↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/24

第十七話 石は、歩きたかった

 夏が終わりに近付いた。

 洞窟の外の匂いが、少し変わった。


 草の匂いは強いままだった。

 土の匂いも、まだ乾いていた。

 けれど、風の中に、少しだけ違うものが混じるようになった。


 乾いた葉。

 古い枝。

 冷えた水。


 季節を指す言葉はまだよく知らなかった。

 けれど、セラは変化を知っていた。


 光の角度が変わる。

 洞窟の入口に入る明るさが変わる。

 虫の声が変わる。

 エリアスが来る時間の影の長さが変わる。


 エリアスの服も変わる。

 薄いシャツだけの日が減り、上に一枚羽織る日が増えた。

 暑い、と言う日も少し減った。

 セラに触る時間も、少し減った。

 それは好ましくなかった。


 けれど、エリアスは来た。

 毎日来た。

 だから、やはり好ましい。


 セラは、もうたくさんのことを覚えた。


 エリアスは色々なことをセラに教えた。

 言葉、知識、物語、注意。

 セラ自身のことも。


 使える言葉も分かる言葉も増えた。

 でも、まだ全部は分からない。

 セラの中には、まだまだ言葉にできないものがたくさんあった。


 エリアスが近いと浮く。

 エリアスが離れると沈む。

 エリアスが笑うと明るくなる。

 エリアスが怖がると暗くなる。

 エリアスが赤くなると、もっと見たくなる。

 エリアスが髪を触らせてくれると、石の奥まで変になる。


 変。

 エリアスは、そういう時に変と言う。

 嫌ではないけれど、落ち着かないもの。


 セラの中にも、変が増えた。


 変は、好ましい時もある。

 好ましくない時もある。

 複雑。


 セラは複雑をよく覚えた。

 複雑を覚えると、世界は前より少し難しくなった。


 けれど、難しい世界には、エリアスがたくさんいた。

 だから、好ましい。

 難しいけど、とても好ましい。


 エリアスは、セラの記録を続けていた。


 紙に書く。

 時々、石の手を近くで見て、変わった指の形をなぞるように確認する。

 時々、口の形を少し見せてほしいと言う。


 その時、エリアスは少しだけ興奮した顔をする。

 怖い顔ではない。


 きれいな緑の目が光る。色が深くなる。

 頬が少し赤くなる。

 息が少し早くなる。


 セラの体が変わると、エリアスはその顔をする。

 セラは、その顔もとても好ましいと思うようになった。


「セラは、本当にすごいです。」


 エリアスはよくそう言った。


「昨日できなかったことが、今日は少しできる。昨日なかったものが、今日はある。こんなの、父上の本にも載っていません。」


 父上の本にも載っていない。

 それは、たぶん、とても珍しいという意味。


 珍しい。

 少ない。

 他にはない。

 セラだけ。

 エリアスだけが知っているセラ。


 エリアスの目は、その時とても輝いて見えた。

 セラはその輝きが好きだった。


 好き。

 その言葉も、セラはもう知っていた。


 好ましいより、少し強い。

 大事より、少し柔らかい。

 言うと、エリアスが赤くなる言葉。


 エリアスは、セラに好きという言葉を教えた時、少し困っていた。


「好ましい、に近いですが、もっといろいろあります。」


「いろいろ?」


「はい。食べ物が好き。花が好き。場所が好き。人が好き。全部、少しずつ違います。」


「エリアス、好き。」


 セラはすぐに言った。

 エリアスは赤くなった。


「……そういうことを、すぐ言うんですね。」


「ちがう?」


「違わない、と思います。たぶん。」


「たぶん。」


「はい。たぶん、違いません。」


 エリアスはそう言った。

 嫌ではない顔だった。

 だから、セラは覚えた。


 エリアス、好き。

 言うと、エリアスが赤くなる。

 好ましい。


 それから時々、セラは言った。


「エリアス、好き。」


 エリアスはそのたびに困った。

 困って、赤くなった。

 でも、少し嬉しそうだった。たぶん。


 ある日、洞窟の入口から葉が入ってきた。

 一枚。

 茶色い葉だった。

 風に押されて、かさり、と地面を滑った。


 葉。

 外にあるもの。

 木についているもの。

 緑だったもの。

 今は茶色い。

 乾いている。


 セラの耳には、かさ、と軽い音が届いた。

 鼻には、乾いた匂いが届いた。


 葉は洞窟の入口近くで止まった。

