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第二十七話 石は、髪が欲しかった

 静かだった。


 誰もいない。


 けれど、少女の匂いが残っていた。

 花のような匂い。

 柔らかい布の匂い。

 甘い匂い。


 セラの中は、それを好ましいと思わなかった。

 でも、綺麗な匂いだとは分かった。

 それが余計に好ましくなかった。


 悪い匂いならよかった。

 嫌な子ならよかった。

 エリアスを傷付ける子なら、守るために嫌える。


 でも、少女は悪くなかった。

 ただ柔らかくて、明るくて、エリアスの隣に立てるだけだった。


 だから、セラは自分の中の黒いものをどこへ置けばいいのか本当に分からなかった。


 セラはゆっくり立ち上がった。

 金属片の前へ歩いた。

 曇った面に、自分が映る。


 石の肌。

 ごつごつした肩。

 短くなったけれど、まだ裂けた口。

 大きい目。

 硬い指。

 細く、不格好な足。


 人間に近付こうとした怪物。


 セラは、その姿を見た。

 そして、少女を思い出した。


 栗色の髪。

 白い手袋。

 桃色のリボン。

 柔らかい声。

 上品な笑い方。

 袖に触れる指先。

 並んで歩く足。


 全然違う。


 セラは、初めて自分を醜いと思った。


 醜い。

 その言葉も、前にエリアスが読んでくれた本の中にあった。


 美しくないこと。

 見たくないもの。

 嫌な形。


 セラは、その時はよく分からなかった。

 でも今は分かった。


 自分は醜い。

 ひどく醜い。


 少女は違う。

 少女は、エリアスの隣にいても醜くない。


 セラは金属片から目を逸らした。


 恥ずかしい。

 苦しい。

 醜い。

 見られたくない。

 でも、エリアスには見てほしい。


 この矛盾が、セラの中で大きくなった。


 セラは自分の髪を探した。

 髪。


 セラには髪がない。


 エリアスの金色の髪に触れたことがある。

 少女には栗色の髪があった。

 柔らかそうだった。

 結われていて、花飾りがついていた。


 セラにはない。


 セラは自分の頭のような場所を触った。

 硬い。

 石。


 髪がほしい。

 そう思った。


 柔らかい髪。

 エリアスが触れても怖くない髪。

 リボンを結べる髪。

 少女のような髪。


 頭の表面が、内側からざわりとした。

 石のひびの間から、細いものが押し出される。


 一本。

 また一本。


 最初は石の針のようだった。

 硬く、細く、白っぽい。


 けれど、セラは思った。

 違う。


 髪は硬くない。

 エリアスの髪は柔らかい。

 少女の髪も柔らかそうだった。


 柔らかく。

 細く。

 揺れるもの。

 触れても痛くないもの。

 エリアスが怖がらないもの。


 石の針は、少しずつ細くなった。

 色が暗くなる。


 黒に近い色。

 しなやかに、とはまだいかなかった。

 けれど、石ではない何かに近付こうとしていた。


 セラの頭から、短い黒い髪のようなものが生えた。


 まばらで。

 不揃いで。

 ところどころ石の粉をまとっていて。

 綺麗とは言えない。


 それでも、髪だった。


 セラは金属片を見た。

 そこには、髪のある怪物が映っていた。


 前より、少し人間に近い。

 でも、まだ怖い。

 むしろ、髪があることで、さらに不気味になっているかもしれない。


 セラは沈んだ。


 違う。

 まだ違う。

 少女ではない。

 人間ですらない。


 もっと。

 もっと少女に。


 セラは自分の手を見た。

 硬い指。

 白い手袋とは違う。


 少女の指は小さかった。

 エリアスの袖に触れても、危なくなかった。


 セラの指は長い。

 曲がっている。

 掴めば壊す。


 セラは指を擦った。

 少し短く。

 少し丸く。

 少し柔らかく。


 けれど、本当の柔らかさを、体はまだ知らない。


 表面は削れる。

 形は変わる。

 でも、石は石。

 硬さは残る。


 セラは歯を食いしばった。

 かちり、と音が鳴った。


 その音も嫌だった。

 少女はそんな音を立てない。


 セラは口を押さえた。

 唇。


 柔らかい唇がほしい。

 小さく笑える口がほしい。

 エリアスにかわいいと言われた時、怖がられない顔がほしい。

 エリアスに触ってもいいですかと聞かずに、自然に触れる姿がほしい。


