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第二十二話 石は、人間を覚えた

 セラはクッキーを飲み込んだ。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「人間は、外を歩ける。」


 エリアスはセラの言葉に、動きを止めた。

 緑の目が、少し不思議そうにセラを見詰める。


「人間は、エリアスと街や川へ行く。」


「……はい。」


「友人は、人間。」


「そう、ですね。」


「エリアスも、人間。」


「はい。」


「セラは、石。」


 エリアスは黙った。

 セラは自分で言って、沈んだ。


 石。

 もう、ただの石ではない。


 でも、石。


 洞窟の中にいる。

 外へ出られない。

 エリアスの友人ではない。

 人間ではない。


 エリアスは紙を置いた。

 真面目な顔をしていた。


「セラは、ただの石ではありません。」


「でも、人間じゃない。」


 セラは言った。

 エリアスはすぐには答えなかった。


 セラは続けた。


「エリアスの友人、人間。外を歩く。エリアスと笑う。街へ行く。川へ行く。セラ、洞窟。外、だめ。人間じゃない。」


 言葉は前より長くなっていた。

 考えも、前より遠くまで行っていた。

 けれど、そのぶん沈む場所も深くなっていた。


 エリアスはセラを見ていた。

 その目は、怖くない。


 けれど、痛そうだった。

 痛いのはセラではない。

 エリアスの方かもしれない。


「……セラ。」


 エリアスが名前を呼んだ。

 セラは少し浮いた。


「僕は、セラが石だから、ここへ来ているわけではありません。」


 セラはエリアスを見た。


「石、珍しい。」


「珍しいです。もちろん、とても珍しいです。」


 エリアスは少し苦笑した。


「最初は、珍しいから知りたいと思いました。怖かったけれど、知りたかった。」


 知りたい。

 エリアスがセラを知りたかった。

 好ましい。


「でも、今はそれだけではありません。」


「それだけじゃない?」


「はい。」


 エリアスは少し言葉を探した。


 眉を寄せる。

 考える顔。

 セラはその顔が好きだった。


「セラは、僕の話を聞いてくれます。僕が教えたことを覚えてくれます。約束を守ろうとしてくれます。僕が困らないように、葉を退かそうとしてくれます。怖がらせないように、我慢してくれます。」