 セラからは遠い。

 手を伸ばしても届かない。


 セラは葉を見ていた。


 葉。

 好ましくも、好ましくなくもない。

 エリアスが来れば、踏むかもしれない。

 踏むと、かさ、と音がするかもしれない。

 それは少し面白いかもしれない。


 セラはそう思った。


 けれど、その後、もっと葉が入ってきた。

 三枚。

 五枚。

 黄色い葉。

 赤い葉。

 茶色い葉。


 入口から風が吹くたびに、葉は洞窟の中へ滑り込んだ。


 かさ。

 かさ。

 かさり。


 葉は入口の近くに溜まった。

 洞窟の地面が見えにくくなった。

 エリアスが作った作業場の入口が、少し散らかったように見えた。


 散らかる。

 これもエリアスから教わった言葉だった。

 物がばらばらで、きれいではないこと。


 エリアスは、棚が散らかると少し困る。

 紙が散らかると拾う。

 クッキーの欠片が落ちると集める。


 散らかる。

 好ましくないことが多い。


 洞窟の入口は、散らかっている。

 エリアスが見たら、困るかもしれない。


 困る。

 好ましくない。


 セラは手を伸ばした。


 長い手。

 ごつごつした手。硬い手。

 エリアスに触れる時は、ゆっくり動かす手。

 蜂を追い払った手。

 クッキーを受け取る手。


 葉の方へ伸ばす。

 届かない。


 指の先を伸ばす。

 届かない。


 もっと伸ばそうとする。

 石の肩のような場所が軋んだ。

 届かない。


 葉は入口の近く。

 セラは洞窟の奥。

 遠い。


 セラは手を戻した。

 かち。

 指が小さく鳴った。


 届かない。


 葉を退かしたい。

 洞窟をきれいにしたい。

 エリアスが困らないようにしたい。


 けれど、届かない。


 足りない。

 また、足りない。


 耳が足りなかった時、耳ができた。

 目が足りなかった時、目ができた。

 鼻が足りなかった時、鼻ができた。

 口が足りなかった時、口ができた。

 手が足りなかった時、手ができた。


 今は。

 今は、何が足りないのだろう。


 届きたい。

 入口まで行きたい。

 葉を退かしたい。

 エリアスが来る場所を、きれいにしたい。


 手は届かない。

 なら、体がそこへ行けばいい。


 けれど、セラは動けない。

 石だから。


 石は動かない。

 石は歩かない。

 石は洞窟の奥にある。


 ずっと。


 それが普通だった。

 けれど、今は普通では足りない。


 エリアスが来る。

 エリアスが葉を見る。

 困るかもしれない。


 困らせたくない。

 エリアスの場所を、きれいにしたい。


 行きたい。

 あそこへ。

 体ごと。

 行きたい。


 足があれば。

 セラは、そう思った。


 足。

 エリアスにあるもの。

 入口から洞窟へ来るもの。

 立つもの。

 歩くもの。

 走るもの。

 逃げるもの。


 エリアスは足で来る。

 足で帰る。


 足があるから、エリアスは外に行ける。

 家に行ける。

 山を歩ける。

 洞窟へ来られる。


 セラには足がない。

 だから、行けない。


 足があれば。

 足があれば、葉のところへ行ける。

 足があれば、エリアスの来る場所をきれいにできる。


 それに。

 足があれば、エリアスが帰る時、少しだけ近くまで行けるかもしれない。


 その考えが浮かんだ時、セラの中が大きく揺れた。


 エリアスが帰る時。

 いつも、入口から消える。

 匂いが薄くなる。

 足音が遠ざかる。

 見えなくなる。

 セラは見送るだけ。


 でも、足があれば。

 入口まで行ける。

 もう少し長く見ていられる。

 もう少し近くで、また明日を聞ける。


 好ましい。

 とても好ましい。


 足がほしい。

 セラは初めて、自分からはっきりそう思った。


 ほしい。欲しい。

 エリアスが教えた言葉。

 手に入れたいこと。

 自分のところに来てほしいこと。


 足がほしい。


 セラの体の底が、重く震えた。

 ごとり。

 洞窟の地面に、鈍い音が響いた。


 セラは自分の下を見ることができなかった。

 目は正面についている。

 でも、体の底で何かが動いているのは分かった。


 重い石の下。

 今まで地面にくっついていた場所。

 そこに、ひびが入った。


 ぴしり。

 ぴしり。


 石の底が割れる。


 セラは痛くなかった。

 石だから。


