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第十八話 石は、立ち上がった

 セラはゆっくりと足を一つ前に出した。


 体が大きく揺れた。

 手を広げる。

 指がかちかち鳴る。


 もう一つの足を前へ出そうとする。


 ごとん。

 倒れた。


 でも、前より少しだけ前に倒れた。

 進んだ。

 ほんの少し。


 セラはまた起きた。


 立つ。

 一歩。

 倒れる。


 起きる。

 一歩。

 倒れる。


 起きる。

 二歩。

 倒れる。


 洞窟の奥から入口へ、少しずつ近付いた。


 セラの体は重い。

 足は細い。


 手は地面を擦る。

 目は葉を見ている。


 葉。

 入口近くに溜まった葉。

 エリアスが来る場所。

 きれいにする場所。


 セラは進んだ。

 ゆっくり。

 ゆっくり。

 何度も倒れて。

 何度も起きて。

 やっと、葉の近くまで来た。


 葉は乾いていた。

 茶色い。

 黄色い。

 赤い。

 軽い。


 セラは手を伸ばした。

 指で葉を集める。


 かさ。

 かさ。

 かさかさ。

 音がした。


 葉はすぐに動いた。

 クッキーより軽い。

 花より乾いている。

 セラはそれを入口の端へ寄せた。


 息はしない。

 汗もかかない。

 痛くもない。

 石だから。


 けれど、セラの中は忙しかった。


 エリアスが来る前に。

 エリアスが困らないように。


 きれい。

 きれいにする。


 エリアスの場所。

 エリアスだけが知っているセラの場所。

 大事な場所。


 セラは葉を集めた。

 やがて、入口近くの地面は少し見えるようになった。


 完全ではない。

 でも、前よりはきれい。

 前より好ましい。


 セラはそれを見て浮いた。


 できた。

 葉を退かした。


 歩いた。

 セラは歩いた。


 エリアスと同じ。

 同じ。

 少しだけ、同じ。


 その時、風の中に匂いが混じった。


 エリアス。

 セラの中が跳ねた。


 来る。

 エリアスが来る。


 まずい。

 まずい、という言葉はまだあまり分からなかった。

 でも、きっと今はまずいだった。


 セラはいつもの場所にいない。

 洞窟の奥ではない。

 入口近くにいる。

 立っている。

 足がある。


 エリアスは驚く。

 怖がる。


 でも、葉は退かした。

 好ましい。


 けれど、怖がる。

 好ましくない。


 戻らなければ。


 セラは振り返ろうとした。

 足が絡まった。

 体が大きく傾く。


 ごとん。

 倒れた。

 入口の近くで。


 ちょうど、エリアスが洞窟に入ってきた時だった。


「セラ?」


 エリアスの声がした。

 セラは倒れたまま、目だけを動かした。


 入口にエリアスが立っていた。


 金色の髪。

 緑の目。

 手にはクッキーの包み。

 肩には鞄。

 そして、顔は固まっていた。


 エリアスは、いつもの洞窟の奥を見ていなかった。

 入口近くで倒れているセラを見ていた。

 目と鼻と口と手と、そして足のある石。

 洞窟の奥にあるはずの石が、入口近くで倒れている。


 エリアスの顔から、少し色が消えた。


 怖い。

 きっと怖い。

 セラは沈んだ。


「ごめん。」


 セラはすぐに言った。

 小さく。

 歯を見せないように。


「ごめん。怖い?」


 エリアスは答えなかった。

 セラの足を見ていた。


 細く、ごつごつした二本の足。

 石の底から生えた、頼りない足。


 エリアスの喉が、ごくりと動いた。


「……足。」


「足。」


 セラは言った。


「できた。」


「どうして……。」


 エリアスの声は震えていた。


 怖い。

 でも、そこに別のものもあった。

 いつもの、知りたいの目。

 セラは少し浮いた。


 エリアスは怖い。

 でも知りたい。

 同じ。

 前と同じ。


「葉。」


 セラは言った。

 エリアスは目を瞬かせた。


「葉?」


「散らかる。エリアス、困る。だから、退かす。手、届かない。足、ほしい。できた。」


 エリアスは入口の地面を見た。

 端に集められた葉。

 かさかさと寄せられた赤や黄色の葉。

 そこから、セラが倒れている場所まで、地面に擦れた跡があった。


 石が這ったような跡。

 歩こうとして、倒れて、また起きた跡。


 エリアスはその跡を見た。

 それからセラを見た。


 セラの体の表面には、少し欠けた跡があった。

 土もついていた。

 葉もくっついていた。


 エリアスの表情が変わった。


 怖い。

 驚く。

 考える。

 それから、たぶん、心配。


「怪我は?」


 エリアスが言った。


 怪我。

 傷付くこと。

 痛いこと。


「痛くない。石だから。」


「でも、欠けています。」


「少し。大丈夫。」


 大丈夫。

 セラが使うと、エリアスは少し眉を寄せた。


「本当に?」


「うん。」


 エリアスはゆっくり近付いた。

 逃げない。

 怖いのに、近付いてくる。


 セラは動かなかった。

 倒れたまま。

 足も動かさない。

 手も動かさない。

 口も閉じる。


 エリアスが怖がらないように。


 エリアスはセラの前に膝をついた。

 とても近い。

 エリアスの匂いが強い。


 心配している。

 たぶん。


