↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/28

第二十八話 石は、リボンをもらった

 秋は、少しずつ深くなっていた。

 セラは、秋という言葉を覚えた。


 葉が赤くなる季節。

 風が冷たくなる季節。

 虫の声が細くなる季節。

 エリアスが来る時、少し厚手の上着を着る季節。

 日が短くなる季節。

 そして、エリアスが帰る時間が少し早くなる季節。


 それは、少し好ましくなかった。


 エリアスはたとえ短い時間でも毎日来た。

 来ない日はほとんどなかった。

 けれど、洞窟にいられる時間は前より少しずつ短くなった。


「暗くなるのが早いんです。」


 エリアスはそう言った。


「山道が見えなくなると危ないので。」


 危ない。

 それは好ましくない。


 だから、エリアスは早く帰る。

 エリアスが危なくないように。

 それは好ましい。


 でも、早く帰る。

 それは好ましくない。


 セラはその二つを、前よりうまく抱えられるようになっていた。


 両方ある。

 どちらも本当。


 エリアスが安全であることは好ましい。

 エリアスが早く帰ることは好ましくない。


 複雑。


 セラは、複雑という言葉をもう何度も使っていた。

 複雑は、セラの中に増え続けている。


 言葉が増える。

 考えることが増える。

 欲しいものが増える。

 我慢することが増える。

 恥ずかしいも増える。


 寂しいも、少しずつ分かるようになった。


 寂しい。

 それは、エリアスがいない時の洞窟の静かさに似ていた。


 でも、ただ静かなだけではない。


 エリアスがいた場所を覚えているのに、そこにエリアスがいないこと。

 エリアスの声を思い出せるのに、今は聞こえないこと。

 エリアスの手が触れた場所を覚えているのに、もう温かくないこと。


 それが寂しい。

 セラは、そう理解し始めていた。


 秋の終わりが近付くにつれて、セラの姿もまた変わっていった。


 髪は少し伸びた。

 最初は石の針のようだった黒いものが、少しずつ細く、柔らかくなった。

 まだ人間の髪ほどではない。

 けれど、揺れるようになった。

 エリアスが櫛を入れると、少しだけ流れた。


 肩も細くなった。

 腕も前より人間に近付いた。

 指はまだ長いが、前より丸くなった。

 口の裂け目は短くなり、歯も普段は隠せるようになった。

 目は少し大きいままだったが、動かし方を覚えた。


 じっと見つめすぎない。

 急に動かさない。

 嬉しい時も、すぐに目を大きくしない。

 エリアスが赤くなった時は、少し目を伏せる。


 そうすると、エリアスは怖がらない。

 そして時々、柔らかく笑う。


 セラはその笑顔も好きだった。


 好き。

 もう、セラはその言葉を何度も使っていた。

 それでも、好きが何なのかを全部分かっているわけではなかった。


 エリアスが笑うと嬉しい。

 エリアスが離れると寂しい。

 エリアスが他の人間の話をすると、少し苦しい。

 エリアスが自分のためだけに来ると言うと、体の中が明るくなる。

 エリアスが髪を整えてくれると、恥ずかしい。

 でも、やめてほしくない。


 それらをまとめて、好き、と言うのだろうか。

 セラはまだ分からない。


 でも、エリアスが好き。

 それだけは分かっていた。


 ある日、エリアスは小さな包みを持ってきた。

 クッキーの包みとは別だった。

 布に包まれた、細長いもの。

 セラはそれを見た。


「お礼?」


 セラが聞くと、エリアスは少し笑った。


「お礼、というより……贈り物、でしょうか。」


 贈り物。

 新しい言葉だった。


「贈り物?」


「相手にあげたいと思って渡すものです。」


「お礼と違う?」


「似ています。でも、お礼は何かをしてもらった返しです。贈り物は、ただ渡したいから渡すこともあります。」


 ただ渡したいから。

 セラは、その言葉をゆっくり受け取った。


 エリアスが、セラに。

 ただ渡したいから。

 それは、とても好ましい気がした。


「セラに?」


「はい。セラに。」


