第二十話 石は、他の人間を知った
セラは、歩く練習をした。
ただし、エリアスがいる時だけ。
それは約束だった。
エリアスがいる時に歩く。
エリアスがいない時は、あまり歩かない。
無理をしない。
欠けない。
倒れない。
エリアスを心配させない。
約束。
セラは約束を守った。
エリアスが来ると、歩く練習をした。
一歩。
二歩。
止まる。
倒れそうになったら、エリアスが待ってと言う。
待つ、ゆっくり、右、左、止まって、上手です。
エリアスの言葉で、セラは動く。
エリアスの声が来る。
セラの足が動く。
エリアスが支える。
セラは倒れない。
その繰り返しは、とても好ましかった。
エリアスの言葉が、セラの体の中へ入る。
そして、セラの体を動かす。
まるで、エリアスの声で、セラが少し作り直されているようだった。
セラはそれをまだうまく言えなかった。
けれど、とても好ましいと思った。
エリアスも、その時間が好きなようだった。
最初は怖がっていた足も、少しずつ記録の対象になった。
エリアスは足の角度を描いた。
歩幅を測った。
指のように割れた足先を見て、首を傾げた。
「やはり、人間の足とは違いますね。」
人間。
セラはその言葉を聞いた。
エリアスは時々、人間と言う。
自分や、父上や、母上や、友人たちをまとめて言う時に使う。
人間。
エリアスは人間。
セラは石。
違う。
「人間の足は、もっと柔らかいです。骨があって、筋肉があって、皮膚があります。」
骨、筋肉、皮膚。
知らない言葉。
エリアスは自分の足を見せて説明した。
膝の曲がり方や、足首の動きや、体重のかけ方を見せた。
立つ、曲がる、伸びる、歩く。
とても上手。
エリアスは歩くのが上手。
セラはまだ下手。
エリアスは笑った。
「僕だって、生まれた時から歩けたわけではありませんよ。」
生まれた。
その言葉も、まだよく分からない。
「赤ん坊の頃は歩けませんでした。何度も転んで、少しずつ覚えたんです。」
赤ん坊、転ぶ、覚える、少しずつ。
エリアスも、最初は歩けなかった。
セラと同じ。
「エリアスも、下手だった?」
「そうですね。たぶん、かなり下手だったと思います。」
「同じ。」
セラが言うと、エリアスは笑った。
「はい。同じです。」
同じ。
その言葉は、今でもセラの中を浮かせる。
石と人間。
違う。
でも、歩けないところから覚えるのは同じ。
転ぶのも同じ。
上手になるのも同じ。
少し同じ。
とても好ましい。
セラは歩く練習を好きになった。
エリアスが見ている。
エリアスが教える。
エリアスが褒める。
エリアスが支える。
セラができることが増える。
増える。
好ましい。
けれど、洞窟の入口から外には決して出なかった。
セラは歩けるようになった。
だから、洞窟の中なら、奥から入口近くまで行ける。
葉を退かせる。
棚の近くまで行ける。
エリアスが落とした紙を拾える。
エリアスにも、ゆっくりなら近付ける。
でも、入口の外へは出なかった。
エリアスは何度か言った。
「少し外を見てみませんか。」
外。
その言葉を聞くと、セラの奥が暗く、深く沈んだ。
入口の向こうは明るい。
森がある。
空がある。
エリアスが来る道がある。
好ましいはずだった。
けれど、足が入口の線を越えようとすると、体の奥で何かが固くなる。
出てはいけない。
絶対に。
その言葉が、どこかから来る。
エリアスの声ではない。
セラの声でもない。
けれど、確かにある。
石の内側、深いところに。
出てはいけない。
セラは首を振る代わりに、体を小さく揺らした。
「外、だめ。」
「怖いですか?」
エリアスが聞いた。
怖い。
セラは考えた。
これは、本当に、怖いなのだろうか。
エリアスが来なくなるのが怖い。
エリアスが傷付くのが怖い。
それとは少し違う。
もっと古い。
もっと暗い。
もっと深い。
「分からない。でも、だめ。」
セラは答えた。
エリアスは無理には誘わなかった。
「では、今はやめておきましょう。」
セラは少し安心した。
エリアスは、待ってくれる。
急にしない。
無理にしない。
好ましい。
だからセラは、洞窟の中で歩いた。
洞窟の中で、上手になった。
