第二十五話 石は、笑う練習をした
エリアスは、セラの前に静かに座った。
「……今日は、人間らしい動きの練習をしましょうか。」
人間らしい。
セラは、ぎこちなく少しだけ顔を傾けた。
「人間らしい?」
「人間に見える動き、という意味です。形だけでなく、動き方も大事ですから。」
セラは頷こうとした。
けれど、首の動きがやはり難しく変に傾いた。
ごきり、と石が擦れる音がした。
エリアスが少しだけ固まった。
セラは沈んだ。
「怖い?」
「……少し。でも、練習しましょう。」
練習。
上手になるために、何度もやること。
エリアスが一緒。
好ましい。
まず、エリアスは立ち方を教えた。
「足を少し開いて。重さを真ん中に置きます。手は、あまり広げすぎないで。」
セラは言われた通りにした。
足を開く。
手を下げる。
指を曲げすぎない。
肩を上げすぎない。
体をまっすぐ。
まっすぐ。
人間は、真ん中に立つ。
セラは少し揺れた。
エリアスが手を伸ばしそうになった。
けれど、触る前に聞いた。
「支えても、いいですか?」
支える。
守る。
触る。
セラはすぐに言った。
「いい。」
エリアスの手がセラの肩に触れた。
温かい。
セラは固まりそうになった。
でも、固まりすぎると練習にならない。
人間らしく。
エリアスの言葉を聞く。
エリアスの手を感じる。
セラはゆっくり体の重さを直した。
「そうです。上手です。」
上手。
セラは浮いた。
けれど、立っている時に浮きすぎると倒れる。我慢。
次に、歩き方。
「足を引きずりすぎると、少し怖いです。」
「怖い。」
「はい。音も大きいので。」
セラは足を持ち上げる練習をした。
重い。
でも、できる。
ごり、と擦らず、少し上げる。
置く。
もう片方を上げる。
置く。
エリアスが横で歩いて見せた。
セラはそれを真似た。
エリアスの足は滑らかだった。
セラの足は硬かった。
同じにはならない。
でも、真似る。
人間に。
人間に近く。
人間であれば。
次に、手の置き方。
「指をずっと開いていると、掴もうとしているように見えます。」
「掴む、怖い。」
「はい。」
「閉じる?」
「軽く、です。握りしめると、それも少し怖いです。」
人間は難しい。
開きすぎると怖い。
閉じすぎても怖い。
ちょうどよく。
ちょうど。
それも新しい言葉だった。
強すぎず、弱すぎず。
近すぎず、遠すぎず。
開きすぎず、閉じすぎず。
人間は、ちょうどよく動く。
セラは指を少し曲げた。
かち。
音がした。
エリアスは少しだけ笑った。
「音は、仕方ないですね。」
「仕方ない?」
「今は変えられないことです。」
今は変えられない。
なら、いつかは変えられるかもしれない。
次に、笑い方。
これは難しかった。
エリアスは最初から少し緊張していた。
「口を大きく開けないでください。」
「大きく開けない。」
「歯を見せすぎない。」
「見せすぎない。」
「目を急に細めない。」
「急にしない。」
「ゆっくり、少しだけ。」
「少しだけ。」
セラは笑おうとした。
口の端を少し上げる。
石の裂け目が歪む。
歯が少し見える。
目も細くなる。
エリアスの顔が少し硬くなる。
セラはすぐに止めた。
「だめ?」
「いえ。前よりずっと……。」
エリアスは言葉を探した。
「ずっと、優しく見えます。」
優しい。
セラはその言葉を聞いた。
「やさしい?」
「相手を傷付けない感じです。」
相手を傷付けない。
守るに近い。
好ましい。
「優しい、好ましい。」
「はい。」
セラはもう一度、少しだけ笑った。
今度は、歯をほとんど見せないように。
口の端だけを動かす。
目はゆっくり細める。
エリアスは息を呑んだ。
怖いのだろうか。
セラは止めようとした。
けれど、エリアスが小さく言った。
「……これは、かわいい、かもしれません。」
かわいい。
新しい言葉。
セラは固まった。
「かわいい?」
エリアスの顔が一気に赤くなった。
「いえ、その、怖くないというか、健気というか、ええと。」
「かわいい、好ましい?」
「好ましいです。たぶん。」
たぶん。
でも、エリアスは赤い。
嫌ではない。
好ましいのだろう。
セラは、かわいいという言葉をそっと体の中に入れた。
セラが笑う。
エリアスがかわいいと言う。
エリアスが赤くなる。
好ましい。
とても好ましい。
セラはもう一度笑おうとした。
エリアスが慌てた。
「待って。嬉しいのは分かりますが、連続で練習すると口が崩れるかもしれません。」
「崩れる、好ましくない。」
「はい。」
「待つ。」
セラはすぐに止めた。
エリアスはほっとして、それから少し笑った。
「本当に、よく聞いてくれますね。」
「エリアスの言葉、聞く。好ましい。」
セラが言うと、エリアスはまた赤くなった。
今日はエリアスがよく赤くなる。
セラは、それを見るのが好きだった。
でも、言わない。
言うとエリアスが困る。
我慢。
エリアスは咳払いをして、次の練習を始めた。
話し方。
