第二十三話 石は、体を削った
セラは、人間に近付きたかった。
人間であれば。
エリアスのもっと近くに立てる。
エリアスの友人たちが見ても、悲鳴を上げない。
エリアスが、隠さなくて済む。
エリアスが、嘘をつかなくて済む。
人間であれば。
人間であれば。
その言葉は、セラの中で何度も回った。
前のように、ただ「好ましい」と「好ましくない」だけではなかった。
今は、もっと入り組んでいる。
エリアスに見てほしい。
でも、怖がられたくない。
エリアスに近付きたい。
でも、困らせたくない。
エリアスに触れたい。
でも、傷付けたくない。
エリアスだけに知っていてほしい。
でも、エリアスを苦しい秘密の中に閉じ込めたくない。
セラの中は、たくさんの言葉でいっぱいになっていた。
それのどの言葉も、エリアスがくれたものだった。
エリアスがくれた言葉で、セラは考える。
エリアスがくれた言葉で、セラは自分を変えようとする。
それもまた、エリアスに近付くことのように、セラには思えた。
だからセラは、洞窟の奥で、自分の体を削った。
ごり。
ごり。
ごり。
石の手で、石の体を擦る。
丸すぎるところを削る。
出っ張りすぎるところを削る。
足りないところを押し出そうとする。
首、肩、胸、腰、腕、足。
エリアスの立ち方や動き方を何度も見ていた。
エリアスの友人たちも見た。
人間には、頭があり、首があり、肩があり、胴があり、腕があり、足がある。
セラにも、それらしいものはできた。
けれど、違う。
まだ違う。
首は太く、硬い。
肩はごつごつしている。
腕は長すぎる。
指は曲がりすぎている。
足は細く、重い体に合っていない。
口はまだ横に裂けている。
歯は白く、鋭く、隠しきれない。
目は大きすぎる。
瞼は作れたけれど、瞬きは下手だった。
これは人間ではない。
人間になりたい。
セラは削った。
削って、削って、削った。
痛くはない。
石だから。
けれど、削るたびに、小さな欠片が落ちた。
その欠片が地面に落ちる音がした。
から。
ころ。
かつん。
その音を聞くと、少し沈んだ。
何かがなくなる音だと思った。
自分を守るなにか。
でも、人間に近付くなら、もうなくなってもいい。
丸い石のままでは、エリアスの隣には行けない。
だから、なくなってもいい。
そう思った。
けれど、やはり少し怖かった。
セラは、自分が少し怖いと思っていることに気付いた。
変わるのは好ましい。
エリアスがすごいと言うから。
エリアスが上手と言うから。
エリアスが見てくれるから。
でも、変わりすぎたらどうなるのだろう。
セラは石でなくなるのだろうか。
人間にもなれず、石でもなくなったら、何になるのだろう。
怪物。
結局、怪物だ。
その言葉が浮かんだ。
セラは手を止めた。
洞窟は静かだった。
水が落ちる。ぽたり。
風が入口を撫でる。
葉が揺れる。
遠くで鳥が鳴く。
エリアスはまだ来ない。
セラは、洞窟の隅に置かれた錆びた金属片を見た。
エリアスが前に持ってきたものだった。
昔の皿か、盾の欠片かもしれないと言っていた。
表面は曇っていたが、ところどころ光を返す。
セラはその前まで、ゆっくり歩いた。
約束。
エリアスがいない時は、あまり歩かない。
でも、これは歩く練習ではない。
自分を見るため。
人間に近付くため。
必要。
セラはそう思った。
金属片の前にしゃがむ。
しゃがむ、もエリアスが教えてくれた動きだった。
膝に似た部分を曲げる。
体を下げる。
手を地面につく。
倒れないように。
ゆっくり。
セラは曇った金属に顔を近付けた。
そこに、何かが映っていた。
ぼんやりとした形。
暗い洞窟の奥。
石の顔。
ぎょろりとした目。
少し短くなった口。
それでもまだ見える歯。
ひびの入った頬のようなもの。
人間のように作ろうとした首。
人間のように削った肩。
けれど、映っているものはとうてい人間ではなかった。
人間に似ようとしている石のような塊だった。
石でもなく、人間でもない。
エリアスの友人たちが見たら、どうするだろう。
悲鳴を上げる。
逃げる。
石を投げる。
エリアスに、あれは何だと聞く。
エリアスは困る。
エリアスはセラを隠そうとする。
エリアスはまた嘘をつく。
セラは沈んだ。
今まで、自分の姿をあまり知らなかった。
エリアスが怖がることは知っていた。
だから、自分はきっと怖いのだろうとは思っていた。
でも、今、少しだけ分かった。
これは怖い。
エリアスが怖がるのは、正しい。
