第十六話 石は、温かさを待った
エリアスは少し何かを考えているようだった。
それから暫くして、そっと自分の手をセラの手の近くへ出した。
セラは驚いた。
エリアスの手。
温かい手。
触れたい手。
でも、食べない手。
傷付けない手。
エリアスは言った。
「急に掴まれるのは怖いです。でも、触れたい時は、言ってください。」
「言う?」
「はい。触ってもいいですか、と聞いてください。」
触ってもいいですか。
長い言葉。
大事な言葉。
セラは口の中で繰り返した。
「触っても、いいですか。」
「そうです。」
「言う。エリアスが、いいと言う。触る?」
「はい。そうしましょう。」
決まり。
約束。
セラは覚えた。
触りたい時は、掴まない。
急に手を伸ばさない。
触ってもいいですか、と聞く。
エリアスがいいと言ったら、ゆっくり触る。
だめと言ったら、我慢。
我慢は好ましい。
とても好ましい。
セラは少しだけ口を開けた。
「触っても、いいですか。」
エリアスの頬がまた赤くなった。
「……今、ですか。」
「うん。」
エリアスは困った顔をした。
でも、怖いだけではない。
複雑。
エリアスは少し迷ってから、そっと手を差し出した。
「少しだけなら。」
少しだけ。
セラはそれを覚えている。
全部ではない。
短い。
危なくないくらい。
セラは手をゆっくり動かした。
右。
少し上。
指を伸ばす。
止める。
エリアスの手に近付く。
エリアスは逃げない。
少し震えている。
でも、逃げない。
セラの指先が、エリアスの指に触れた。
こつん。
温かい。
柔らかい。
セラは力を入れなかった。
入れたら、壊れるかもしれない。
守る。
触れるのも守る。
壊さないように触る。
エリアスの指が、セラの硬い指にそっと乗った。
ほんの少し。
前より長い。
セラは浮いた。
浮きすぎて、何も考えられなくなりそうだった。
でも、必死に考える。
急に動かさない。
掴まない。
噛まない。
守る。
我慢。
上手。
エリアスが小さく言った。
「上手です。」
セラの中が、ぱっと明るくなった。
上手。
触るのが上手。
我慢が上手。
守るのが上手。
エリアスが触れてくれている。
好ましい。
とても、とても好ましい。
少しして、エリアスは手を離した。
セラは追わなかった。
我慢。
エリアスが離れる。
好ましくない。
でも、追わない。
我慢。
エリアスはそれを見て、また言った。
「上手です、セラ。」
セラは思った。
離れるのは好ましくない。
でも、我慢するとエリアスが上手と言う。
それは、好ましい。
複雑。
エリアスはセラの横に座り、もう一度身体を預けた。
肩と腕を、セラの冷たい体にそっと寄せる。
石の内側がぎしりと固まった。
浮く、膨らむだけではない。
石の内側はまた少し複雑になっている。
でも、これはとてもよい。
きっと、とても気持ちいい。
緑色の目が少し細められる。
セラの様子を伺うように見ている。
「……少しだけ、こうしていてもいいですか?」
セラはすぐに答えた。
「いい。」
エリアスは笑った。
「……早いですね。」
「近い、好ましい。エリアス、気持ちいい。好ましい。」
「……そうですか。」
エリアスの声は少し照れていた。頬も赤い。
でも、離れなかった。
セラは動かなかった。
エリアスが寄りかかっている。
温かい。
重みがある。
息がある。
匂いが近い。
心臓は聞こえない。
けれど、どこかで動いているのだろう。
止まっていない。
大丈夫。
守る。
セラは思った。
心臓がなくてよかった。
もしセラに心臓があったら、今、とても大きな音を立てたかもしれない。
エリアスに聞こえたかもしれない。
そうしたら、エリアスは怖がるかもしれない。
だから、心臓がなくてよかった。
セラは、石でよかったと少しだけ思った。
冷たいから、エリアスが近付く。
心臓がないから、音がしない。
硬いから、エリアスを支えられる。
石。
少し好ましい。
でも、温かいエリアスに触れていると、違うのも少し気になった。
エリアスの体は柔らかい。
温かい。
汗をかく。
息をする。
赤くなる。
セラと違う。
たくさん違う。
違うのは、少し好ましくない。
でも、違うから、エリアスは温かい。
違うから、触れるとこんなに浮く。
だから、違うも少し好ましい。
複雑。
セラは、複雑という言葉がますます好きになった。
しばらく、二人は黙っていた。
洞窟の外では、虫が鳴いている。
葉が揺れている。
水が、ぽたりと落ちる。
エリアスの呼吸が、すぐ近くで聞こえる。
セラはそれを全部聞いた。
でも、一番好ましいのはエリアスの呼吸だった。
吸う。
吐く。
生きている音。
セラはその音を覚えた。
エリアスはやがて、少し眠そうにゆっくりと瞬きした。
「涼しい……。」
声が柔らかい。
少し力が抜けている。
エリアスの頭が、ほんの少しセラに寄った。
金色の髪が、石の表面に触れた。
セラは完全に固まった。
髪。
光に似た髪。
何度も見ていた髪。
それが触れている。
柔らかい。
細い。
すぐ動く。
匂いがする。
セラは手を伸ばしそうになった。
髪に触れたい。
撫でたい。
指に絡めたい。
でも、危ない。
髪は細い。
引っ張ったら痛いかもしれない。
エリアスが怖がる。
だから、我慢。
セラは手を止めた。
指だけが少し震えた。
かち。
小さな音が鳴る。
エリアスが目を開けた。
「セラ?」
「我慢。」
セラは言った。
