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第二十一話 石は、特別を知った

 セラはゆっくり目を動かした。


 洞窟にはもう誰もいない。

 エリアスもいない。

 男の子たちもいない。


 棚の上は少し乱れていた。

 工具の位置が変わっている。

 羽根が落ちている。

 金具の入った箱が斜めになっている。

 入口近くの葉も、また散っている。


 セラは立ち上がろうとした。

 なぜか、足が震えた。


 エリアスがいない時に、あまり歩かない約束。


 けれど、棚が乱れている。

 エリアスのものが散らかっている。

 エリアスが戻った時、困るかもしれない。


 困らせたくない。

 セラは迷った。


 約束。

 エリアスがいる時に歩く。

 でも、エリアスの場所をきれいにしたい。

 どちらもエリアスのため。


 どちらも大事。

 大事が二つある。

 ぶつかっている。


 セラの中は、前よりずっと複雑になっていた。


 少し前なら、ただ動いていたかもしれない。

 もっと前なら、何も考えなかった。

 今は考える。


 約束を破れば、エリアスは心配する。

 けれど、棚が乱れたままなら、エリアスは困る。


 心配と困る。

 どちらがより好ましくないのだろう。


 セラはしばらく考えた。

 そして、歩かずに手を伸ばすことにした。


 手が届く範囲だけ。

 歩かない。

 約束は守る。

 直せるものだけ直す。


 セラは長い手を伸ばした。

 羽根を拾う。

 棚に戻す。

 工具を少し動かす。


 金具の箱は遠い。

 届かない。


 葉も遠い。

 届かない。


 でも、歩かない。

 我慢。


 セラは手の届くものだけ直した。

 その後、洞窟の奥でじっとしていた。

 エリアスを待った。


 待つ。

 今日はいつもより沈む待つだった。


 エリアスは男の子たちといる。

 外にいる。

 笑っているだろうか。


 川へ行くと言っていた。


 川。

 水がたくさんある場所。


 エリアスはそこを歩く。

 男の子たちと話す。

 笑う。

 走る。


 セラの知らないエリアス。

 セラの知らない声。

 セラの知らない顔。

 セラの知らない匂い。


 セラは、そのことを考えた。


 エリアスには、外がある。

 友人がいる。

 家がある。

 父上がいる。

 母上がいる。

 弟と妹がいる。

 学校がある。

 セラの知らないたくさんのものがある。


 セラには何があるだろう。


 洞窟。

 エリアスが触れた場所。

 エリアスの言葉。

 セラの名前。

 それだけ。


 セラには、エリアスがたくさんある。

 けれど、エリアスには、セラ以外もたくさんある。


 そのことを、セラは初めて深く知った。


 知る。

 好ましいことが多い。

 でも、この知るは好ましくなかった。


 石の中のどこかが、重くなった。

 セラに心臓はない。

 でも、そこに何かがある気がした。


 怖いでもない。

 痛いでもない。

 でも、少し痛いに近い。


 エリアスが他の人間といるのは、好ましくない。

 けれど、エリアスが笑うなら、好ましい。

 でも、セラのいないところで笑うのは、好ましくない。


 複雑。

 とても複雑。


 セラは、複雑を抱えきれなくなりそうだった。


 やがて、エリアスは戻ってきた。

 夕方近く、一人で。

 男の子たちは、別の場所へ行ったらしい。


 セラは匂いで先に分かった。

 エリアスの匂い。

 川の匂い。

 それから、少しだけ知らない人間たちの匂いもついている。


 セラは沈んだ。

 エリアスの匂いに、他の匂いが混じっている。

 好ましくない。

 はっきり、好ましくない。


 でも、エリアスが戻ってきた。

 好ましい。


 エリアスは洞窟に入ると、まず奥を見た。

 セラがいるのを確認した。

 そして、ほっとした顔をした。


 セラの中が少し浮いた。

 エリアスは、セラがいると安心する。

 好ましい。


「ごめんなさい、セラ。」


 エリアスは言った。


 ごめん。

 謝る言葉。

 悪かったと思う時の言葉。


 セラは口を少し開けた。


「エリアス、悪い?」


「跡をつけられていました。まさか洞窟まで来るとは思わなくて。」


 跡をつける。

 知らない言葉。

 でも、たぶん男の子たちがエリアスの後ろから来たことだろう。


「エリアス、困った。」


「はい。かなり困りました。」


「怖い?」


「少し。セラが見つかったらどうしようかと思いました。」


 セラが見つかる。

 男の子たちに。

 知らない人間に。


 セラは体の奥が固くなった。


「見つかる、好ましくない。」


「はい。今は、まだ。」


 今は。

 まだ。


 エリアスはいつか、見つかってもいいと思っているのだろうか。

 セラは少し沈んだ。


 見つかったら、どうなるのだろう。


 エリアスだけではなくなる。

 エリアスだけがセラを知っているのではなくなる。

 秘密ではなくなる。

 好ましくない。


「エリアスだけがいい。」


 セラは言った。

 エリアスは動きを止めた。


「何がですか。」


「セラを知るの。エリアスだけがいい。」


 エリアスの顔が赤くなった。

 けれど、すぐには答えなかった。


 エリアスは、困った時に赤くなる。

 照れた時も。