それなのに、エリアスは来てくれる。
それなのに、エリアスは触ってくれる。
それなのに、エリアスはセラを大事だと言った。
セラの中が、痛いように浮いた。
嬉しい。
でも、苦しい。
見てほしい。
でも、見られたくない。
エリアスに見てほしい。
けれど、この姿を見られるのは嫌だ。
嫌いではない。
怖いとも違う。
好ましくないだけでもない。
何だろう。
セラは、自分の顔を金属片に映したまま、じっとしていた。
見てほしい。
見られたくない。
エリアスに近付きたい。
でも、この姿で近付くのは苦しい。
セラは、自分から目を逸らした。
金属片を見たくなかった。
自分の姿を見たくなかった。
でも、見なければ変われない。
人間に近付けない。
セラはまた金属片を見た。
そして、口を少し閉じる練習をした。
歯を隠す。
唇のようなものを作る。
唇。
エリアスの口にある柔らかいもの。
笑う時に動くもの。
クッキーを食べる時に開くもの。
言葉を作るもの。
セラの口は、石の裂け目だった。
柔らかくない。
でも、少しずつ端を削れば、短くできる。
エリアスが怖がらない形に近付ける。
セラは石の指で、口の端を擦った。
ごり。
ごり。
小さな欠片が落ちた。
歯が少し隠れた。
まだ怖い。
でも、少しだけ短くなった。
次は目。
金属片の中の顔には、大きな目が二つ、正面についていた。
ぎょろりとした大きな目。
少し大きすぎる。
硬い手でそっと奥へ押し込む。
ぐぐぐ、と何かが埋まっていく音がする。
金属片の中で、二つの目がこちらを見ていた。
まだ少し大きい。
まだ怖い。
でもさきほどよりは小さい。
目を大きく開きすぎない。
エリアスは前に言った。
急に目が動くと怖い。
じっと見つめすぎると、少し緊張すると。
緊張。
体が硬くなること。
セラはエリアスを硬くしたくない。
だから、見つめすぎない練習をしなければならない。
でも、エリアスを見たい。
ずっと見たい。
目を逸らすのは好ましくない。
でも、エリアスが緊張するのも好ましくない。
セラは金属片の中の自分の目を見た。
目を少し細める。
ゆっくり動かす。
右。
左。
止める。
少し下を見る。
また上げる。
人間は、ずっと見ない。
時々目を逸らす。
エリアスも、セラが好きと言うと目を逸らす。
赤くなって、横を見る。
それは逃げるとは違う。
嫌いでもない。
見ないのに、そこにいる。
人間は難しい。
形だけではない。
目の動かし方。
口の開け方。
手の置き方。
距離。
間。
声の大きさ。
言葉の順番。
人間になるには、体を変えるだけでは足りない。
思考も、人間に近付けなければならない。
セラはそう思った。
思ったことが、前より長かった。
前なら、足りない、と思った。
すると体が変わった。
今は、何が足りないのかを考える。
体だけでは足りないと考える。
エリアスを怖がらせないには、見た目だけではなく、動き方も、言葉も、欲しがり方も変えなければならない。
欲しがり方。
セラはその言葉を自分の中で見つけた。
エリアスに触れたい。
エリアスを見たい。
エリアスを待ちたい。
エリアスに来てほしい。
エリアスだけがいい。
それらは全部、きっと、欲しいに近い。
でも、欲しいまま動くと、エリアスが怖がる。
急に手を伸ばしてしまうかもしれない。
追いかけたくなるかもしれない。
約束を覚えているのに、近付きすぎてしまうかもしれない。
欲しいは危ない。
だから、人間らしく欲しがる練習も必要。
セラは、そう考えた。
人間は、欲しいものをすぐ掴まない。
少なくとも、エリアスはそうだった。
欲しいものがあっても、暫く考えてからと言っていた。
クッキーを食べる時も、すぐに全部は食べない。
セラに触る時は、触ってもいいですかと聞く。
人間は、欲しい時に、聞く。
待つ。
我慢する。
言葉を使う。
セラもそうする。
人間に。
人間であれば。
どこか温かい風が吹いた。
エリアスの匂いがした。
セラの中が浮いた。
来る。
エリアスが来る。
セラは慌てて、いつもの場所に戻ろうとした。
けれど、体が前と少し違う。
首が動く。
肩が動く。
口が短くなった。
足の重さも変わった。
立つ時の感覚が違う。
セラは一歩踏み出し、少しよろけた。
倒れそうになる。
手をつく。
止まる。
エリアスが来る。
見られる。
今の姿を見られる。
見てほしい。
でも、見られたくない。
またあの苦しいものが来た。
セラは洞窟の奥に戻りきれず、金属片のそばで固まっていた。