 名前。

 贈り物。

 セラに。


 セラの中が浮いた。


 エリアスは包みを開いた。

 中に入っていたのは、綺麗な緑色のリボンだった。

 光を受けて、少し光る明るい緑色の生地。

 布地には、白い花のような模様がたくさん入っていた。


 緑色のリボン。

 エリアスの瞳は緑色。

 同じ。


 セラはじっとリボンを見つめた。


「その、髪に結べると思って。」


 エリアスは少し照れたように言った。


「まだ短いところもありますが、少しなら。」


 髪。

 リボン。

 少女。


 セラは、自分の頭に手をやった。

 黒い髪。

 エリアスが何度か櫛で整えてくれた髪。

 それに、リボン。


 しかもエリアスの目と同じ緑色。


 セラの中が浮いた。

 内側がぶわりと膨らんだ。


 けれど、すぐに別のものも浮かんだ。


「あの子の?」


 言ってから、セラは口を閉じた。

 あの子。


 桃色のリボンの少女。

 エリアスの袖に触れた少女。

 エリアスの隣に自然に立った少女。


 名前は、知っている。

 けれど、呼びたくなかった。


 エリアスは一瞬、目を見開いた。

 それから、少し困ったような、怒ったような顔をした。


「……違います。」


 セラは沈んでいたものが少し軽くなるのを感じた。


 違う。

 あの子のものではない。

 好ましい。

 とても好ましい。


 けれど、そう聞いてしまったことが恥ずかしくなった。


 あの子のものなら嫌だった。

 その気持ちを、エリアスに知られた。

 恥ずかしい。


 醜い。

 見られたくない。

 セラは目を伏せた。


「ごめんなさい。」


 エリアスは少し驚いた。


「どうして謝るんですか?」


「嫌だと思った。あの子のリボンなら、嫌だと思った。」


 言葉は前より滑らかになっていた。

 けれど、そのぶん、自分の中の黒いものもはっきり伝わってしまう。

 セラは胸のような場所を押さえた。


「悪い子ではないのに。嫌だと思った。これは、とても醜い。」


 エリアスは黙った。

 セラは見られたくなくて、けれど見てほしくて、結局目を伏せたまま口を閉じた。


 エリアスはゆっくり近付いた。


「セラ。」


 名前。

 セラは少しだけ浮いた。


「あの子のものではありません。」


 エリアスは少しだけ視線を彷徨わせた。

 それから、少し目を逸らして言った。


「街で見かけて、君に似合うと思って。あの、決して色で選んだわけではありません。」


 エリアスは小さく咳払いした。


「緑色は偶然です。」


「うん。」


「それから。」


 エリアスは少し言葉を選んだ。


「嫌だと思うことは、醜いとは違います。」


 セラは目を上げた。


「違う?」


「違います。あの子を傷付けたいと思っているわけではありませんよね。」


「傷付けたくない。」


「なら、気持ちの置き場所が、少し分からなかっただけです。」


 気持ちの置き場所。


 気持ち。

 置き場所。

 自分の中に増えて、重くなって、どうすればいいか分からないもの。

 それには置き場所が必要らしい。


「エリアスは、置き場所を知ってる?」


 セラが聞くと、エリアスは苦笑した。


「僕も、よく分かりません。」


「エリアスも?」


「はい。僕もです。」


 同じ。

 少し同じ。

 セラの中が少しだけ軽くなった。


 エリアスも、自分の気持ちを全部分かっているわけではない。

 エリアスも、置き場所を探す。

 それは少し安心した。


 エリアスはリボンを手に取った。


「結んでも、いいですか?」


 触る。

 髪。

 リボン。


 セラは恥ずかしくなった。

 でも、嬉しい。

 とてもとても嬉しい。


 人間の少女のように。

 エリアスがいつも髪を整えてくれるように。

 セラは小さく頷いた。


「お願いします。」


 お願いします。

 それは、エリアスが教えてくれた丁寧な言葉だった。


 何かを頼む時。

 相手にしてほしい時。

 欲しいものを、掴まずに言葉で渡す時。


 エリアスはその言葉を聞いて、少し嬉しそうにした。


「上手です。」


 上手。

