第十九話 石は、お祝いを知った
怖い。
きっと、怖い。
でも支えている。
守っている。
エリアスがセラを守っている。
セラはふと、それに気付いた。
守る。
自分がエリアスを守る。
それは好ましい。
でも、エリアスがセラを守るのも、好ましい。
とても。
「エリアス、守る?」
セラが言うと、エリアスは少し驚いた。
「え?」
「セラ、倒れないように。エリアス、守る。」
エリアスの顔が赤くなった。
それから、少し真面目になった。
「……そうですね。守っています。」
守っている。
エリアスが。
セラを。
セラはその言葉を体の奥にそっと置いた。
大事。
なくさない。
忘れない。
エリアスが守る。
エリアスが支える。
エリアスの手が温かい。
エリアスは、セラが安定したのを確認して、そっと手を離した。
セラは追わなかった。
我慢。
エリアスは頷いた。
「上手です。」
セラは浮いた。
その後、エリアスはセラに歩く練習を教えた。
少しだけ。
今日の練習は少しだけ。
それ以上は危ない。
無理はしない。
エリアスがそう言った。
セラは少し不満だった。
不満。
これも最近覚えた言葉。
もっとしたいのに、できない時の好ましくない感じ。
少しでは足りない。
もっと歩きたい。
もっとエリアスにすごいと言われたい。
でも、エリアスが危ないと言う。
エリアスが心配する。
心配は好ましくない。
だから、今日は少しだけ。
我慢。
セラは一歩踏み出した。
右足。
前へ。
重さを移す。
体が傾く。
手を広げる。
エリアスがすぐそばで見ている。
息を呑んでいる。
セラは左足を少し引き寄せた。
倒れない。
立っている。
一歩。
歩いた。
エリアスが笑った。
「できました!」
セラの中が、ぱっと明るくなった。
「できた。」
「はい。できました。」
「上手?」
「とても上手です。」
とても上手。
セラはそれを何度も体の中で繰り返した。
石の内側が大きく膨らんだ。
浮いた。
とても上手。
とても上手。
とても上手。
エリアスは、セラが浮きすぎて倒れそうになっているのを見て、慌てて言った。
「今日はここまでです。」
セラは沈んだ。
「もっと。」
「だめです。」
だめ。
好ましくない言葉。
けれど、エリアスが強く言う時は、大事なことが多い。
「倒れます。欠けます。僕が心配します。」
心配。
好ましくない。
「エリアス、心配、好ましくない。」
「はい。」
「じゃあ、やめる。」
エリアスはほっとした顔をした。
「ありがとうございます。」
ありがとう。
沈んでいたセラは、少し浮いた。
やめる。
我慢。
エリアスがありがとうと言う。
複雑。
エリアスはセラを、少しずつ洞窟の奥の方へ戻そうとした。
言葉で誘導する。
手で支える。
一歩。
止まる。
また一歩。
何度も倒れそうになった。
そのたびに、エリアスが声をかけた。
「待って。」
「ゆっくり。」
「右です。」
「止まって。」
「上手です。」
セラはその言葉を聞いて動いた。
エリアスの言葉で体を動かすことは、好ましかった。
エリアスの言うとおりにする。
エリアスの声の通りにすると、怖くない。
エリアスが笑う。
エリアスが上手と言う。
好ましい。
とても。
やっと洞窟の奥近くに戻ると、セラはそこに座るように体を下ろした。
座る。
それも今日、少し覚えた。
エリアスが手伝ってくれた。
エリアスは額に少し汗をかいていた。
涼しくなってきたのに。
セラを支えるのは、大変だったのかもしれない。
石は、きっと重い。
「エリアス、暑い?」
「少し。」
「触る?」
セラが聞くと、エリアスは一瞬固まった。
それから、笑った。
「今日は、セラが疲れているでしょう。」
「疲れる?」
「体をたくさん使って、休みたくなることです。」
休みたい。
それは分からない。
痛くない。
息も切れない。
石だから。
けれど、体の奥が少し重い気もする。
足がまだ震えている。
疲れる。
たぶん、これかもしれない。
「少し、疲れる。」
セラが言うと、エリアスは心配そうに眉を寄せた。
「やっぱり。今日はもう練習しないでくださいね。」
「しない。」
「約束です。」
「約束。」
エリアスは頷いた。
それから、包みを開いた。
クッキーがあった。
今日は小さく割られている。
「では、今日は歩けたお祝いに。食べてください。」
お祝い。
新しい言葉。
「おいわい?」
「嬉しいことがあった時に、喜ぶことです。」
嬉しいこと。
歩けた。