 エリアスの声は、ゆっくりだった。

 一つずつ、セラに渡すような声。


「それは、ただ珍しいからではなくて……僕は、そういうセラといるのが楽しいんです。とても、特別で、好ましい時間だと思っています。」


 セラといるのが楽しい。

 特別。

 好ましい。

 セラは少し浮いた。


 でも、まだ沈んでいるものは消えなかった。


「でも、人間じゃない。」


 セラは言った。

 エリアスは困った顔をした。


「人間であることが、そんなに大事ですか?」


 人間であること。

 セラは考えた。


 人間なら、エリアスの隣を歩ける。

 エリアスの友人に見つかっても、悲鳴を上げられないかもしれない。

 エリアスに、ただの石と言わせなくていいかもしれない。

 エリアスに、隠させなくていいかもしれない。

 エリアスが困らないかもしれない。

 外へ出られるかもしれない。

 街へ行けるかもしれない。

 川へ行けるかもしれない。

 エリアスと同じものになれるかもしれない。


 同じ。

 エリアスと同じ。

 それは、大事。


「大事。」


 セラは言った。

 エリアスは息を止めたようだった。


「人間、大事。エリアスと同じ。外へ行ける。友人、怖がらない。エリアス、困らない。」


 エリアスは何か言おうとした。

 でも、言葉が出てこないようだった。


 セラは初めて、自分の言葉がエリアスを黙らせることがあると知った。

 前は、ただ怖がらせて黙らせた。


 今は少し違う。

 エリアスは考えている。

 何かを感じている。

 セラにはまだ名前が分からない何か。


「……僕は、今のセラも大事です。」


 エリアスはようやく言った。


 今のセラ。

 石のセラ。

 耳と目と鼻と口と手と足のある石。

 怖いセラ。

 人間ではないセラ。


 エリアスは、それも大事だと言った。

 セラは浮いた。

 けれど、同時に沈んだ。


 今のセラが大事。

 それは好ましい。


 でも、今のままでは、エリアスと同じになれない。


 複雑。

 とても複雑。


 夕方が近付いた。

 エリアスは帰らなければならなかった。

 今日は友人たちと来たせいで、いつもより時間が短かった。

 それも少し好ましくなかった。


 エリアスは立ち上がり、鞄を肩にかけた。

 洞窟の入口で振り向いた。


「明日も来ます。」


「明日。」


「はい。明日は、必ず一人で来ます。」


 一人で。

 エリアスだけ。

 セラは浮いた。


「エリアスだけ。」


「はい。僕だけです。」


 エリアスは少し笑った。

 その笑顔は、セラを安心させようとしているようだった。

 そして、少しだけ、自分自身も安心しているようだった。


「秘密は守ります。」


 秘密。

 エリアスだけ。

 セラだけ。

 好ましい。


「秘密、守る。」


 セラは答えた。

 エリアスは頷き、洞窟を出ていった。


 セラはしばらく動かなかった。


 男の子たちの足音はもうない。

 笑い声もない。

 知らない匂いも薄くなっていく。


 けれど、完全には消えない。

 洞窟に残っている。


 エリアスとセラの場所に、他の人間の匂いが残っている。

 好ましくない。


 セラは立ち上がった。

 約束。

 エリアスがいない時は、あまり歩かない。


 けれど、今日は歩いた。

 約束を、少しだけ破っている。

 セラはそれを分かっていた。


 けれど、知らない人間の匂いが残ったままなのは、もっと好ましくなかった。


 ゆっくり。

 少しだけ。

 洞窟の中を。

 エリアスの友人たちが歩いた場所へ。


 そこで足を止めた。

 人間の足跡が、土に残っていた。


 エリアスの足跡。

 友人の足跡。

 大きいもの。

 小さいもの。

 乱れたもの。


 セラはそれを見た。


 足跡。

 歩いた跡。

 人間がそこにいた証。


 セラも足を持っている。

 けれど、セラの足跡は違う。


 ごつごつしている。

 重い。

 深く残る。

 人間のものではない。


 セラは自分の足跡を見た。

 人間ではない跡。

 石の跡。


 これは、きっと。

 怪物の跡。


 怪物。

 その言葉は、エリアスが読んでくれた本の中にあった。


 人を襲うもの。

 怖がられるもの。

 恐ろしいもの。

 暗いところにいるもの。

 姿がおかしいもの。


 セラは、自分は怪物に近いのかもしれないと思った。

 その考えは、冷たく沈んだ。


 エリアスは大事だと言った。

 けれど、友人たちが見たらどう思うだろう。


 悲鳴を上げる。

 逃げる。

 石を叩く。

 エリアスを責める。

 エリアスが困る。


 ――人間に近付かなければ。


 人間に。


 怪物ではなく。

 人間に。


 セラは思った。

 その言葉は、突然はっきりと形になった。


 人間。

 エリアスと同じものに。

 エリアスの友人たちと同じものに。

 見ても悲鳴を上げられないものに。

 エリアスが隠さなくていいものに。

 エリアスの隣を歩けるものに。


 セラは自分の体を見ようとした。


 丸く、ごつごつした体。

 ぎょろりとした目。

 裂けた口。

 白い歯。

 ひくひく動く鼻。

 長く曲がった手。

 細く頼りない足。


 人間ではない。

 エリアスとは違う。

 友人たちとも違う。


 このままでは駄目だ。

 セラは、そう思った。


 駄目。

 好ましくないより、もっと強い言葉。

 変えなければならないもの。


 セラは手を自分の体に当てた。


 硬い。

 ごつごつしている。

 エリアスの手とは違う。

 人間の皮膚とは違う。


 セラはその表面を擦った。

 かり。

 石の手が、石の体を擦る。


 小さな欠片が落ちた。

 痛くない。

 石だから。


 もっと。

 もっと滑らかに。

 もっと人間の形に。


 人間に。

 人間に。

 人間に。


 セラは体を擦った。


 手で、胸のような場所を。

 腹のような場所を。

 肩のような場所を。


 人間はこうだろうか。

 エリアスはこうだっただろうか。

 友人たちはこうだっただろうか。


 頭、首、肩、腕、胸、腰、足。


 セラの体には、まだ境目が少ない。

 丸い石に、耳と鼻の穴と、目、口、手足がついているだけ。

 人間ではない。


 もっと分ける。

 もっと細くする。

 もっと立つ形にする。

 もっとエリアスと同じにする。


 セラは擦った。


 ごり。

 ごり。

 ごり。


 洞窟の奥に、石を削る音が響いた。


 もし誰かが見ていたら、きっと恐ろしかった。

 目と口と手足のある石が、暗い洞窟の中で、自分の体を削りながら、ただ一つの言葉を繰り返しているのだから。


 人間に。

 人間に。

 人間に。


 けれど、セラはただただ必死だった。


 エリアスを困らせたくなかった。

 エリアスのもっと近くに行きたかった。

 エリアスに、ただの石と言わせたくなかった。


 エリアスの秘密のままでもいい。

 でも、エリアスが苦しい秘密にしたくなかった。


 セラは、人間に近付きたかった。

 エリアスと同じ世界に、少しでも近付きたかった。


 やがて、体の奥が熱いような、重いような感じになった。

 石なのに。

 熱いはずがないのに。


 ごつごつした表面に、細いひびが入った。

 ひびは手で削った場所から広がり、ゆっくり形を変えていく。


 丸すぎた体が、ほんの少しくびれる。

 肩のような出っ張りができる。

 首のような細い部分が少し生まれる。

 目の位置が、わずかに整う。

 口の裂け目が、ほんの少し短くなる。


 それでも、まだ怖い。

 まだ石。

 まだ人間ではない。


 でも、前より少しだけ、人の形に近い。


 セラはそれを自分ではよく見られなかった。

 けれど、体の重さの位置が少し変わったのは分かった。


 立ち方が変わった。

 手の付け根が変わった。

 首のような場所が動く。


 セラは、少しだけ顔を下げることができた。


 顔。

 自分に顔がある。


 前は、目と口と鼻のついた石だった。

 今は、少しだけ顔に近いものができた。


 セラは入口を見た。

 エリアスが明日来る。


 エリアスは気付くだろうか。

 すごいと言うだろうか。

 怖がるだろうか。

 人間に近いと、喜ぶだろうか。


 セラは分からなかった。


 分からない。

 怖い。

 でも、エリアスが困らないためなら、きっと必要だ。


 必要。

 人間に近付くことは、必要。


 エリアスのために。

 セラのために。

 たぶん、両方のために。


 洞窟の奥で、セラは静かに立っていた。

 もう、ただ丸い石ではなかった。

 でも決して人間には見えない。


 怪物だった。

 少しだけ、人間の形に似ている怪物。


 人間に。

 人間に。

 人間に。


 セラは、じっとその言葉を抱えたまま、明日を待った。

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