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第二十六話 石は、少女を知った

 セラは、人間のまねを続けた。


 立つ。

 歩く。

 手を下げる。

 指を開きすぎない。

 目を見つめすぎない。

 口を大きく開けない。

 笑う時は、少しだけ。

 言葉は、相手が受け取りやすい形にする。

 欲しいものがあっても、すぐ掴まない。

 触れたい時は、聞く。

 言いたいことがあっても、少し考える。


 我慢。

 約束。

 人間らしい。


 それらを、セラは何度も練習した。

 曇った金属片の前に立ち、自分を見る。


 まだ怖い。

 まだ石。

 まだ怪物。


 けれど、少しずつ形は変わっていった。


 丸かった体には、首ができた。

 肩ができた。

 腕の長さも、少しだけ整った。

 足はまだ細く硬いが、前より立ちやすくなった。

 口の裂け目は短くなった。

 歯も、少し隠せるようになった。


 目は、まだ少し大きい。

 けれど、急に動かさないことは覚えた。


 セラは、人間に近付いていた。


 少しずつ。

 少しずつ。


 人間に。

 人間に近付く。

 人間であれば。


 その言葉は、今もセラの中にあった。

 けれど、最近は少し形が変わっていた。


 人間であれば、エリアスの隣に立てる。

 人間であれば、エリアスを困らせない。

 人間であれば、秘密でなくてもいい。


 そう思っていた。

 でも、本当にそうだろうか。

 人間なら、誰でもエリアスの隣に立てるのだろうか。


 エリアスの友人たちは人間だった。

 あの男の子たちは、エリアスと歩いた。

 川へ行った。

 笑った。


 けれど、セラはあの男の子たちになりたいわけではなかった。

 セラは、エリアスの友人になりたいのだろうか。


 友人。

 その言葉を思うと、少し違う気がした。


 友人は、エリアスと笑う。

 エリアスと走る。

 エリアスとふざける。


 それは好ましい。

 でも、それだけでは足りない。


 セラは、エリアスに触れたい。

 エリアスに触れられたい。

 エリアスに、かわいいと言われたい。

 エリアスに、自分だけを見てほしい。


 この「ほしい」は、友人とは少し違う気がした。

 セラには、まだその違いの名前が分からなかった。

 エリアスも、まだ教えてくれていない。


 だから、セラはただ練習した。

 人間らしく。

 エリアスを怖がらせないように。

 エリアスの隣に立てる何かになれるように。


 ある日、エリアスはいつもより少し早く来た。

 足音も少し急いでいた。


 セラはすぐに気付いた。

 エリアスが来る。

 でも、いつもと違う。


 足音が近付く。

 エリアスは洞窟の入口に現れた。


 顔が少し硬い。

 いつもの鞄を持っている。


 けれど、入口で振り返った。

 誰かを気にしている。


 セラの中が沈んだ。

 また、誰かいるのだろうか。


 男の子たち。

 友人。

 知らない人間。

 好ましくない。


 エリアスは洞窟に入ると、急いでセラの方へ来た。

 いつもより近くまで。

 声を低くして言う。


「セラ、本当にすみません。今日は少しだけ、静かにしていてください。」


 静かに。


 セラは口を閉じたまま、頷く練習をした首を少し動かした。

 ごく小さく。


 エリアスはそれを見て、少しほっとした。


「上手です。」


 上手。

 セラは浮いた。

 けれど、すぐに沈んだ。


 エリアスは緊張している。

 何かが来る。


「誰か来る?」


 セラは小さく聞いた。

 エリアスは少し眉を寄せた。


「……はい。でも、すぐ帰すつもりです。」


 すぐ帰す。

 好ましい。


 でも、来る。

 好ましくない。


「友人?」


「友人、というか……。」


 エリアスは言いにくそうにした。

 それから、視線を入口の方へ向けた。


「リディアといって、幼い頃から知っている令嬢です。父上同士が親しくて、今日は屋敷に来ていて……僕が山へ行くと言ったら、付いてきてしまって。」


 リディア。

 エリアスが、名前を呼んだ。

 セラ以外の名前を。

 それは、少し好ましくなかった。


 エリアスの声が少し違う。

 男の子たちの時とは違う。


 困っている。

 でも、強く追い返せない。

 セラはそれを感じた。


「エリアス、困る。」


「少し。」


「好ましくない。」


「はい。決して、悪い子ではないんですが。」


