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第二話 石は、少年を見た

 石に耳ができた。


 小さな穴が二つ。

 石の側面に、ぽっかりと開いた暗い穴だった。


 穴は目立たなかった。

 洞窟の奥は暗かったし、石はもともとごつごつしていた。


 欠けたところ。

 へこんだところ。

 割れたところ。


 穴の一つや二つ、あってもおかしくなかった。

 だから少年は、石の耳に気付かなかった。


 石は、それでよかった。


 少年が来る。

 声がする。

 石は聞く。


 それだけでよかった。


 耳ができてから、洞窟は静かではなくなった。


 天井から落ちる水の音。

 入口の外で揺れる葉の音。

 小さな虫が壁を這う音。

 風が洞窟の口を撫でる音。

 遠くで鳥が鳴く音。


 洞窟の奥は、音で満ちていた。


 石は、じっとそれらを聞いた。

 聞いたけれど、多すぎた。


 水の音。

 葉の音。

 虫の音。

 風の音。

 鳥の音。


 どれも違う。

 違うけれど、まだ何が何なのかは分からなかった。


 好ましい。

 好ましくない。


 石にはまだ、その二つしかなかった。


 水の音は、とても小さい。

 好ましくも、好ましくなくもない。


 葉の音は、少し好ましい。

 虫の音は、時々好ましくない。


 風の音は、光が入る時に似ていた。

 好ましい。


 けれど、その中で一番好ましいものは決まっていた。

 少年の声だった。


 少年はほとんど毎日、洞窟へ来た。

 雨の日は来なかった。

 風が強い日も、少し遅かった。


 けれど、晴れた日には、だいたい同じ頃にやって来た。


 ざく。

 ざく。

 ざく。


 足音が近付く。

 石の中の何かが浮く。


 少年が来る。


 石はもう、それを覚えていた。


「よし、今日も変わりないな。」


 少年は洞窟の入口でそう言った。

 石には、言葉の意味は分からなかった。


 けれど、その声は明るかった。


 だから好ましい。

 とても好ましい。


 少年は洞窟に入ると、いつも内側をぐるりと歩く。

 石には見えない。

 けれど、足音の向きで分かる。


 右へ行く。

 左へ行く。

 真ん中で止まる。

 しゃがむ。

 立つ。

 何かを置く。

 何かを拾う。


 少年は洞窟を少しずつ変えていった。


 木の板や枝を置いた。

 道具を並べた。

 古い布を掛けた。

 小さな金具を箱に入れた。


「これは棚の材料。」


 こつん。


「これは机にしようか。」


 ごとり。


「これは……工具に加工してみるか。」


 からん。


 石は、音で物を覚えた。


 軽いもの。

 重いもの。

 硬いもの。

 転がるもの。


 少年が大切そうに置くもの。

 少年が少し迷って置くもの。

 少年が満足して笑うもの。


 それらは、全部違う音を立てた。


 石は聞いた。

 聞いて、分けた。

 石の中に、少しずつ違いが増えた。


 前は、光と暗さだけだった。

 次に、声と声ではないものができた。

 今は、少年の足音と、少年の声と、少年が持ってくるものの音がある。


 石の世界は少しずつ増えていった。


 増える。

 それは好ましかった。


 少年はよく喋った。

 誰かに聞かせるためではなく、自分の頭の中を外へ出しているようだった。


「父上、また遺跡の話をしてたな。やっぱり、領地運営よりそっちの方が楽しいんだろうな。」


 父上。

 石はその音を覚えた。


「母上にここが知られたら、きっと怒られる。」


 母上。

 石はその音も覚えた。


「剣も馬術も嫌いじゃないけど、やっぱり学術が一番退屈しないな。」


 剣。

 馬術。

 学術。


 石は、まだ意味を知らない。

 けれど、少年の声は、言葉ごとに少しずつ形を変えた。


 父上、の時は少し低い。

 母上、の時は少し柔らかい。

 学術、の時は少し弾む。

 退屈、の時は沈む。


 石は、その違いを聞いた。


 声には形がある。

 声には色がある。

 声には、好ましい時と、好ましくない時がある。


 少年が笑う声は、とても好ましい。

 少年がため息をつく声は、好ましくない。

 少年が悔しそうに唸る声は、少し好ましくない。


 でも、その後に笑うなら、好ましい。


 石は、少年の声をよく聞いた。


 洞窟の外で鳥が鳴いても。

 雨が降っても。

 水が落ちても。

 虫が這っても。