エリアスが笑った。
すごいと言った。
上手と言った。
それは嬉しいこと。
お祝い。
セラは小さなクッキーを食べた。
ゆっくり。
小さく。
エリアスを怖がらせないように。
甘い。
おいしい。
エリアスが笑う。
もっとおいしい。
「おいしい。」
セラが言うと、エリアスは嬉しそうに頷いた。
「よかったです。」
よかった。
好ましい。
夕方になった。
エリアスは帰る支度をした。
セラは沈んだ。
でも、今日は歩いた。
エリアスに支えられた。
エリアスがセラを守った。
お祝いを知った。
クッキーを食べた。
明日も練習できる。
だから、沈むだけではなかった。
エリアスは洞窟の入口へ向かった。
足元には、セラが集めた葉が端に寄せられていた。
エリアスはそれを見て、もう一度セラを振り返った。
「ありがとう、セラ。この場所をきれいにしてくれて。」
セラは浮いた。
「エリアス、困らない?」
「はい。困りません。」
「好ましい?」
「とても好ましいです。」
とても好ましい。
セラはその言葉を大事にした。
エリアスは少し考えた後、言った。
「でも、無理はしないこと。僕のいない時に、あまり歩かないこと。」
セラは少し沈んだ。
「歩く、だめ?」
「だめではありません。でも、危ないです。」
「エリアスがいる時、歩く?」
「はい。僕がいる時にしましょう。」
エリアスがいる時。
歩く。
エリアスの声で歩く。
エリアスが支える。
エリアスが上手と言う。
「エリアスがいる時、歩く。」
セラは言った。
エリアスは少し満足そうに頷いた。
「約束です。」
「約束。」
エリアスは笑った。
その笑顔には、安堵と、自分だけがセラを動かせることへの喜びがあるようだった。
セラが、エリアスの言葉で動くことを、好ましいと思っているのと同じ。
エリアスも、セラが自分の言葉で動くことが、きっと嬉しい。
姿も、動き方も違う。
でも同じ。
エリアスは手を振った。
「また明日。」
「また明日、エリアス。」
エリアスは洞窟を出ていった。
洞窟はまた静かになった。
セラは足を見ようとした。
うまく見えない。
けれど、そこにあるのは分かる。
足。
歩くもの。
エリアスに近付くもの。
エリアスがすごいと言ったもの。
セラは足を少し動かした。
かり、と地面を擦る音がした。
エリアスがいない時に、あまり歩かない約束。
だから、歩かない。
少し動かすだけ。
練習ではない。
確かめるだけ。
セラは自分にそう思った。
けれど、足は歩きたがっていた。
入口へ。
エリアスの消えた方へ。
もう少し。
もう少しだけ。
近付きたい。
それでも、セラは足を止めた。
約束。
エリアスがいる時に歩く。
我慢。
我慢は好ましい。
エリアスが上手と言う。
セラは、暗い洞窟の奥でじっとしていた。
目と耳と鼻と口と手と足のある石。
立てる石。
歩ける石。
少年の言葉で動く石。
もし誰かが見ていたら、やはり恐れただろう。
暗い洞窟の奥で、足と手の生えた石が、ぎょろりとした目で入口を見つめて、じっと動かずにいるのだから。
けれど、セラはただ約束を守っていただけだった。
エリアスが困らないように。
エリアスが心配しないように。
エリアスが明日も来るように。
足が増えた。
できることが増えた。
行ける場所が、少し増えた。
けれど、まだ洞窟の中だけ。
入口の向こうには、光がある。
森がある。
エリアスが帰っていく道がある。
セラは入口を見た。
外。
明るい。
広い。
知らない。
エリアスがいる場所。
エリアスが帰る場所。
セラにはもう足がある。
では、いつかあそこへ行けるのだろうか。
セラはそう考えた。
外へ。
その瞬間、体の奥のどこかが、ぎゅっと固くなった。
好ましくない。
外。
好ましくない。
とても好ましくない。
行きたい。
でも、怖い。
とても怖い。
なぜ。
分からない。
外は、エリアスがいる場所。
だから好ましいはず。
なのに、外へ出ることを考えると、石の奥が暗く、深く深く沈んだ。
出てはいけない。
ここから出てはいけない。
絶対に。
そんな言葉が、どこかから来た気がした。
誰の言葉だろう。
エリアスの言葉ではない。
セラの言葉でもない。
でも、そこにあった。
石の内側に。
出てはいけない。絶対に。
なぜかは分からない。
分からないことは、怖い。
とても怖い。
セラは入口を見つめていた。
けれど、セラの奥の暗いところは、入口の外を、もう見ないようにしていた。