エリアスのために。
エリアスの声の届く場所で。
ある日、エリアスはいつもより遅く来た。
光はすでに少し傾いていた。
セラは洞窟の奥で待っていた。
足は止めていた。
手も止めていた。
口は閉じていた。
耳は入口を向いていた。
鼻は風を探っていた。
その風の中に、エリアスの匂いが混じった。
来る。
セラの中が浮いた。
けれど、その匂いの中に、別の匂いもあった。
一つではない。
二つ。
三つ。
もっと。
足音も、いつもと違った。
エリアスの足音。
それに重なる、別の足音。
軽いもの。
重いもの。
速いもの。
小石を蹴るもの。
笑い声。
エリアスではない声。
セラは固まった。
誰かいる。
エリアス以外。
エリアスだけではない。
足音が近付く。
声が近付く。
「こっちだろ、エリアス!」
「待てよ。勝手に入るな。」
エリアスの声だった。
少し慌てている。
好ましくない。
「何だよ、辺境伯様の調査中の場所でもないんだろ?いいじゃん。」
「わ!本当に洞窟だ。暗っ!」
「お前、最近付き合い悪いと思ってたら、こんな山奥に一人で来てたのか?」
「てか、ちょっと怖くない?なんか、祭壇とかありそうだな。」
「変なこと言うな。」
知らない声。
知らない匂い。
知らない足音。
たくさん。
セラの中が沈んだ。
怖い。
これは怖い。
いつもの怖いとは違う。
外の怖いに少し似ている。
知らないものが、洞窟に入ってくる。
セラとエリアスの秘密の場所に入ってくる。
秘密。
誰にも言わないこと。
エリアスだけ。
セラだけ。
それが壊れる。
好ましくない。
とても好ましくない。
エリアスが入口に現れた。
顔が強張っていた。
その後ろから、男の子たちが三人入ってきた。
一人は背が高い。
一人は丸い顔。
一人は小柄で、よく笑う。
全員、人間だった。
人間。
エリアスと同じ。
けれど、エリアスではない。
セラは洞窟の奥で動かなかった。
幸い、いつもと同じ場所に座っていた。
洞窟の一番奥。
真昼でなければ光も届かない、暗いところ。
ただの石のふりができるかもしれない。
ただの石。
耳のない石。
目のない石。
鼻のない石。
口のない石。
手のない石。
足のない石。
そんなものには、もう戻れない。
けれど、暗ければ分からないかもしれない。
セラは目を動かさなかった。
鼻の穴も止めた。
口を強く閉じた。
手も足も、体の影に寄せた。
エリアスが洞窟の真ん中で立ち止まった。
その立ち方は、セラと男の子たちの間に入るようだった。
守る。
エリアスが、セラを守っている。
好ましい。
けれど、エリアスの声は硬い。
好ましくない。
「これで満足したか。もう戻るぞ。」
「えー、せっかく来たのに。」
背の高い男の子が言った。
「何隠してるんだよ。」
「何も隠してない。」
エリアスはすぐに言った。
何も。
セラはその言葉を聞いた。
何も隠してない。
セラはいる。
でも、エリアスは何もと言った。
それは嘘だろうか。
嘘。
まだよく分からない言葉。
本当ではないことを言うこと。
エリアスは本当ではないことを言った。
セラを守るために。
秘密を守るために。
嘘は、好ましくないものだと思っていた。
でも、今の嘘は少し好ましい。
エリアスがセラを隠している。
エリアスだけが知っているセラを、他の人間に見せないようにしている。
好ましい。
でも、セラはいないと言われた。
少し沈む。
複雑。
男の子たちは洞窟の中を歩き回った。
棚を見た。
工具や木材を見た。
鳥の羽を見た。
釘や縄を手に取った。
悪いことをしているつもりはないらしかった。
ただ、声が大きく、動きが速く、セラとエリアスの場所を知らないだけだった。
けれど、それでも好ましくなかった。
セラの中がざわりとした。
それはエリアスが持ってきたもの。
エリアスが並べたもの。
エリアスが作ったもの。
エリアスの手が触れていたもの。
知らない人間が触る。
好ましくない。
とても、好ましくない。
「これ何だ?」
「触るな。」
エリアスの声が鋭くなった。
男の子は笑った。
「怒るなよ。お前、こういうガラクタ好きなのか?」
「学校では、全然そんな風に見えないのになー。」