 セラは、自分が欲しいものの多さに驚いた。


 前は、エリアスの声が聞きたかった。

 エリアスの姿が見たかった。

 エリアスの匂いを知りたかった。

 エリアスに教えたかった。

 エリアスを守りたかった。


 今は違う。


 エリアスの隣にいたい。

 エリアスに隠されるだけではなく、連れて歩かれたい。

 エリアスに、怖いものとしてではなく、触れてもいいものとして見られたい。

 エリアスが少女に向けた困った顔を、自分にも向けてほしい。


 でも、少女と同じでは嫌だった。

 エリアスの特別でいたい。


 少女のように自然でありたい。

 石のように特別でありたい。


 二つとも欲しい。

 そんなことができるのだろうか。


 セラには分からない。

 分からないのに、欲しい。


 欲しい。

 欲しい。


 欲しいは、危ない。

 セラはそう知っていた。


 けれど、止まらなかった。


 外から、エリアスの足音が戻ってきた。

 セラは振り返った。


 エリアス一人の足音。

 少女の足音はない。


 セラの中が浮いた。

 戻ってきた。

 エリアスが戻ってきた。


 でも、今の姿を見られる。


 髪がある。

 指を削った。

 口を押さえている。

 また変わっている。


 怖がられるかもしれない。

 恥ずかしい。


 逃げたい。

 でも、見てほしい。


 セラは動けなかった。


 エリアスが入口に現れた。

 少し息を切らしていた。

 急いで戻ってきたらしい。


 セラを見る。

 目が大きくなる。


 黒い髪のようなもの。

 削られた指。

 口を押さえる手。

 金属片の前で立ち尽くすセラ。


 エリアスは、すぐに状況を理解したわけではなかった。

 けれど、何かがあったことは分かった。


「セラ。」


 名前を呼ばれた。

 セラは口を押さえたまま、言った。


「見ないで。」


 エリアスが止まった。

 その言葉は、セラが初めて言った種類の言葉だった。


 見てほしいではない。

 見ないで。


 拒む言葉。

 隠す言葉。

 恥ずかしいの言葉。


 エリアスは、すぐに近付かなかった。

 入口近くで、静かに立っていた。


「……分かりました。見ません。」


 そう言って、少し視線を逸らした。


 セラは驚いた。

 本当に見ない。


 エリアスは見ないでと言われたら、見ない。


 セラを見たいはずなのに。

 記録したいはずなのに。

 知りたいはずなのに。


 それでも、見ない。


 セラは、そのことに浮いた。

 そして沈んだ。


 見てほしいのに、見ないでと言った。

 エリアスは見ない。


 好ましい。

 好ましくない。

 複雑。


 セラは小さく言った。


「見て。」


 エリアスは少しだけ笑った。

 困ったような、優しい笑いだった。


「どちらですか。」


「分からない。」


 セラは答えた。


「見てほしい。でも、見られたくない。恥ずかしい。」


 エリアスの表情が柔らかくなった。


「はい。恥ずかしいんですね。」


「うん。」


 エリアスは、ゆっくり視線を戻した。

 急に見ない。

 少しずつ。

 セラが怖がらないように。


 エリアスは、セラがいつも自分にしているように、ゆっくり見てくれた。

 セラはそれに気付いた。


 エリアスも、セラを怖がらせないようにしている。

 好ましい。


 エリアスは、セラの髪を見た。

 まばらな黒い髪。


 まだ不揃いで、石粉がついている。

 綺麗ではない。

 けれど、髪になろうとしているもの。


 エリアスは息を呑んだ。


 怖いのだろうか。

 気持ち悪いのだろうか。

 セラは沈みかけた。


 でも、エリアスの目は怖さだけではなかった。

 もっと深いものがあった。


「髪が……。」


 エリアスは小さく言った。

 セラは口を押さえたまま、頷いた。


「少女、髪があった。」


 エリアスの顔が変わった。


「さっきの子を見て?」


「うん。」


「それで、髪を?」


「うん。」


 エリアスは黙った。

 セラは言葉を探した。


「少女は、エリアスの隣に立てる。袖に触れる。怖くない。エリアス、嘘つかなくていい。少女なら、セラも、隣に……。」


 言葉が途中で止まった。

 胸のような場所が苦しい。


 セラは続けた。


「人間だけじゃ、足りない。少女なら。あの子みたいなら。エリアス、困らない?」


 エリアスは、深く息を吸った。

 それから、ゆっくり吐いた。


 顔が赤くなっていた。

