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第一話 石は、音を欲した

 石があった。

 閉ざされた、暗い洞窟の奥にあった。


 高さは、人の膝より少し高いほど。

 丸いようで、丸くはない。

 ごつごつしていて、冷たくて、重くて、動かない。

 石だった。


 石は、何も考えなかった。


 暗いとも思わなかった。

 寂しいとも思わなかった。

 寒いとも、怖いとも、退屈だとも思わなかった。


 なぜなら、石だったから。


 石はずっとそこにあった。

 どれほど長くそこにあったのか、石は知らない。


 洞窟の奥は、いつも同じだった。

 暗く、湿っていて、静かだった。


 けれど、石はそれを知らなかった。

 知らないものは、ないのと同じだった。


 石は、何も持たなかった。


 目もない。

 耳もない。

 鼻もない。

 口もない。

 手もない。

 足もない。


 石は、ただそこにあった。

 ただ、そこにあるだけのものだった。


 ある日、山が揺れた。

 どん、と。


 地面の奥の奥で、大きな何かが身じろぎをした。

 洞窟が震えた。

 天井から砂が落ちた。

 壁が軋んだ。


 入口を塞いでいた大きな岩が、ゆっくりと外れた。

 それから崩れた。


 石は、もちろんそれを見なかった。

 聞かなかった。

 怖がりもしなかった。


 けれど、洞窟の中の何かが変わった。


 ずっと暗かった場所に、細いものが入ってきた。

 白く、淡く、薄いものだった。


 それは、入口からまっすぐ伸びて、洞窟の地面に落ちた。

 地面の小石を照らした。

 湿った土を照らした。

 古い枯れ枝を照らした。

 そして、洞窟の奥の石の前まで届いた。


 石は、初めてそれを受けた。

 光だった。


 石は、光を知らなかった。

 けれど、光は石の表面に触れた。


 暗い。

 明るい。


 石の中に、ほんの小さな違いが生まれた。


 それは考えではなかった。

 言葉でもなかった。

 ただの偏りだった。


 暗い。

 明るい。

 暗い。

 明るい。


 石の内側の、何もなかった場所で、何かがわずかに動いた。

 明るい方。


 石は動けなかった。

 けれど、石の中の何かは、明るい方へ寄った。


 ほんの少し。

 石の内側の何か。

 誰にも分からないほど。

 けれど、確かに。


 明るい、方。

 それが、好ましい。


 石は、そう思った。

 思った、というにはあまりにも小さな反応だった。

 けれど、その小さな反応は、石にとって初めてのものだった。


 好ましい。

 好ましくない。


 石の世界に、初めて二つができた。


 光がある。

 好ましい。

 光がない。

 好ましくない。


 それから、光は毎日やってきた。


 朝になると、洞窟の入口から細く入ってきた。

 昼になると、少し太くなった。

 夕方になると、弱くなって、やがて消えた。


 石は、朝を知らなかった。

 昼も知らなかった。

 夜も知らなかった。


 けれど、光が来る時と、来ない時があることは覚えた。


 光が来る。

 好ましい。

 光が消える。

 好ましくない。


 石は動けなかった。


 光に向かって転がることもできなかった。

 光を追うこともできなかった。

 ただ、洞窟の奥で、光が来るのを受けるだけだった。


 それでも、石は光を待つようになった。

 待つ、という言葉はもちろん知らなかった。


 けれど、光のない時間に、石の内側の何かは小さく沈んだ。

 光が来ると、また少しだけ浮いた。


 沈む。

 浮く。

 好ましくない。

 好ましい。


 石はそれを何度も繰り返した。


 雨の日は、光が弱かった。

 洞窟の入口はぼんやりと白く、石のところまで届くものも薄かった。

 石の内側の何かは、あまり浮かなかった。


 曇りの日も、そうだった。


 よく晴れた日だけ、光は洞窟の奥までまっすぐ入ってきた。

 その時、石の表面はほんの少し温かくなった。


 温かい。


 石は、まだその言葉も知らなかった。

 けれど、光がある時の感覚は、光がない時と違った。


 好ましい。

 とても、好ましい。


 石は、明るい方へ寄りたいと感じた。

 けれど、寄れなかった。

 石だから。


 石は動かない。

 石は追わない。


 そういうものだった。


 それなのに、石の中の何かは、光が消えるたびに、小さく沈んだ。

 そして、次に光が来ると、また小さく浮いた。


 何度も。

 何度も。

 長い時間をかけて。


 石は、光を覚えた。


 ある日、どこか温かな振動が伝わった。

 風かもしれなかった。


 石には、まだ風という言葉もなかった。

 けれど、石の中のなにかは微かに浮かんだ。


 その後、何か光とは違うものが洞窟へ入ってきた。


 それは、触れなかった。

 光のように温かくもなかった。

 けれど、洞窟の床を震わせた。


 ざく。

 ざく。

 ざく。


 石は、その震えを底で受けた。


 光ではない。

 雨でもない。

 天井から落ちる砂でもない。

 知らないもの。


 ざく。

 ざく。

 ざく。


 それは入口の方から近付いてきた。


 石は何も見えなかった。

 目がなかったから。

 石は何も聞こえなかった。

 耳がなかったから。


 けれど、床を伝ってくる小さな震えだけは、石の底に届いた。


 近付く。

 止まる。

 また近付く。


 石の内側の何かが、光の時とは違う動きをした。

 光とは違う。

 これは。


 好ましいか。

 好ましくないか。

 石は、分けようとした。


 震えは洞窟の中で止まった。

 しばらく、何もなかった。

 それから、洞窟の空気が大きく震えた。


「すごい。本当に洞窟だ。」


 大きな震え。