 セラは浮いた。


 エリアスはセラの後ろに回った。

 以前なら、背後に誰かがいるということを、セラは気にしなかった。


 今は違う。

 エリアスが後ろにいる。

 自分には見えない。


 けれど、匂いがする。

 息が近い。

 手が髪に触れる。


 セラは動かなかった。

 動くと、エリアスが結びにくい。


 エリアスの指が、セラの黒い髪をすくった。

 まだ不揃いな髪。

 石の粉が少し残る髪。

 エリアスは丁寧に櫛を入れた。


 引っかかる。

 止まる。

 また少しずつ動かす。


 痛くはない。

 でも、胸の奥がくすぐったいような、苦しいような感じがする。


 恥ずかしい。

 嬉しい。


 静かにしていたい。

 振り向きたい。

 複雑。


 エリアスは黙っていた。

 いつもなら、説明しながら動く。

 けれど今日は、少し口数が少なかった。


 セラの髪に触れているからだろうか。

 それとも、セラがあの子のリボンなら嫌だと言ったからだろうか。

 エリアスの指も、少し緊張しているように感じた。


 やがて、髪の一部が緑のリボンで結ばれた。

 高い位置ではない。

 横の方に、小さく。


 リボンは固い髪のせいで少し歪んでいた。

 けれど、結ばれていた。


「できました。」


 エリアスが言った。

 セラはすぐに曇った金属片の前へ行きたくなった。


 見たい。

 でも、見たくない。


 怖かったらどうしよう。

 醜かったらどうしよう。

 変だったらどうしよう。


 どうしよう。

 その言葉も、セラは覚えていた。

 不安な時に、人間がよく使う言葉。


 セラは金属片の前へ、ゆっくり歩いた。

 足は前より滑らかに動くようになっていた。


 エリアスが見ている。

 だから、転ばないように。

 人間らしく。

 少女らしく。


 金属片に、自分が映った。


 黒い髪。

 緑色のリボン。

 石の肌。

 大きな目。

 硬い手。

 まだ歪な肩。


 まだ人間ではない。

 でも、先ほどより少しだけ、少女に近い。


 リボンの分だけ。

 エリアスが結んだリボン。


 恥ずかしい。

 嬉しい。

 苦しい。


 もっと綺麗ならよかったのに。

 もっと人間ならよかったのに。

 もっと、エリアスが困らずに見られる姿ならよかったのに。


 けれど、リボンは好ましかった。

 とても好ましかった。


「似合う、という言葉があります。」


 エリアスが後ろから言った。


 似合う。

 新しい言葉。


「にあう?」


「その人に合っていて、好ましく見えることです。」


 その人に合っている。

 好ましく見える。

 セラはリボンを見た。


「セラに、似合う?」


 エリアスは少し赤くなった。

 でも、目を逸らさなかった。


「……はい。とても、似合っています。」


 セラの中が明るくなった。

 強く。

 けれど、その明るさが恥ずかしくて、セラは目を伏せた。


「似合う、好ましい。」


「はい。好ましいです。」


「エリアスがくれた。もっと好ましい。」


 エリアスの頬がさらに赤くなった。


「そういうことを、まっすぐ言うところは、まだセラですね。」


 セラはエリアスを見た。


「人間らしくない?」


「いえ。」


 エリアスは首を振った。


「とても、セラらしくて、好ましいです。」


 セラらしい。

 それは人間らしいとは違う。

 少女らしいとも違う。

 セラらしい。

 セラはその言葉を、慎重に受け取った。


 以前なら、人間らしくないと言われた気がして沈んだかもしれない。

 でも、今は少し違った。


 セラらしい。

 好ましい。


 エリアスがそう言う声は、とても優しかった。

 どこか、甘かった。

 だから、これは好ましい。


 セラは、セラのままで、いつか少女になれるだろうか。

 エリアスが名前をくれたセラのまま。

 リボンをつけた少女に。


 分からない。

 まだセラは少女よりも、石の怪物にずっと近い。


 でも、いつか、そうなりたいと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。