 でも、いつもの照れだけではない。

 苦しさもあった。


「……セラは、あの子になりたいんですか?」


 セラは考えた。

 あの子になりたい。


 違う。

 あの子ではない。


 セラはセラ。

 エリアスがくれた名前。

 なくしたくない。


 でも、あの子のようになりたい。

 少女になりたい。

 エリアスの隣に立てるものに。


「あの子には、なりたくない。」


 セラは言った。


「でも、あの子のような少女になりたい。」


 エリアスは目を伏せた。


「……そうですか。」


 その声は、少し苦しかった。

 セラは不安になった。


「だめ?」


「……だめではありません。」


「好ましくない?」


「好ましくないわけでも、ありません。」


「複雑?」


「はい。とても。」


 エリアスは苦笑した。

 けれど、その目は揺れていた。


 セラは気付いた。

 エリアスも、何かが苦しい。


 なぜだろう。


 セラが少女になりたいと言ったから。

 あの子のようにと言ったから。


 エリアスは、セラがあの子のようになるのが嫌なのだろうか。

 それとも、セラが自分のためにそこまで変わろうとしていることが苦しいのだろうか。


 セラには、まだ分からない。


 エリアスは少し近付いた。


「セラ。」


 名前。

 セラは少し浮いた。


「セラは、セラです。」


 エリアスは言った。


「あの子ではありません。友人たちでもありません。ただの石でもありません。」


 セラはエリアスを見た。


「僕が名前をつけた、セラです。」


 僕が。

 エリアスが。

 名前をつけた。

 セラ。


 その言葉は、セラの中に深く入った。


 エリアスがつけた名前。

 エリアスだけが呼ぶ名前。

 エリアスだけが知っているセラ。


 好ましい。

 とても好ましい。


 でも。


「セラでも、少女になりたい。」


 セラは言った。

 エリアスは、少しだけ目を閉じ、それからまたゆっくりと開いた。

 緑の目が揺れていた。


「……分かり、ました。」


 エリアスは止めなかった。

 セラは驚いた。


「止めない?」


「止めたいです。」


 エリアスは正直に言った。


「セラが自分を削ったり、無理に変えたりするのを見るのは怖い。苦しい。とても心配です。」


 セラは沈んだ。


「でも、セラが何になりたいかを、僕が全部決めるのは違うと思います。」


 決める。

 エリアスが全部決めない。

 セラが決める。


 セラはその言葉を受けた。


 エリアスの言葉で動くのは、好ましい。

 エリアスが決めてくれるのも、好ましい。


 でも、エリアスは全部決めないと言った。

 少し寂しい。

 けれど、大事にされている気もした。


 エリアスは続けた。


「だから、一人で無茶をしないこと。僕に言うこと。一緒に考えること。それなら……僕は、セラがなりたいものを見ます。」


 セラがなりたいもの。

 エリアスが見る。


 セラは口を押さえた手を、ゆっくり下ろした。


 まだ恥ずかしい。

 でも、エリアスは見てくれている。

 怖がっても、見てくれている。


 セラは言った。


「少女に、なりたい。」


 エリアスの顔が赤くなった。

 けれど、目を逸らさなかった。


「エリアスの隣に、立ちたい。」


「はい。」


「エリアスが、嘘つかなくていいように。」


 エリアスの目が少し痛そうになった。


「……はい。」


「でも、エリアスだけのセラでいたい。」


 エリアスは息を止めた。

 セラも、言ってから自分の言葉に驚いた。


 エリアスだけのセラ。


 それは、言っていい言葉だったのだろうか。

 相手が受け取りやすい言葉だっただろうか。


 分からない。

 でも、言ってしまった。


 エリアスは、真っ赤になっていた。

 けれど、逃げなかった。


 しばらくして、小さく言った。


「……そういうことを、そんな顔で言わないでください。」


 そんな顔。

 セラは自分の顔を知らない。


 金属片を見たくなった。

 でも、今はエリアスを見ていた。


「怖い顔?」


「違います。」


「かわいい顔?」


 エリアスは完全に固まった。

 それから、片手で顔を覆った。


「……セラ。」


「うん。」


「人間らしい言葉遣いの練習は、まだ必要です。」


「今の、だめ?」


「だめでは、ありません。」


「好ましくない?」


「好ましくないわけでも、ありません。」


「複雑。」