 悪い子ではない。


 悪くない。

 なら、好ましくない、でいいのではないのだろうか。

 それとも、悪くないは、好ましいのだろうか。

 セラはよく分からなかった。


 エリアスは小さく息を吐いた。


「侍女と御者は少し下の山道で待っています。本人だけ、どうしてもここまで来ると。」


 本人だけ。

 ここまで。

 エリアスについて。


 その時、入口の外から声がした。


「エリアス様、入ってもよろしいですか?」


 少女の声だった。

 セラは、初めてその声を聞いた。


 高い。

 柔らかい。


 エリアスの友人の男の子たちとは違う。

 水の音とも違う。

 鳥の声とも違う。

 花の匂いに少し似ている声。


 セラの中で、何かが固まった。


 エリアス様。

 その呼び方も、知らなかった。


 友人たちはエリアスを、エリアスと呼んだ。

 セラも、エリアスをエリアスと呼ぶ。

 エリアスがそう教えたから。


 でも、この少女は、エリアス様と呼んだ。

 同じ名前なのに、違う。


 なぜ。


 エリアスはすぐに入口へ戻った。


「危ないから、入口の近くだけだよ。」


「はい。少しだけで構いません。」


 少女が入ってきた。

 光の中に、淡い色の服が見えた。


 薄い桃色のリボン。

 白い緩やかな袖。

 柔らかそうな手袋。

 栗色の髪。

 髪は丁寧に結われていて、小さな花飾りがついていた。


 頬は白く、少し赤い。

 目は丸く、明るい茶色だった。


 セラは、その少女を見た。


 人間。

 人間だった。


 けれど、男の子たちとは違った。

 エリアスとも違った。


 柔らかい。

 小さい。

 細い。

 白い。

 壊れやすそう。


 でも、暗い洞窟の中にいても、どこか優しく明るい。


 決して、自分のような怪物ではない。

 見られても怖がられない、好ましい姿。

 エリアスの隣に立っても、変ではない姿。


 少女。

 セラは、その言葉を知らないわけではなかった。


 エリアスが、本の話や町の話をする時に使っていた。


 少年。

 少女。

 男。

 女。


 人間の中にも種類がある。


 エリアスは少年。

 この子は少女。


 そして、セラは石。

 あるいは、怪物。


 セラは、洞窟の奥で動かなかった。

 エリアスに言われた通り、静かにしていた。


 口を閉じる。

 目を動かさない。

 手を体の影に置く。

 足を揃える。


 人間らしくではなく、見つからないように。

 ただの石のふり。


 けれど、今のセラは、もうただの石のふりが下手だった。

 人間に近付こうとした体は、もう石から大分遠ざかっている。


 隠れなければならない。

 見つかってはいけない。


 見つかれば、少女は悲鳴を上げる。

 エリアスが困る。

 好ましくない。


 少女は洞窟の入口近くで立ち止まり、目を輝かせた。


「まあ。秘密基地みたいですね。素敵です。」


 秘密基地。

 素敵。


 エリアスの場所。

 セラの場所。

 少女がそうを言った。


 セラの中が少し沈んだ。


 少女は悪くない。

 エリアスの場所を褒めた。

 素敵と言った。

 けれど、好ましくない。


 セラはそう思った。


 エリアスは少女の前に立つようにして、奥を隠していた。


「少し見たら帰ろう。ここは足元が悪い。」


「エリアス様は、いつもここで何をなさっているのですか?」


「調べものをしたり、工作をしたり、特別なことはしてないよ。」


「工作ですか?エリアス様はやはりとても器用なのですね。」


 少女は笑った。

 小さく、上品に。


 口を大きく開けない。

 歯を見せすぎない。

 目を急に動かさない。

 手は胸の前で軽く重ねている。


 エリアスが教えた、人間らしい動き。

 セラが何度も練習しても、うまくできない動き。


 それを、少女は苦労せずしていた。

 自然に。

 初めからそうであるように。


 セラの中が、重く、重く沈んだ。


 少女は、人間らしい。

 だって人間だから。


 セラは練習しなければできない。

 練習しても、まだ怖い。

 少女はきっと練習しなくても怖くない。


 ずるい。

 その言葉が、セラの中に浮かんだ。


 ずるい。

 エリアスが一度、遊びの話で使った言葉だった。


 公平ではない時。

 自分だけ得をした時。

 セラは、その意味を完全には知らなかった。


 けれど、今、その言葉が浮かんだ。


 少女はずるい。