 少年の声だけは、間違えなかった。

 少年の声は、石の中にまっすぐ入ってきた。


 ある日、少年は洞窟の中で木の枝を削っていた。


 刃物が木を撫でる音。

 少年は鼻歌を歌っていた。


 歌。


 石は、その日初めて歌を聞いた。


 言葉のようで、言葉ではない。

 声なのに、いつもの声と違う。


 上がる。

 下がる。

 伸びる。

 揺れる。


 石の内側の何かが、その揺れに合わせて小さく動いた。


 好ましい。

 とても好ましい。


 石は、歌をもっと聞こうとした。


 少年は枝を削りながら言った。


「削り馬、難しいけど、作れたら格好いいよな。」


 少年の声が弾んでいた。

 好ましい。


 少年が嬉しい。

 好ましい。


 石は、少年が嬉しい時の声を好んだ。

 少年が楽しい時の声を好んだ。

 少年が一人で何かに夢中になっている時の、少し早口になる声を好んだ。


 けれど、石にはまだ少年の姿が分からなかった。

 目がないから。


 耳はある。

 声は聞こえる。

 足音も分かる。

 少年が近くにいるか、遠くにいるかも分かる。

 座っているか、立っているかも、少し分かる。


 でも、見えない。


 声の主は、どんなものなのだろう。

 少年は、どんな形をしているのだろう。


 光は入口から入ってくる。

 声はあちこちから来る。

 足音は床から来る。


 けれど、少年そのものは分からない。


 石は、それを好ましくないと思った。


 足りない。

 また、足りない。


 声は聞こえる。

 でも、声だけでは足りない。


 少年が笑う。

 笑う声は分かる。

 けれど、笑うとは何だろう。


 少年が驚く。

 驚いた声は分かる。

 けれど、驚くとはどんな形だろう。


 少年が疲れて座る。

 布が擦れる音は分かる。

 けれど、少年はどこにどう座っているのだろう。


 知りたい。


 石の中に、新しい反応が生まれた。


 光へ寄りたい、とは少し違う。

 声を聞きたい、よりも少し強い。


 知りたい。

 声の主を知りたい。

 見たい。


 まだ、見るという言葉は知らなかった。

 けれど、石は強くそう反応した。


 知りたい。

 声の主。

 少年。

 少年を。


 その日から、石は少年が来るたび落ち着かなくなった。


 少年の声が近くで聞こえる。

 好ましい。

 でも、見えない。

 好ましくない。


 少年が笑う。

 好ましい。

 でも、その笑う形が分からない。

 好ましくない。


 少年が石のすぐ近くに物を置いた。

 こつん、と音がした。

 少年のなにかが、きっと近くにある。


 石は手を知らなかった。

 けれど、物を持つ何かが少年にはあるらしい。

 それも見たい。


 少年が入口の近くで伸びをした。


「今日は暑いな。」


 少年がどこかを拭う音がした。

 布が肌を擦る、柔らかい音。

 石は、その音を聞いた。


 見たい。


 石の中で、それが大きくなった。


 見たい。

 見たい。

 見たい。


 石は動けなかった。

 少年の方へ転がれない。

 ただ、洞窟の奥で、声を受けるだけだった。


 それが急に、とても好ましくなくなった。


 声は届くのに。

 少年はいるのに。


 足りない。

 足りない。

 足りない。


 ぴしり。


 石の正面に、細いひびが入った。

 耳ができた時よりも、深いひびだった。

 石の表面が、内側から押された。


 ゆっくりと。

 ゆっくりと。


 何かが、石の外へ出ようとしていた。


 石はそれを止めなかった。

 止めるという考えもなかった。

 ただ、足りなさの方へ、体が変わっていった。


 ひびが開いた。

 丸いものが奥から覗いた。

 一つ。そしてもう一つ。

 濡れていた。

 石なのに、そこだけ濡れていた。


 暗い洞窟の中で、ぎょろりとした二つの丸いものが動いた。


 石に目ができた。


 強い。

 白い。

 明るい。


 これは光。


 石は初めて、光を見た。


 光は、触れるものではなかった。

 光は、見えるものだった。


 最初、世界はただ白く、ぼやけていた。

 次第に、色が現れた。

 光の中で、細かいものが舞っている。


 暗いもの。

 黒いもの。

 灰色のもの。


 洞窟の壁。

 湿った土。

 小さな石。


 それらを照らし、形にする光。

 入口から差し込む、明るい光。


 石はしばらく、入口の光を見ていた。