「だよな!いつも涼しい顔して、剣術も馬術も学術も完璧なのに、なんと趣味が残念か?」
「よし、女子にも教えてやろうぜ!王子様の意外な顔って!」
「……くだらないこと言うな。」
ガラクタ。
分からない言葉たちの中で、一際大きく感じた。
セラはその言葉を聞いたことがある。
価値のないもの。
どうでもいいもの。
エリアスは大切なものと言う。
男の子はガラクタと言う。
同じもの。
でも、違う言葉。
セラの中が少し沈んだ。
エリアスの宝物は、ガラクタではない。
エリアスが好ましいと思うもの。
それはセラにも好ましいもの。
けれど、男の子は笑っている。
エリアスは困っている。
少し怒っている。
好ましくない。
セラの手が動きそうになった。
止めた。
動かさない。
知らない人間がいる。
動いたら、見つかる。
きっと、エリアスが困る。
我慢。
我慢は好ましい。
けれど、我慢は少し苦しい。
苦しい。
体ではなく、中が狭くなるような感じ。
セラは苦しかった。
小柄な男の子が、洞窟の奥を覗き込んだ。
「奥、何かある?」
セラの中が凍った。
凍る。
冷たいとは違う。
動けないこと。
怖いこと。
エリアスがすぐに前へ出た。
「ただの石だろ。奥は湿って滑るから行くな。」
ただの石。
セラはその言葉を聞いた。
ただの石。
前はそうだった。
何も考えない。
何も持たないただの石。
今のセラは、ただの石ではない。
でも、エリアスはそう言った。
たぶん、守るため。
秘密のため。
好ましい。
けれど、少し沈む。
エリアスに、ただの石と言われるのは、沈む。
セラには名前がある。
セラ。
エリアスがくれた名前。
ただの石ではない。
男の子たちはエリアスの棚を見て、洞窟を見て、ひとしきりはしゃいでいた。
一人が工具を振った。
エリアスが取り上げた。
一人が壁に何かを彫ろうとした。
エリアスが止めた。
一人が「ここで火を焚こうぜ」と言った。
エリアスが強く首を振った。
「煙で死ぬぞ。」
死ぬ。
好ましくない。
男の子たちは笑った。
エリアスは少しも笑わなかった。
エリアスが笑わない。
好ましくない。
セラはじっとしていた。
手も足も動かさない。
目も動かさない。
鼻もできるだけ動かさない。
でも、匂いは入ってくる。
知らない人間の匂い。
エリアスの匂いが、その中に混じって薄くなる。
好ましくない。
エリアスの匂いだけを受けたい。
エリアスの声だけを聞きたい。
エリアスの姿だけを見たい。
けれど、今はたくさんある。
多すぎる。
セラは、初めて「多い」を好ましくないと思った。
これまでは世界が増えるのは好ましかった。
光が増える。
声が増える。
匂いが増える。
言葉が増える。
できることが増える。
全部、好ましかった。
でも、今の増えるは違う。
エリアス以外が増える。
それは、好ましくない。
複雑。
いや、これは複雑ではなく、かなり好ましくない。
とても、嫌。
セラはそう思った。
やがて男の子の一人が言った。
「なあ、もう出ようぜ。川の方に行こう。」
「エリアスも来るよな!」
「辺境伯様の手伝いも今日は無いんだろ?」
エリアスは一瞬、洞窟の奥を見た。
セラを見た。
目が合いそうになった。
セラは動かなかった。
ただの石。
ただの石のふり。
エリアスの緑の目が、少しだけ揺れた。
ごめん、と言っているようだった。
でも声には出さなかった。
声に出したら、男の子たちが気付くから。
エリアスは言った。
「……分かった。少しだけな。」
少しだけ。
その言葉は、セラにとって大事な言葉だった。
触るのは少しだけ。
クッキーは少しだけ。
歩くのは少しだけ。
エリアスが外へ行くのも、少しだけなら、きっと戻ってくる。
たぶん。
エリアスは男の子たちと一緒に洞窟を出ていった。
足音が遠ざかる。
エリアスの足音。
他の足音。
笑い声。
エリアスではない声。
エリアスの声もそこに少し混じっている。
だんだん小さくなる。
匂いも薄くなる。
洞窟は静かになった。
セラは動かなかった。
動けなかった。
長い間、ただの石のふりをしていたから、体が固まっていた。
石なのに。
いつも固いのに。
今は、なぜかもっと固かった。




