥をかすめる。
石の目と、合いそうになった。
石の中の何かが固まった。
気付かれる。
少年が気付く。
目。
耳。
鼻。
きっと石にあるはずのないもの。
見つかったら、少年はどうするのだろう。
もしかしたら、来なくなるかもしれない。
それは好ましくない。
とても、とても好ましくない。
少年の視線は、石のすぐ横を通り過ぎた。
「あれ。奥に置いた小石、転がったかな。」
少年はそう言っただけだった。
気付かなかった。
石は、内側の何かがゆっくり戻るのを感じた。
よかった。
何がよかったのかはよく分からない。
けれど、沈んでいたものが浮いた。
少年はそのまま、棚の前に座った。
石からは少し遠い。
でも、匂いは届く。
声も届く。
姿も見える。
石は少年を見た。
聞いた。
匂いを受けた。
少年は濡れた髪を指で払った。
石はその動きを見た。
少年の指。
少年の髪。
少年の首。
少年の息。
全部好ましい。
全部覚えたい。
石は、洞窟の奥でじっとしていた。
ただの石のふりをしていた。
ふり、といっても石は石に変わりない。
けれど、少年に気付かれないように、何もしなかった。
目もなるべく動かさなかった。
鼻の穴も、できるだけ動かさなかった。
それでも、少年が笑うと、目が勝手に少し動いた。
少年が立ち上がると、鼻が勝手に匂いを追った。
石は、自分の中のものが、どんどん少年の方へ寄っていくのを感じた。
石は動けない。
けれど、石の中の何かは、確実に少年の方へ寄っていった。
少年は夕方、洞窟を出ていった。
「また明日。」
石は洞窟の奥で、少年の言葉を聞いた。
金色の髪が光の向こうへ消える。
緑の目が見えなくなる。
足音が遠ざかる。
匂いが薄くなる。
洞窟に残ったのは、花の匂いと、湿った土の匂いと、少しだけ少年の匂いだった。
石は、その少しだけ残った匂いを受け続けた。
消えないように。
なくならないように。
もっと。
もっと。
もっと。
けれど匂いは薄くなった。
少しずつ。
少しずつ。
やがて、分からなくなった。
好ましくない。
とても、好ましくない。
石は、暗い洞窟の奥でじっと入口だけを見ていた。
石は、石だった。
けれど、石の中にはもう、少年がたくさんあった。
声。
形。
匂い。
好ましい。
少年はとても好ましい。
もっと聞きたい。
もっと見たい。
もっと受けたい。
石は、そう思った。