 まぶしい。


 まぶしい、という言葉はまだなかった。

 けれど、強すぎる明るさは少し好ましくなかった。


 石は目を少し動かした。

 動いた。

 石の体は動かないのに、目だけが動いた。


 右。

 左。

 上。

 下。


 世界がずれた。


 石は驚いた。

 驚いた、という言葉はまだなかった。

 けれど、内側の何かが跳ねた。


 見える。

 動かなくても、見えるところが変わる。


 石は目を動かした。


 木の板。

 掛けられた布。

 置かれた陶器や金具。


 音で覚えていたものに、形ができた。


 木の板は細長い。

 布は柔らかく、ふにゃふにゃしている。

 陶器は白く、硬そうだった。

 金具は、少し尖って光っていた。


 石は見た。

 見た。

 見た。


 そして、少年を探した。


 少年の足音は、洞窟の入口近くにあった。

 声もそこからした。


「ここにも棚を作ろうかな。」


 石は目を入口の方へ向けた。


 光の中に、何かがいた。

 動くものだった。


 長いもの。

 曲がるもの。

 白いもの。

 金色のもの。

 黒く汚れたところ。

 光を受けて明るいところ。


 石より高い。

 石より細い。

 石よりずっと、たくさん動く。


 少年だった。


 石は、少年を見た。


 淡い金色の髪。

 入口から入る光を受けて、明るい。


 白い頬。

 そこに土の色が少しついている。


 細い首。

 白いシャツ。

 伸びる腕。

 曲がる指。

 膝までのズボンから覗く、まっすぐな足。


 動く口元。


 そして、目。


 少年の目は、緑色だった。

 洞窟の外の葉よりも澄んでいた。


 少年が棚に並べていたものの中に、色のついた小石があった。

 けれど、それよりもずっと明るかった。

 ずっと、光を含んでいた。


 石の内側が、色を持って膨らんだ。

 それはきっと、少年の目と同じ緑だった。


 好ましい。

 とても好ましい。


 光も好ましかった。

 声も好ましかった。


 けれど、少年の姿は、そのどれよりも強く石を揺らした。


 光の中で。

 声を出して。

 動いて。

 笑っていた。


 少年が笑うと、口の形が変わることを石は知った。

 少年が考えると、眉が少し寄ることを石は知った。

 少年が何かに夢中になると、緑の目がさらにきらきらすることを石は知った。


 声には形があった。

 声の主にも、形があった。


 石は、ずっと少年を見た。


 少年は気付かなかった。

 洞窟の奥で、石にぎょろりとした目ができていることに。

 その目が、自分だけを追っていることに。


 気付かなかった。


 少年は棚作りに夢中だった。

 木の板を運び、ナイフで削り、組み合わせ、釘を打つ。


 うまくいくと笑った。

 失敗すると唸った。

 またやり直した。


 石は全部見た。


 少年が失敗する。

 少し好ましくない。

 少年がやり直す。

 好ましい。

 少年が笑う。

 とてもとても好ましい。


 見える。

 少年が見える。


 石の中の何かが、何度も何度も、耳ができた時よりも大きく浮いた。


 世界は増えた。

 音だけではなかった。

 光だけでもなかった。


 形がある。

 色がある。

 動きがある。

 少年がいる。


 少年は夕方まで洞窟にいた。

 そして、帰る時間になると、棚の前で満足そうに頷いた。


「また明日、続きをしよう。」


 また明日。


 石はその音を聞いた。


 明日。

 それは、少年が戻ってくるという意味らしかった。


 好ましい。

 とても、好ましい。


 少年は洞窟を出ていった。


 足音が遠ざかる。

 金色の髪が光の中から消える。

 緑の目が見えなくなる。

 声も消える。

 洞窟は暗くなっていく。


 石の内側の何かが沈んだ。

 けれど、前ほど深くは沈まなかった。


 また明日。

 少年はそう言った。

 明日、少年は来る。


 石は暗い洞窟の奥で、目を閉じることも知らず、入口を見ていた。


 石は、石だった。

 口もなかった。

 手も足もなかった。


 けれど、石の中にはもう、少年の声と形があった。


 好ましい。

 少年は好ましい。

 とてもとても好ましい。


 もっと聞きたい。

 もっと見たい。

 もっと、少年を知りたい。


 石は、そう思った。

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