 それから、少し嬉しい時にも。


 セラはその違いを少しずつ見分けられるようになっていた。

 今の赤には、困ったと嬉しいが混じっている。


 エリアスは目を逸らした。


「……僕も、今はそう思います。」


 今は。

 また、今は。


 けれど、僕も。

 エリアスも同じ。

 セラを知るのはエリアスだけがいい。

 好ましい。

 とても好ましい。

 セラは浮いた。


 でも、今は、という言葉が少し引っかかった。

 今は。

 いつか変わるのだろうか。


 エリアスは少し気まずそうに棚を見た。


「あ、直してくれたんですか?」


「手、届くところだけ。」


 エリアスは棚の羽根を見た。

 木の工具を見た。

 そして、セラを見た。


「歩きましたか?」


 セラはすぐに答えた。


「歩いてない。約束。手だけ。」


 エリアスの顔が柔らかくなった。


「約束を守ってくれたんですね。」


「守った。」


「ありがとうございます。」


 ありがとう。

 セラは少し浮いた。


 エリアスは近付いて、いつもの場所に座った。

 いつもより少し疲れているようだった。


 川で遊んだのだろうか。

 友人たちと走ったのだろうか。


 セラの知らない時間。

 セラの知らないエリアス。


 セラは、それを聞きたいような、聞きたくないような気がした。


 知りたい。

 でも、知ると沈むかもしれない。


 知りたくない。

 でも、エリアスのことなら知りたい。


 複雑。


「友人。」


 セラは言った。

 エリアスが顔を上げた。


「はい?」


「友人。エリアスの友人。」


「ああ……さっきの?」


「うん。」


 エリアスは少し考えた。


「同じ学校に通っています。時々、一緒に街や川へ行ったりします。」


 同じ、学校、一緒に、街、川。


 セラは沈んだ。


「エリアス、友人と、楽しい?」


 エリアスは答える前に、少しセラを見た。

 その目には、迷いがあった。

 正直に言うか、セラを気遣うか。


 セラはそれが少し分かった。

 前より、エリアスの顔が分かる。


 知能が上がる。

 言葉が増える。

 でも、分かることが増えると、痛いものも増える。


 エリアスは言った。


「楽しい時も、あります。」


 楽しい。

 好ましいこと。

 エリアスは友人といて楽しい。

 セラは沈んだ。


 けれど、エリアスは続けた。


「でも、ずっと一緒だと疲れます。僕は一人で考えたり、作ったり、ここで記録を書いたりする時間も好きです。」


 ここ。

 セラのいる洞窟。

 エリアスはここも好き。

 セラは少し浮いた。


「セラといるのは?」


 セラが聞くと、エリアスは赤くなった。

 はっきり赤くなった。


「……楽しい、です。」


 楽しい。

 セラといるのが楽しい。

 エリアスがそう言った。

 セラは大きく浮いた。


「友人より?」


 その言葉は、自然に出た。

 エリアスは固まった。

 セラは、出してから、今の言葉が少し難しいものだと分かった。


 比べる。

 前にエリアスが教えてくれた言葉。


 どちらが大きいか。

 どちらが好きか。

 どちらが好ましいか。


 友人より。

 セラの方が。

 そう聞いた。


 エリアスは困っていた。

 困る。

 好ましくない。


 でも、答えを知りたい。

 セラは黙って待った。


 エリアスは長く考えた。

 そして、少しだけ視線を落として言った。


「違う、楽しさです。」


 違う。

 比べられないということだろうか。

 セラは沈んだ。


 エリアスは慌てて続けた。


「でも、セラといる時間は、特別です。」


 特別。

 新しい言葉。


「とくべつ?」


「他とは違って、大事だということです。」


 他とは違う。

 大事。


 セラといる時間は特別。

 友人と違う。

 街と違う。

 川と違う。

 エリアスにとって、セラは特別。


 セラの中が、ゆっくり浮いた。

 沈んでいたものが、温かくなるように浮いた。


「特別、好ましい。」


「はい。好ましいです。」


 エリアスは少し照れたように笑った。

 セラはその顔を見た。


 好き。

 エリアス、好き。

 言いたかった。


 けれど、今言うと、エリアスがもっと赤くなるかもしれない。

 それは好ましい。

 でも、困るかもしれない。


 少し迷って、セラは言わなかった。

 我慢。

 我慢は好ましい。


 エリアスは小さく咳払いすると、クッキーの包みを開いた。


「あ……すみません。崩れてしまいました。」


「崩れる?」


「形が壊れることです。」


 形が壊れる。

 セラはクッキーの欠片を見た。


 小さい。

 食べやすい。


「崩れる。クッキー、小さい。食べやすい。」


 エリアスは笑った。


「それならよかった。」


 セラはクッキーを食べた。

 甘い、おいしい、エリアスが笑う。

 好ましい。


 けれど、セラの中にはまだ、男の子たちの声が残っていた。


 エリアスの友人。

 エリアスと同じもの。

 洞窟の外にいるもの。

 エリアスと笑えるもの。

 エリアスと街へ行けるもの。

 エリアスと川へ行けるもの。


 人間。


 でもセラは。


 セラは、石だった。


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