エリアスは少しだけ笑った。
「何を、我慢しているんですか。」
セラは迷った。
言ったら怖がるかもしれない。
でも、言わないとエリアスは分からない。
分からないと、また困るかもしれない。
「髪、触りたい。」
エリアスの顔が一気に赤くなった。
セラは沈んだ。
また間違えた。
「ごめん。触らない。髪、細い。危ない。痛い。守る。」
エリアスは赤い顔のまま、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……少しだけなら、いいです。」
セラは動かなかった。
言葉が入ってきたのに、すぐには動けなかった。
「いい?」
「はい。ただし、ゆっくりです。」
「ゆっくり。」
「引っ張らない。」
「引っ張らない。」
「少しだけ。」
「少しだけ。」
約束。
セラは手をゆっくり上げた。
指を開く。
硬い指。
ごつごつした指。
髪に触れるには、あまりにも不器用な指。
それでも、エリアスは逃げなかった。
セラの指先が、エリアスの髪に触れた。
柔らかい。
石にはない柔らかさだった。
花より細い。
布より軽い。
水より逃げやすい。
金色の髪が、セラの硬い指に少し絡んだ。
セラの中はまた固まった。
膨らんだまま、固まった。
好ましい。
とてもとても好ましい。
セラは動かさなかった。
触れたまま。
少しだけ。
エリアスはもう耳まで赤くなっていた。
「……もう、いいですか。」
セラはすぐに手を離した。
追わない。
掴まない。
我慢。
髪が指から離れた。
好ましくない。
でも、エリアスは痛がっていない。
怖がって逃げてもいない。
好ましい。
エリアスは小さく咳払いをした。
「上手、でした。」
上手。
セラは浮いた。
髪に触るのが上手。
我慢が上手。
エリアスが赤い。
エリアスが逃げない。
好ましい。
セラは、その赤い顔を見た。
暑い時の赤とは違う。
怖い時の白とも違う。
これは何だろう。
「エリアス、赤い。」
セラが言うと、エリアスはさらに赤くなった。
「……暑いからです。」
「暑い?」
「……少し。」
「セラ、冷たい。もっと触る?」
エリアスは口を開けたまま、しばらく固まった。
それから、目を逸らし、顔を片手で覆った。
「……セラは時々、すごく困ることを、言います。」
「困る、好ましくない?」
「好ましくないわけでは……ないです。」
エリアスの声は小さい。
セラは首を傾げる代わりに、目をゆっくり動かした。
「複雑?」
エリアスは少し頬を赤くしたまま笑った。
「はい。複雑です。」
複雑。
好ましい。
エリアスも複雑。
セラも複雑。
同じ。
しばらくして、エリアスは帰る支度を始めた。
セラの中が沈む。
でも、今日はたくさん触れた。
言葉も感触も、セラの中に残っている。
エリアスは鞄を肩にかけ、立ち上がった。
そして、少しだけ迷うようにセラを見た。
「今日のことも、秘密です。」
秘密。
エリアスだけ。
セラだけ。
好ましい。
「秘密。」
セラは答えた。
「セラは、誰にも言わない。」
エリアスは少し笑った。
「セラは、僕以外に話す相手がいませんからね。」
僕以外。
エリアス以外。
セラはその言葉を受けた。
エリアスしかいない。
それは、前は当たり前だった。
今は、少し違って聞こえた。
セラには、エリアスしかいない。
好ましい。
でも、エリアスは、違う。
セラだけではない。
少しだけ、沈む。
なぜだろう。
セラにはまだよく分からなかった。
エリアスは入口へ向かった。
夕方の光が金色の髪に当たる。
さっき触れた髪。
柔らかかった髪。
セラは手を動かしそうになって、止めた。
我慢。
上手。
エリアスは振り向いた。
「明日も来ます。」
浮く。
「明日。」
「はい。明日。」
「触る?」
エリアスは足を止めた。
少し赤くなった。
「……暑かったら。」
「暑い、好ましい?」
「普通は好ましくないです。」
「でも、暑いと、エリアス触る。好ましい。」
エリアスは困ったように笑った。
「そうですね。少しだけ、好ましいかもしれません。」
少しだけ好ましい。
セラは覚えた。
暑い。
好ましくない。
でも、触るなら少し好ましい。
また複雑。
エリアスは片手を振った。
「また明日、セラ。」
「また明日、エリアス。」
エリアスは洞窟を出ていった。
洞窟はまた静かになった。
セラは動かなかった。
ただ、エリアスが触れていた場所を感じていた。
手。
肩。
髪が触れたところ。
エリアスが寄りかかったところ。
もう温かくはない。
石だから、すぐに冷える。
でも、そこだけ違う気がした。
エリアスがいた場所。
大事な場所。
セラは手をゆっくり動かし、エリアスが触れたところに近付けた。
触る。
自分で、自分の体に触る。
硬い。
冷たい。
エリアスの手とは違う。
セラの手が触れても、あの温かいは戻らない。
好ましくない。
でも、覚えている。
温かい、柔らかい、近い、髪。
赤い顔、気持ちいい、我慢、上手、秘密。
セラは、それらを何度も思い出した。
忘れないように。
大事なものを、なくさないように。
もし誰かが見ていたら、きっと怖かった。
暗い洞窟の奥で、おかしな石が自分の体を撫でているのだから。
けれど、セラはただ思い出していただけだった。
エリアスの声を。
エリアスの髪を。
エリアスの温かさを。
エリアスだけ。
セラだけ。
秘密。
セラは明日を待った。
冷たい体は、明日の温かさを待っていた。