 石の表面がそれを受けた。


 石はまだ声を知らなかった。

 ただ、震えがあった。

 光よりも複雑で、雨よりも細かく、砂よりも柔らかい震えだった。


 石の内側の何かが、強く浮いた。


 好ましい。

 それは好ましかった。


「こんなところにあったんだ。父上に言ったら、絶対についてくるな。……言わないでおこう。」


 震えは続いた。

 石は、その震えを受けた。

 一つではない。


 高くなった。

 低くなった。

 弾んだ。

 止まった。

 また動いた。


 光は、ただ明るいだけだった。

 けれど、この震えには、いくつも形があった。


 石の中の何かが、その形を追おうとした。

 けれど、追いきれなかった。


 ぼやけている。

 遠い。

 底に届く頃には、もう少しだけ崩れている。


 もっと近くで受けたい。

 もっと細かく分けたい。

 もっと、その形を知りたい。


 足りない。

 石は、初めて足りなさを感じた。


 足りない。

 好ましくない。


 もっと。

 もっと受けたい。

 もっと知りたい。

 もっと、あの震えを。


 何かは洞窟の中を歩き回っているようだった。


 床を踏む震えがした。

 小石を蹴る震えがした。

 何かを拾う震えがした。


「よし。ここは作業場にするか。」


 石には音は聞こえない。

 意味も分からなかった。

 けれど、震えが少し弾んだことは分かった。


 弾む。

 好ましい。


 何かはしばらく洞窟にいた。

 そして、やがて出ていった。


 遠ざかる。

 震えが小さくなる。

 薄くなる。

 消える。


 洞窟はまた静かになった。

 光は残っていた。

 けれど、さっきの震えはなかった。


 石の内側の何かがゆっくりと沈んだ。

 光があるのに、沈んだ。

 石はなぜか足りなくなった。


 光がある。

 好ましい。

 けれど、あの震えがない。

 好ましくない。


 この時、石の中に、二つの好ましいができた。


 光。

 震え。


 光は戻ってくる。

 消えても、また来る。


 では、震えも戻ってくるのだろうか。


 石は知らなかった。

 何一つ。


 知らなかったから、ただ待った。

 光を待つ時と同じように。


 けれど、光を待つ時より、なぜか足りなかった。

 たくさん、足りなかった。


 光が消えた。

 震えは来ない。

 光が来た。

 震えは来ない。

 また光が消えた。


 石は待った。

 それしかできないから、ただ待った。


 ざく。

 ざく。

 ざく。


 石の内側の何かが、強く浮いた。

 来た。


 石は、そう反応した。

 前の震えと同じものだと分かった。


「よし。始めるか。」


 震えが弾んでいる。

 好ましい。


「でも少し暗いな。」


 小さな震え。

 それでも、震えは続いている。


「……とりあえず置いていこう。」


 何かが洞窟へ置かれ始めた。


 かたり。

 ことり。

 ずる。


 小さな震えが床を伝う。


 軽い震え。

 重い震え。

 固い震え。

 柔らかい震え。


「ここは工具と釘と……まあ細かいのは全部こっちでいいか。」


「あそこには棚を作った方が良いな。」


「火を起こすのは……いや、洞窟の中では控えるべきか。」


「父上はまず地層を見ろって言ってたけど。……状態からしてかなり古そうだよな。」


 石は震えを受けた。

 受けた。

 受けた。

 もっと受けたい。


 石の中の足りなさが大きくなった。

 今のままでは、少ししか分からない。


 震えがある。

 形がある。

 けれど、ぼやけている。


 もっと細かく。

 もっとはっきり。

 もっと近く。


 もっと。

 もっと。

 もっと。


 その時、石の表面に小さなひびが入った。

 ぴしり、と。


 光の当たらない側面に、細いひびが走る。

 そこが、ゆっくりとへこんだ。

 へこみの奥に、暗い穴が開いた。


 小さな小さな穴だった。

 石の中へ続く穴。

 震えを、もっと奥まで受けるための穴。


 一つ。

 それから、もう一つ。


 石の側面に、ぽっかりと二つの暗い穴が開いた。

 それは、たしかに耳だった。


 その瞬間、世界が変わった。

 音の洪水が、石の内側へなだれ込んだ。


 最初は、何も分からなかった。


 ぐるぐると回る。

 重なる。

 ぶつかる。

 広がる。


 洞窟の中が、こんなにも満ちていたことを、石は知らなかった。


 ざあ、と洞窟の外で葉が揺れる音。

 ぽたり、と天井から水が落ちる音。

 かさり、と布が擦れる音。

 小石が転がる音。


 そして。

 少し高い。

 弾む。

 柔らかい。


 それは、少年の声だった。


 石の内側が大きく膨らんだ。

 ざあっと盛り上がり、音に合わせて揺れる。


「よし。完璧だ。」


 少年が言った。

 弾む声。


 石の内側も弾んだ。

 膨らんだ。

 揺れた。


 もう、床を伝う震えではなかった。

 ぼやけたものでもなかった。


 声。


 はっきりと、石の中へ入ってくるもの。

 形を持った震え。

 柔らかく、明るく、いくつにも分かれて、また一つになるもの。


 石の内側の何かが、今までで一番大きく浮いた。


 好ましい。

 好ましい。

 とても、好ましい。


 声が聞こえる。

 少年の声が聞こえる。


 石は、洞窟の奥で動かなかった。

 動けなかった。

 ただ、耳だけがあった。


 小さな穴が二つ。

 暗い石の側面に、ぽっかりと開いていた。


 石は、初めて少年の声を聞きながら、じっとそこにあった。


 少年の声。

 好ましい。


 もっと。

 もっと。

 もっと聞きたい。


 石は、そう思った。

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