「セラは言葉を覚えるのが早いです。でも、時々、思ったことがそのまま出ます。」
「そのまま、だめ?」
「だめではありません。ただ、人間は時々、相手が受け取りやすい言い方を考えます。」
受け取りやすい。
言葉は、物のように渡すものなのだろうか。
エリアスは続けた。
「たとえば、『危ないことはしない』という約束は大事ですが、急に言われると少し驚きます。」
セラは沈んだ。
「ごめん。」
「謝らなくて大丈夫です。練習です。」
「練習。」
「そういう時は、『約束を覚えています』と言う方が、少し怖くないかもしれません。」
約束を覚えています。
セラは繰り返した。
「約束を、覚えています。」
「はい。とても上手です。」
上手。
セラはまた浮いた。
言葉の言い方。
思ったことをそのまま出さない。
相手が受け取りやすいように、形を変える。
人間は難しい。
でも、エリアスが教えてくれる。
エリアスのために覚える。
好ましい。
その後も、練習は続いた。
目を見すぎない練習。
目を逸らしすぎない練習。
急に近付かない練習。
触りたい時に聞く練習。
嬉しい時に手を動かしすぎない練習。
好きと言いたい時に、言っていいか少し考える練習。
これが一番難しかった。
「エリアス、好き。」
セラはまたすぐ言ってしまった。
エリアスは耳まで赤くなった。
「今のは、考えましたか。」
「考えた。でも言いたかった。」
「……そうですか。」
「だめ?」
「だめでは、ありません。」
「好ましい?」
「複雑です。」
「複雑。」
セラは少し笑った。
練習した笑い方で。
エリアスは、また言葉を失ったようだった。
怖いのかもしれない。
困っているのかもしれない。
でも、目は逸らさなかった。
セラを見ていた。
練習した笑い方をしたセラを、じっと見ていた。
その顔が赤い。
その目が揺れている。
セラには、全部は分からない。
けれど、嫌ではないのだと思った。
たぶん、好ましいのだと思った。
セラはそれを、とても嬉しいと思った。
エリアスに、もっと、かわいいと、優しいと、思ってほしい。
セラはエリアスの笑い方を思い出しながら、頑張って練習を続けた。
夕方になった。
洞窟の入口の光が赤くなる。
エリアスは帰る支度を始めた。
セラは沈んだ。
けれど、今日はたくさん練習した。
セラの中には、新しいものがたくさん増えた。
エリアスは鞄を肩にかけた。
少し迷ってから、セラに近付いた。
「触ってもいいですか?」
触る。
セラはすぐに答えた。
「いい。」
エリアスはセラの肩にそっと触れた。
今日できた、人間らしい肩。
まだ硬い。
まだ石。
けれど、前より少し形のある肩。
エリアスの手は温かかった。
「……決して、無理をしないでください。」
「一人で削らない。」
「……はい。」
「エリアスと一緒に考える。」
「そうです。」
「約束を、覚えています。」
セラがそう言うと、エリアスは少し目を見開いた。
それから、柔らかく笑った。
「上手です。」
セラは浮いた。
エリアスは手を離した。
セラは追わなかった。
我慢。
エリアスはそれを見て、また少し笑った。
「また明日、セラ。」
「また明日、エリアス。」
エリアスは洞窟を出ていった。
セラはしばらく動かなかった。
エリアスに触れられた肩を感じていた。
温かさはもう消えている。
でも、そこだけ大事だった。
セラは、曇った金属片の前へ戻った。
そこに映る自分を見る。
まだ怖い。
まだ人間ではない。
まだ怪物に近い。
けれど、少しだけ立ち方が変わった。
少しだけ口が短くなった。
少しだけ笑い方を覚えた。
少しだけ、エリアスにかわいいと言われた。
かわいい。
その言葉を思い出すと、セラの中が変になった。
嬉しい。
恥ずかしい。
もっと言われたい。
でも、言われると苦しい。
複雑。
セラは金属片の中の自分に向かって、練習した笑みを作った。
歯を見せすぎない。
目を急に細めない。
口の端だけを少し上げる。
優しく。
ちょうどよく。
人間らしく。
映ったものは、まだ怖かった。
けれど、セラは練習をやめなかった。
人間であれば。
エリアスの近くに立てる。
エリアスを困らせない。
エリアスに隠させない。
エリアスに、ただの石と言わせない。
エリアスに、怖いだけではないものとして見てもらえる。
セラは、今日覚えた言葉を何度も思い出した。
言葉が増える。
思考が増える。
欲しいものが増える。
我慢するものも増える。
セラは、前よりずっと複雑になっていた。
でも、その複雑さの中心には、いつもエリアスがいた。
暗い洞窟の奥で、石は人間のまねを続けた。
もし誰かが見ていたら、きっと恐ろしかった。
人間になろうとする石の塊が、曇った金属に映る自分を見ながら、笑う練習をしているのだから。
けれど、セラはただ必死だった。
エリアスのもっと近くへ行くために。
エリアスに怖がられないために。
エリアスの特別であり続けるために。
人間に。
人間に。
人間であれば。
セラはその言葉を抱えたまま、明日を待った。




