第二十四話 石は、恥ずかしいを覚えた
足音が近付く。
エリアス一人の足音。
他の足音はない。
エリアスは洞窟の入口に現れた。
いつものように言った。
「おはようございます、セラ。」
セラは返事をしようとした。
けれど、口を開けるのが少し怖かった。
新しい形の口。
短くした口。
うまく声が出るだろうか。
怖がられないだろうか。
エリアスはすぐに異変に気付いた。
洞窟の奥ではなく、少し手前にいるセラ。
金属片のそばにしゃがむようにしているセラ。
そして、昨日よりも人間に近い形になっているセラ。
首がある。
肩がある。
胴が少し細くなっている。
口の裂け目が短くなっている。
目の位置が少し整っている。
手足も、昨日よりほんの少し長さの釣り合いが取れている。
けれど、そのせいで、余計に人間ではないことが目立っていた。
人に似ている。
でも、人ではない。
石でできた、人の形を真似た塊。
洞窟の薄闇の中で、それがエリアスを見ていた。
エリアスの顔から、一瞬だけ色が消えた。
一瞬。
本当に短い時間。
けれど、セラには分かった。
怖い。
きっと怖い。
エリアスが怖がった。
セラは沈んだ。
深く。
やはり、怖い。
人間に近付いたのに。
いや、人間に近付いたから、余計に怖いのかもしれない。
セラは、金属片の中の自分を思い出した。
見てほしい。
でも、見られたくない。
エリアスはすぐに表情を直した。
怖さを隠した。
そして、目を輝かせた。
「セラ……。」
声は震えていた。
でも、怖いだけではなかった。
「また、変わったんですね。」
セラは返事をしなかった。
口を閉じたまま、少しうつむいた。
うつむく。
それは、人間が時々する動きだった。
エリアスが困った時。
母上に叱られた話をする時。
目を伏せる。
顔を下げる。
見ない。
でも、そこにいる。
セラはそれを真似た。
エリアスが近付いた。
慎重に。
けれど、逃げるための慎重さだけではない。
壊れやすいものに近付くような慎重さだった。
「セラ?」
名前を呼ばれた。
セラは少し浮いた。
けれど、顔を上げられなかった。
「怖い?」
セラは聞いた。
声が出た。
前より少しだけ、低さが減っていた。
けれど、まだ石の奥から響く声だった。
エリアスは息を止めた。
そして、正直に言った。
「少し。」
セラは沈んだ。
やっぱり。
「でも。」
エリアスは急いで続けた。
「怖いだけではありません。驚いたんです。昨日より、ずっと人の形に近付いていて。」
人の形。
セラは、ゆっくり目を上げた。
エリアスはセラを見ていた。
怖いはある。
驚きもある。
でも、緑の目は明るかった。
あの目。
セラが変わると明るくなる目。
エリアスだけが見ているセラを、もっと知りたいと思っている目。
セラはその目が好きだった。
エリアスは言った。
「すごいです。」
すごい。
セラは少し浮いた。
でも、まだ沈んでいた。
「怖い。でも、すごい?」
「はい。」
「複雑?」
「とても複雑です。」
エリアスは少し笑った。
その笑いは、怖さを隠すためのものでもあり、本当に嬉しいものでもあった。
セラには、少し分かった。
前より分かる。
分かることは嬉しい。
でも、怖いが混じっていることも分かってしまう。
それは苦しい。
「セラも、複雑。」
セラは言った。
エリアスが膝をついた。
いつもより近い。
でも、触れない。
まず見ている。
セラが怖がっていることに気付いているのかもしれない。
「……何が複雑ですか?」
エリアスが優しく聞いた。
セラは考えた。
言葉を選ぶ。
前なら、すぐ言った。
今は、言葉を選ぶことを覚え始めていた。
言葉は、エリアスを怖がらせる。
言葉は、エリアスを安心させる。
言葉は大事。
「エリアスに、見てほしい。」
セラはゆっくり言った。
「でも、見られると、苦しい。」
エリアスは黙った。
セラは続けた。
「エリアスに、近付きたい。人間に近付きたい。でも、近付いたセラを、エリアスが怖いと思う。そうすると、ここが……。」
セラは胸のような場所に手を当てた。
そこに心臓はない。
けれど、何かが沈む場所はそこだった。
「ここが、好ましくない。」
エリアスは、しばらくセラを見つめていた。
怖い顔ではなかった。
考える顔。
少し痛そうな顔。
それから、エリアスは静かに言った。
「それは、恥ずかしい、に近いかもしれません。」
恥ずかしい。
新しい言葉。
セラは、その音を受けた。
はずかしい。
「恥ずかしい?」
「はい。見てほしいのに、見られると苦しい。隠したいのに、気付いてほしい。自分の姿や気持ちを知られるのが、怖いような、でも嫌ではないような。」
エリアスは言いながら、自分も少し赤くなった。
「そういう時に、恥ずかしいと言います。」
見てほしい。
見られると苦しい。
隠したい。
気付いてほしい。
怖いような。
嫌ではないような。
セラは、その言葉をゆっくり体の中に入れた。
恥ずかしい。
これは、あの感じ。