 ただ人間に生まれただけで。

 ただ少女だっただけで。

 それだけで、エリアスの隣に立てる。


 セラは削っても、練習しても、まだ奥に隠れている。


 ずるい。

 ずるい。

 好ましくない。


 でも、少女は悪くない。

 少女はエリアスを褒めている。

 石に気付いてもいない。

 少女は決して、悪くない。


 悪くないのに、好ましくない。


 セラの中に、黒いものが生まれた。


 それは怖いとも違う。

 恥ずかしいとも違う。

 嫌いに近い。

 でも、嫌いと言うには、向け先がよく分からなかった。


 少女は、ただ笑っているだけ。

 褒めているだけ。

 エリアスやセラを困らせようとしているわけではない。


 だから、セラはその黒いものをどうしていいか分からなかった。


 少女が棚の方を見ようとした。

 エリアスがさりげなく前に出る。


「駄目だ。そっちは湿っていて足が滑るよ。」


「そうですの?」


「ああ。危ないから。」


「エリアス様は、本当に心配性ですね。……でも、ありがとうございます。」


 少女は笑った。

 そして、ごく自然に、エリアスの袖をつまんだ。


 ほんの少し。

 指先で、布を軽く。


 エリアスは一瞬、固まった。

 セラも固まった。


 触った。

 少女が、エリアスに触った。


 触ってもいいですか、と聞かなかった。

 急に触った。


 でも、エリアスは悲鳴を上げない。

 怖がらない。

 逃げない。


 少女の手は柔らかい。

 小さい。

 人間の手。

 危なくない手。

 エリアスを傷付けない手。

 許されている手。


 セラの手とは違う。


 セラが触る時は、聞く。

 ゆっくり。

 少しだけ。

 エリアスがいいと言った時だけ。


 急に触るのは危ない。

 怖い。


 でも、この少女は急に触った。

 それでも、怖くない。


 なぜ。


 少女だから。

 人間だから。

 エリアスの隣に立てる姿だから。


 セラの手が、少し震えた。

 かち。

 小さな音がした。


 エリアスの目が一瞬、洞窟の奥を向いた。

 セラはすぐに手を止めた。


 しまった。

 音を出した。

 エリアスを困らせる。


 少女が首を傾げた。


「今、何か音がしませんでした?」


 エリアスはすぐに言った。


「水だと思う。水源に近い洞窟だからね。」


「そうですか。エリアス様は物知りですね。」


 少女は疑わなかった。

 エリアスの言葉を信じた。


 セラは、ほっとした。

 同時に、また沈んだ。


 エリアスが嘘をついた。

 セラのために。

 秘密を守るために。

 少女に、セラを知られないために。

 好ましい。


 でも、エリアスに嘘をつかせた。

 好ましくない。


 セラが人間であれば、嘘はいらない。

 セラが少女であれば、きっと。


 少女。

 その言葉が、初めて強く残った。


 人間、では少し広すぎる。

 男の子たちのような少年ではない。

 あの子のような少女。


 柔らかくて。

 小さく笑って。

 自然に袖に触れて。

 エリアスの隣にいても、誰も不思議に思わないもの。


 少女であれば。

 少女であれば。


 その考えが浮かんだ時、セラの中の暗いものが少し形を持った。


 少女になりたい。

 人間に近付くだけでは足りない。

 少女になりたい。


 エリアスの隣に立つ少女に。

 エリアスの袖に触れても、怖がられない少女に。

 エリアスが庇わなくてもいい少女に。

 エリアスが嘘をつかなくてもいい少女に。

 エリアスが、秘密にしなくても困らない少女に。


 少女に。

 少女に近付く。

 少女であれば。


 セラは、少女を見続けた。


 栗色の髪。

 白い手袋。

 桃色のリボン。

 小さな靴。

 軽い足音。

 柔らかい声。

 エリアスを呼ぶ時の、少し甘い響き。


 エリアス様。


 セラは、その呼び方を好ましいとは思わなかった。

 でも、その声で呼ばれたエリアスが、少し困りながらも無視できないのは分かった。


 少女が言うと、エリアスの顔が変わる。

 セラが言う時とは、違う変わり方だった。


 怖いでもない。

 記録したいでもない。

 困る。

 少し目を逸らす。

 でも、無視はしない。


 少女には、セラにはない何かがある。

 セラはそう思った。


 それが、羨ましかった。


 羨ましい。

 その言葉は、まだはっきりとは教えてもらってなかった。

 けれど、セラの中に近いものは既にあった。