 エリアスはセラの欠けたところを見た。

 指で触れる前に、聞いた。


「触っても、いいですか?」


 触ってもいいですか。

 セラが教わった言葉。

 エリアスも使った。

 同じ。

 好ましい。


「いい。」


 エリアスの指が、セラの欠けたところに触れた。


 温かい。

 柔らかい。

 そこに触れられても、痛くない。

 でも、何かが浮く。


 エリアスが心配している。

 好ましくない。


 でも、エリアスが触れている。

 好ましい。

 複雑。


「本当に痛くないんですね。」


「痛くない。」


「でも、無理はしないでください。」


 無理。

 知らない言葉。


「むり?」


「できないことを、強くやりすぎることです。危ないです。」


 危ない。

 好ましくない。


「葉、退かしたかった。」


 セラは言った。


「エリアス、困らないように。」


 エリアスは黙った。


 セラの足。

 集められた葉。

 擦れた跡。

 欠けた体。


 それらを順に見た。

 それから、少しだけ笑った。


 困ったような、嬉しいような、苦しそうな笑いだった。

 セラには分からない笑い。

 とても複雑な笑い。


「……ありがとうございます。」


 ありがとう。

 セラは浮いた。


 エリアスがありがとうと言った。

 葉を退かしたことに。

 足ができたことに。

 歩いたことに。

 セラの行動に。


「エリアス、困らない?」


「はい。困りません。」


「好ましい?」


「とても、好ましいです。」


 とても。

 好ましい。


 セラは大きく浮いた。

 石の内側が膨らんだ。


 エリアスは、セラの足を見た。

 怖い顔ではない。


 緑の目が、明るくなっていく。

 少し危ないくらい、明るく。

 深く。


「すごい。」


 エリアスは小さく言った。


「本当に、すごい。セラは、自分で必要だと思ったものを作れるんですね。」


 必要。

 また新しい言葉。

 でも、今はそれよりも、エリアスの声が大事だった。


 すごい。

 上手よりも、少し強い言葉。

 エリアスの目が輝く言葉。

 セラは浮いた。


「すごい、好ましい。」


「はい。とても好ましいです。」


 エリアスは笑った。

 その笑顔は明るかった。

 嬉しそうだった。

 とても満足そうだった。


 その目は、前にも少し見たことがある気がした。


 エリアスだけが知っている。

 エリアスだけが見ている。

 エリアスだけが、セラに上手と言える。

 それを、エリアスも好ましいと思っている。


 たぶん。

 セラには、そう見えた。


 セラがいつもエリアスに思っていることと、似ていた。

 セラと同じ。


 エリアスにとって、セラはきっととても好ましくて、他とは違う。


 それが嬉しかった。

 とても嬉しかった。


 セラはエリアスの目をじっと見た。

 明るい。

 好ましい。


 セラが変わると、エリアスが喜ぶ。

 なら、変わるのは好ましい。

 きっと、とても好ましい。


 もっと上手になりたい。

 もっと歩きたい。

 もっと変わりたい。

 もっとエリアスにすごいと言われたい。


 セラはそう思った。


 エリアスは手を差し出した。


「起きられますか?」


 起きる。

 セラは足を動かそうとした。

 すぐに体が傾く。

 エリアスが少し慌てる。


「待って。急がないで。」


 待って。

 約束の言葉。

 セラはすぐ止まった。

 エリアスはほっと息を吐いた。


「まず、手をここについてください。」


 エリアスは地面を指した。

 セラは言われた通り、手をそこについた。


「次に、足を少し広げて。」


 足を広げる。

 セラはゆっくり動かした。

 かり、と地面を引っ掻く音がした。

 エリアスは少し怖そうにしながらも、じっと見ていた。


「そうです。ゆっくり。上手です。」


 上手。

 セラは浮いた。

 でも、今浮きすぎると倒れる。


 我慢。

 上手はあとで浮く。

 今は立つ。

 エリアスの声を聞く。


「体を起こして。手で支えて。そう、そのまま。」


 セラはエリアスの言葉の通りに動いた。


 エリアスが教える。

 セラができる。

 エリアスが上手と言う。

 セラはまた動く。

 とても好ましい。


 やがて、セラは立った。

 細い足で。

 ごつごつした体を支えて。

 少し揺れながら。


 エリアスはすぐ目の前にいた。

 近い。


 セラは、前より高くなった視界でエリアスを見た。

 いつもより、エリアスの顔が近い高さにあった。


 まだエリアスの方がずっとずっと高い。

 けれど、前より近い。


 セラはそれを好ましいと思った。


「立った。」


 セラは言った。

 エリアスは目を輝かせた。


「はい。立っています。すごいです、セラ。」


 すごい。

 セラ。

 エリアスの笑顔。


 セラは浮いた。

 体も浮きそうだった。


 けれど、足は頼りない。

 少しふらついた。


 エリアスが反射的に手を伸ばした。

 セラを支えようとした。

 その手が、セラの体に触れる。


 温かい。

 セラは止まった。


 エリアスが支えている。

 触れている。

 近い。

 とても近い。

 好ましい。


 けれど。

 エリアスの手はやはり僅かに震えていた。


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