「はい。これも、とても複雑です。」


 エリアスは顔を覆ったまま言った。


 セラは、少しだけ笑った。

 練習した笑い方で。

 歯を見せすぎないように。

 口の端だけを少し上げて。


 エリアスが指の隙間からそれを見た。

 そして、また顔を赤くした。


 セラは思った。

 少女になる練習をしよう。


 でも、あの子にはならない。

 セラはセラ。

 エリアスが名前をくれたセラ。

 エリアスだけのセラでありたい。


 エリアスは鞄から櫛を取り出した。

 小さな木の櫛だった。


「……髪を、整えてもいいですか。」


 髪。

 触る。

 エリアスがセラの髪に触る。


 セラの中が一気に浮いた。

 けれど、恥ずかしいも来た。


 セラは小さく頷いた。


「いい。」


 エリアスは慎重に近付いた。

 怖がらせないように。

 壊さないように。


 石のような髪と、髪になろうとしているものの間に、櫛を入れる。

 少し引っかかる。


 セラは動かなかった。

 痛くはない。

 でも、不思議な感じがする。


 エリアスの手が近い。

 エリアスの息が近い。

 髪を整えられている。


 少女のように。

 少しだけ。


 エリアスは真剣だった。

 怖さも、照れも、困惑もある。


 それでも、丁寧に櫛を動かした。

 一本ずつ、少しずつ。


 やがて、まばらだった黒い髪は、少しだけ一方向に流れた。


 綺麗ではない。

 まだ不揃い。

 けれど、さっきよりは髪に見えた。


 エリアスは小さく息を吐いた。


「少し、整いました。」


 セラは金属片を見た。

 映る自分。

 髪のある怪物。


 まだ醜い。

 でも、さっきより少しだけ、見られる気がした。

 エリアスが整えてくれたから。


 セラは言った。


「エリアスのおかげ。」


 エリアスは赤い顔で笑った。


「どういたしまして。」


 どういたしまして。

 懐かしい言葉。

 クッキーの時の言葉。


 セラは少し浮いた。


 夕方になった。

 エリアスは帰らなければならなかった。

 セラは沈んだ。


 でも、今日は少女を知った。

 少女になりたいと言えた。

 エリアスが髪を整えてくれた。


 エリアスだけのセラでいたいと言った。

 そしてそれを、エリアスは否定しなかった。


 エリアスは入口へ向かった。

 途中で振り向いた。


「明日も来ます。必ず一人で。」


「エリアスだけ。」


「はい。僕だけです。」


 エリアスは少し照れたように言った。

 それから、小さく付け足した。


「セラだけに、会いに来ます。」


 セラは動かなかった。

 その言葉は、強すぎた。


 セラだけに。

 会いに。

 エリアスが来る。

 セラだけに。


 セラの中が、明るくなって、苦しくなって、恥ずかしくなって、嬉しくなった。

 全部一緒だった。


 複雑。


 けれど、好ましい。

 とても好ましい。


「待ってる。」


 セラは言った。

 前より少し自然に。


 エリアスは笑った。


「はい。また明日、セラ。」


「また明日、エリアス。」


 エリアスは洞窟を出ていった。


 セラは足音が完全に消えてから、ゆっくりとまた金属片の前に立った。


 黒い髪。

 醜い姿。


 でも、エリアスが整えてくれた髪。

 セラはそれにそっと触れた。


 思考が複雑になるにつれ、苦しさも増える。

 でも、エリアスがいるなら、その複雑さも抱えられる気がした。


 少女に。

 少女に近付く。

 少女であれば。


 でも、あの子ではなく。

 セラのまま。

 エリアスが名前をくれたセラのまま。

 エリアスの隣に立てる少女に。


 暗い洞窟の奥で、石は少女のまねをした。


 髪に触れる。

 手を胸の前で重ねる。

 口を小さく緩める。

 目を少し下げる。

 上目遣いの真似をする。


 けれど、その姿はまだ怪物だった。


 もし誰かが見ていたら、きっと恐ろしかった。

 まばらな髪のようなものが生えた醜い石の怪物が、曇った金属に映る自分を見ながら、顔の使い方を練習しているのだから。


 けれど、今日もセラはただ必死なだけだった。


 エリアスの隣に立つために。

 エリアスに嘘をつかせないために。

 エリアスだけのセラでいるために。


 少女に。

 少女に近付く。

 少女であれば。


 その言葉だけを抱え、石の怪物は練習を続けていた。


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