 自分にはないものを、相手が持っている。

 それが欲しい。

 でも奪えない。

 相手が悪いわけではない。

 それなのに、見ると苦しい。


 欲しい。

 ずるい。

 なりたい。

 見たくない。

 でも見てしまう。

 羨ましい。


 セラは、よく言葉を知らないまま覚え始めていた。


 少女は、エリアスの棚の方を見ながら言った。


「エリアス様は、昔から少し変わったものがお好きですよね。きっとお父上に似られたのでしょうね。」


 変わったもの。

 そうだ。

 セラは沈んだ。


 変わったもの。

 珍しいもの。

 怪物。

 石。

 エリアスが好きなもの。


 セラは、エリアスにとって変わったものだから好まれているのだろうか。


 珍しいから。

 記録したいから。

 すごいから。

 本にも載っていないから。


 もしセラが珍しくなくなったら。

 ただの人間になったら。

 ただの少女になったら。

 エリアスは、それでもセラを見てくれるのだろうか。


 その瞬間、セラは初めて、変わることが怖くなった。


 人間になりたい。

 少女になりたい。

 でも、石でなくなったら、エリアスはセラを特別だと思わなくなるのだろうか。


 特別。

 その言葉が、急に重くなった。


 エリアスにとって、セラは特別。

 でも、それは石だからかもしれない。

 怪物だからかもしれない。

 エリアスだけが知っているからかもしれない。


 少女になれば、エリアスの隣に立てる。

 けれど、特別ではなくなるのかもしれない。


 セラの中が混乱した。


 思考が増える。

 言葉が増える。

 すると、苦しさも増える。


 前は、好ましいか好ましくないかだけだった。

 今は、どちらもある。

 どちらでもないものもある。


 欲しいのに怖い。

 なりたいのに、なくしたくない。

 見てほしいのに、隠れたい。

 少女が羨ましいのに、少女を悪いとは思えない。

 エリアスに近付きたいのに、近付いたらエリアスが離れるかもしれない。


 セラは、自分の中があまりに複雑で、少し怖くなった。


 エリアスは少女に言った。


「そろそろ戻ろう。遅くなる。」


「もう少しだけ、ここで。」


「だめだ。侍女と御者も心配する。」


「エリアス様も、心配してくださいます?」


 少女はそう言って、少し上目遣いにエリアスを見た。

 セラは、その動きを見た。


 上目遣い。

 顔を少し上げる。

 目だけで見る。

 口元を少し緩める。


 エリアスは困ったように目を逸らした。

 赤くはなっていない。

 けれど、完全に無関心でもない。


 セラは、その反応を見て沈んだ。


 少女は、エリアスの顔を変えられる。

 セラも変えられる。

 でも、違う変え方。


 セラは怖がらせる。

 驚かせる。

 秘密にさせる。

 隠させる。


 少女は困らせる。

 関心を引かせる。

 気遣わせる。

 自然に隣にいる。


 セラは、たぶん特別だった。

 けれど、少女の方がずっと綺麗に、自然に見えた。


 少女は、エリアスを傷付けない。

 エリアスに嘘をつかせない。

 エリアスの服の袖に、簡単に触れられる。


 エリアスは少女を庇うようにして洞窟から出した。

 その背中を、セラは見た。


 エリアスの背中。

 少女の横顔。

 光の中に並ぶ二人。


 人間と人間。

 少年と少女。

 同じ世界のもの。


 セラの足が、勝手に一歩動きそうになった。


 追いたい。

 見たい。

 離れたくない。


 でも、動かない。

 音がする。

 見つかる。

 エリアスが困る。


 我慢。

 我慢。

 我慢。


 セラは手を強く握りそうになった。

 でも、握りしめると怖い。

 エリアスが教えた。

 だから、少しだけ曲げる。


 ちょうどよく。

 人間らしく。


 でも、エリアスはもうこちらを見ていない。

 少女と外へ出ていく。


 足音が二つ。

 エリアスの足音。

 少女の軽い足音。


 声が遠ざかる。


「エリアス様、また連れてきてくださいね。」


「道も悪いし、やめた方がいい。」


「まあ。でしたら次は街へ案内してください。」


 少女の笑い声。

 エリアスの困った声。

 二つが混じって遠ざかる。


 セラは、洞窟の奥でじっとしていた。


 体の中に、ぐるぐるとうずまく黒いものを抱えながら。

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