 けれど、音は好ましくなかった。

 何かが壊れている音。

 何かが出ようとしている音。


 それでも、止めなかった。


 足がほしい。

 届きたい。

 行きたい。


 エリアスのために。

 エリアスの場所をきれいにするために。

 エリアスをもう少し長く見るために。


 石の底から、細いものが出た。

 一つ。

 それから、もう一つ。


 手よりも短い。

 手よりも太い。

 けれど、体を支えるにはあまりにも頼りない。

 ごつごつして、曲がっていて、先が二つに分かれている。


 石の足だった。


 セラは足を見られなかった。

 けれど、あることは分かった。


 体の下に、新しいものがある。

 動かせるかもしれないもの。

 立つためのもの。

 歩くためのもの。


 セラは足を動かそうとした。

 どう動かせばいいのか分からなかった。


 エリアスの足は何度も見た。


 右。

 左。

 膝が曲がる。

 足の裏が地面につく。

 重さが移る。

 体が前へ進む。


 セラも同じにする。

 同じ。

 エリアスと同じ。


 セラは足に力を入れた。

 体が少し持ち上がった。

 すぐに崩れた。


 ごとん。

 洞窟に大きな音が響いた。

 セラの体が横に傾き、地面に倒れた。


 目の見える世界が斜めになった。

 耳に、硬い音が残った。

 鼻に、土の匂いが強く入った。

 口の中で歯がかちりと鳴った。


 セラは動かなかった。

 倒れた。


 倒れる。

 これは、前にエリアスが転んだ時に使った言葉。


 倒れる。

 好ましくない。


 でも、痛くはない。

 石だから。


 セラは少し考えた。


 足はできた。

 でも、立てない。

 立てないと歩けない。

 歩けないと葉を退かせない。

 葉を退かせないと、エリアスが困るかもしれない。


 好ましくない。


 もう一度。

 セラは足を動かした。


 体を起こそうとする。

 手も使う。

 長い手で地面を押す。

 足に力を入れる。


 ごり。

 石が地面を擦る。

 体が少し起きる。


 もう少し。

 もう少し。


 ごとん。

 また倒れた。


 世界が反対に傾いた。

 洞窟の天井が見えた。


 いつもあまり見ない場所。

 暗い岩。

 水の跡。

 小さな虫。


 セラはしばらく天井を見ていた。


 虫が這っている。

 虫は足がたくさんある。

 落ちない。


 上手。

 虫は上手。

 セラは下手。


 下手。

 それもエリアスが教えてくれた言葉だった。

 上手ではないこと。


 セラは下手。

 好ましくない。

 上手になりたい。


 練習。

 そう、練習。

 練習すれば、上手になる。

 エリアスがそう言った。


 セラはもう一度体を起こした。


 倒れる。

 起きる。

 倒れる。

 起きる。


 何度も繰り返した。

 石の体が地面にぶつかるたび、洞窟に鈍い音が響いた。


 表面の小さな欠片が少し落ちた。

 痛くはない。

 でも、欠けるのは少し好ましくない。

 エリアスが見たら、心配するかもしれない。


 心配。

 好ましくないことを考えて、相手のことを気にすること。


 エリアスに心配させたくない。

 でも、練習しないと上手にならない。


 セラはまた立とうとした。


 今度は手を先に地面につく。

 足を少し広げる。

 体をゆっくり起こす。


 急に動かさない。

 手も口も、急に動かすと怖い。

 足も、たぶん急に動かしてはいけない。


 ゆっくり。

 セラはそう思った。


 ゆっくり。

 エリアスがよく言う言葉。


 怖くないように。

 壊れないように。

 上手になるように。


 セラはゆっくり体を起こした。

 足が震えた。


 ごつごつした細い足が、重い石の体を支える。


 右に傾く。

 手で押さえる。

 左に傾く。

 足を踏ん張る。


 石の底が、ほんの少し地面から離れた。


 立った。

 セラは立った。


 洞窟の奥で、石が立っていた。

 目と鼻と口と手と足のある石。

 ごつごつした体を、細い足で支えている。


 もし誰かが見ていたら、きっと悲鳴を上げた。

 不気味で、恐ろしい、化け物と言うほかない姿だった。


 けれど、セラはただそこに立っていただけだった。


 葉を退かすために。


 エリアスが困らないように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。