金属片に映った自分を見た時。
エリアスに怖がられた時。
でも、エリアスに見てほしかった時。
髪に触りたいと言った時、エリアスが赤くなったのを見た時。
好きと言うと、エリアスが目を逸らす時。
「エリアスも、恥ずかしい?」
セラが聞くと、エリアスはさらに赤くなった。
「……時々。」
「いつ?」
「今、そう聞かれている時です。」
セラは瞬きをした。
瞬きも少しだけ上手になっていた。
「セラが聞くと、エリアス恥ずかしい?」
「はい。」
「好ましくない?」
「好ましくないわけでは、ありません。」
「好ましい?」
「……それだけでも、ありません。」
「複雑。」
「はい。複雑です。」
エリアスは赤い顔で笑った。
セラは、それを見て少し浮いた。
恥ずかしい。
エリアスも恥ずかしい。
セラも恥ずかしい。
同じ。
とても好ましい。
エリアスは、セラの姿をもう一度見た。
首。
肩。
短くなった口。
整いかけた目。
石の体に、人間の形を真似させようとした跡。
削られた表面。
曇った金属片。
落ちた欠片たち。
そこまで見て、エリアスの表情が変わった。
「自分で、削ったんですか。」
セラは少し身を縮めた。
縮める。
人間なら、肩をすぼめる動き。
セラにはまだうまくできない。
でも、少しできた。
「人間に、近付きたかった。」
エリアスは、落ちた欠片を見た。
小さな石の欠片。
セラから落ちたもの。
エリアスはそれを一つ拾った。
指先でそっと持つ。
まるで、大切なもののように。
セラはそれを見た。
エリアスが、セラの欠片を持っている。
小さな石。
セラからなくなったもの。
それを、エリアスが大事そうに持っている。
セラの中が不思議に浮いた。
「……痛かった、ですか?」
「痛くない。石だから。」
「でも。」
エリアスは欠片を見つめたまま言った。
「セラが、自分を削ってまで変わろうとしているのを見ると、僕は胸が苦しいです。」
胸が苦しい。
エリアスの胸。
心臓のある場所。
止まると死ぬもののある場所。
そこが苦しい。
好ましくない。
「エリアス、苦しい。好ましくない。」
「はい。」
「削る、だめ?」
エリアスはすぐには答えなかった。
セラは待った。
エリアスは欠片を手のひらに乗せたまま、長く黙った。
その沈黙の中に、怖いと、心配と、嬉しいが混じっているようだった。
やがて、エリアスは言った。
「だめ、と言いたいです。」
セラは沈んだ。
「でも、セラが変わろうとしている理由を知っているので、ただ止めるのも違う気がします。」
違う。
複雑。
「僕のために、変わろうとしているんですよね。」
エリアスの声は小さかった。
セラは頷く代わりに、ゆっくり目を下げた。
「エリアスが、困らないように。エリアスが、隠さなくていいように。エリアスの近くに、行けるように。人間に、近付きたい。」
エリアスは目を閉じた。
苦しそうだった。
でも、その口元は、ほんの少し震えていた。
嬉しいのかもしれない。
怖いのかもしれない。
分からない。
セラには、まだ全部は分からない。
その目には、怖いがあった。
痛そうなものもあった。
困るもあった。
けれど、それだけではなかった。
セラを見ている。
セラから目を逸らせない。
怖いのに、見ている。
苦しそうなのに、どこか嬉しそうに見える。
エリアスの中も、きっと複雑だった。
セラはそれに、少しだけ気付いた。
全部は分からない。
でも、エリアスの中で何かが大きく動いていることは分かった。
これは、嬉しい。
とても、好き。
エリアスが、好き。
エリアスはやがてゆっくりと口を開けた。
「……一人で削るのは、やめましょう。」
セラは沈んだ。
「だめ?」
「全部だめではありません。でも、一人では危ないです。どこを削ればいいか、僕も一緒に考えます。」
セラはエリアスを見た。
一緒に。
エリアスが一緒に考える。
人間に近付く方法を。
セラの体を。
セラの姿を。
エリアスが見て、考えて、教える。
セラは浮いた。
とても浮いた。
「エリアス、一緒?」
「はい。一緒です。」
「好ましい。とても。」
エリアスは少し笑った。
「僕も、好ましいです。」
同じ。
好ましい。
エリアスは、セラから落ちた欠片たちを布に包んだ。
「これは、僕が持っていてもいいですか。」
セラは驚いた。
「欠片?」
「はい。捨てるのは、何だか嫌なので。」
嫌。
好ましくないに近い言葉。
エリアスは、セラの欠片を捨てるのが嫌。
セラの中がまた不思議に浮いた。
「持つ、好ましい?」
「はい。僕にとっては。」
「じゃあ、いい。」
エリアスは布を丁寧に鞄へしまった。
セラはそれを見ていた。
エリアスが、セラの欠片を持って帰る。
エリアスの家へ。
エリアスの外へ。
セラは外へ出られない。
でも、セラの欠片はエリアスと一緒に外へ行く。
本当はセラ全部が行きたい。
でもそれはできない。
欠片だけが行く。
複雑。
セラは、また複雑を体の中に抱えていた。




